来年2017年は、江戸時代が終わりを告げた1867年の大政奉還から150年という節目の年に当たる。大政奉還から明治維新へと近代日本の幕開けにつながった重要な出来事と言えば、やはり1853年のペリー来航だろう。
中国メディア・湖南政協新聞網は「日本はどうしてペリーのために像を立てたのか」とする記事を掲載した。

 中国のメディアがどうしてそのような疑問を持つのか、ということが自体が疑問に思える話だが、それは、記事を読み進めていくことで理解できる。記事は、横須賀市海に面したペリー公園の最も目立つ場所に、伊藤博文揮毫の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」という文字が刻まれた記念碑が立っていると紹介。更に、公園内にはペリー記念館があり、その前にはペリーの彫像が立っているとした。

 そのうえで、1853年7月8日に浦賀沖に出現して東京湾に入り、開国を迫ったペリー率いる黒船の一行について「中国同様長年鎖国政策を取っていた日本にとっては紛れもなく侵略者であるのに、どうして日本はその像を建てたのか」と問題提起した。

 そして、当時日本は鎖国政策を取っていたものの「大清王朝のように耳目を塞いでいた訳ではなく」、長崎・出島への中国およびオランダ商船の入港を認め、その代わりに世界の情報をヒアリングしていたと説明。
アヘン戦争の情報もすぐに日本に伝わっており、それまで「来たら打ち払え」という姿勢だった幕府が1842年に薪水給与令を出すなど、鎖国政策を徐々に軟化させていったと解説した。

 また、日本の幕府はオランダ人からペリー来航を事前に知らされていたとも紹介。日本が自らの国力不足を悟り、抵抗しても中国の二の舞になることを知っていたことから、米国も過激な措置を取ることなく事を運んだと伝えている。

 外界の情勢を知ろうとせず失敗した清朝と、情勢を弁えて欧米列強に対応し、明治維新以後の改革を実現した日本について、「もし互いの場所が入れ替わっていたら、中国も日本のように鎖国を止めて近代化の流れに入っただろうか。それは明らかに不可能だ。歴史的にチャンスがなかったわけではなく、『黒船事件』の50年前に英国が北京に使節を送り通商を求めたのを、乾隆帝が断ったのだから」と論じた。
そして、もしこの時に国の門戸を開いていれば、最初の産業革命の波に乗れたし、その後の紆余曲折を避けることができたのだとした。

 つまり、日本でペリーは「侵略者」ではなく、日本の門戸を開くきっかけを作ってくれた、リスペクトすべき人物であるとの認識ゆえ、「ペリー公園」やら「ペリー記念碑」やらが作られる、ということだ。結果論ではあるが、日本は米国の要求を半ば素直に受け入れたことで急速に国力をつけることに成功し、「中華」のプライドを持つ中国大陸は非常に大きな回り道を余儀なくされた。このようにとてつもなく大きな差を作りうる政治的な判断の恐ろしさを、感じずにはいられない。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)


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