スタジアムに詰めかけたサポーターは7600人。試合終了後のインタビューに集まった報道陣はなんと100人超。
彼らのお目当ては、まだ15歳の少年。FC東京所属の久保建英です。
2011年にバルセロナの下部組織に入団。以来、日本サッカー界の未来を担う神童として注目されていた彼が、11月5日の長野戦で、Jリーグ史上最年少出場記録を更新するとあって、観衆とマスコミが大挙して押し寄せたのです。

気の早いファンの中には「カタールW杯(2022年)の頃には中心選手になっているはず」と期待する声もあります。が、しかし。
将来を嘱望されていたものの、残念ながら大成しなかった選手など山ほど存在する事実を忘れてはなりません。今回、紹介する財前宣之もその一人です。

中田英寿「上手すぎて近寄り難かった」


今から遡ること23年前の1993年。U-17・日本代表において、財前宣之はチームの"王様"でした。
「初めにザイに認められるか否かで、代表における立場が決まった」と語ったのは、当時のチームメイトだった故・松田直樹。同じくU-17の同僚だった中田英寿も「上手すぎて近寄り難かった」と発言していることからも、その技量の高さ他を圧倒するものだったのでしょう。

こんな逸話があります。
当時のコーチ・小見幸雄氏は、全国から入れ替わり立ち代わりやってくる15歳程度の選手に用いる、ある画期的な指導法を考案しました。財前に手本を示させるのです。その様子を、中田や松田は体育座りして真剣に観ていたといいます。

U-17W杯のベストイレブンに選出された財前宣之


財前は、試合においても全能の王でした。背番号10を背負って出場した93年のFIFA U-17ワールドカップでは、ドリブル・パス・得点力、全てを兼ね備えた攻撃の要としてピッチを支配し、チームのベスト8進出に貢献。
個人としてもリーグ戦3試合全てでマンオブザマッチに輝き、日本人選手で唯一大会ベストイレブンに選出されるという快挙を成し遂げます。

この活躍もあって、95年8月には、セリエAのラツィオへ留学。
当時18歳。そのスキルはイタリアの地でも存分に発揮され、練習中、チームメイトでありこの時既に伊代表として活躍していたCBの名手、アレッサンドロ・ネスタにほとんどボールを奪わせず、周囲の度肝を抜いたといいます。

3度のじん帯断裂…現在はサッカースクールを開校


財前は日本代表を背負って立つ選手になる…。誰もがそう信じて疑いませんでした。しかし、そこからの彼の選手人生は、悲劇的なものへと暗転していきます。96年、スペイン1部リーグ、リーガ・エスパニョーラのログロニェスに移籍した財前は、練習中に左膝を負傷。
じん帯断裂の選手生命すら危ぶまれる大怪我でした。
日本に戻った彼は、焦りからか、通常であれば8ヶ月~1年はリハビリに専念しなければならないところ、わずか半年あまりで戦線に復帰。その無理がたたって2度目のじん帯断裂を経験。その傷を癒し、当時J2のベガルタ仙台へ移籍して臨んだ6戦目の試合中、3度目のじん帯断裂に見舞われてしまうのです。

その後、不屈の精神でまたしても復活し、35歳までプレーを続けた財前。結局、あれだけ将来を期待されたにも関わらず、ついに一度も、A代表へ召集されることはありませんでした。

今は仙台市内でサッカースクールを開校しているとのこと。「俺のような失敗をさせたくない」そんな思いで、子どもたちの指導にあたっているといいます。きっと自らの体験を活かし、素晴らしい指導者となるに違いありません。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonより中田英寿 鼓動 (幻冬舎文庫)