言うまでもないことだが、テレビ番組とは多くの人たちの手によって作られている。出演者、ディレクター、プロデューサー、カメラマン、音声スタッフ、美術、などなど。
6月29日放送の舞台は京都の清水寺であった。普通なら貸してもらえない珍しいシチュエーションだが、さだはそのことに感謝を述べつつも、番組のスタイルはいつもと少しも変わらない。
もちろんそこには、さだのしゃべり手としての稀有な能力がある。ミュージシャンでありながら、ライブでのトークだけを集めたCDボックスセットを発売しているだけあって、どんなハガキの内容に対しても面白く落とすのはさすがだ。しかし、それはさだの才能の為せるわざではない。
この番組は、一見するとAMラジオのテレビ版に似ているが、むしろやっていることは90分間のDJショーだ。視聴者からのハガキをレコードとして、本来の音楽的な意味でのディスク・ジョッキーの作業をさだは行っている。だから注目すべきは、さだのしゃべり手としての能力よりも、むしろ「選曲」のセンスだ。
たとえばこの日の番組では、東京都港区在住の稲見正子さん(65歳)によるハガキが読まれた。さだは「今夜も生でさだまさし。港区、稲見正子さん、65歳……」とハガキを読み上げたところで苦笑する。カメラに向かってハガキを見せると、その宛先の面には番組の名前が、もう一方の面には住所と氏名、年齢は書かれているのだが、そのほかのメッセージが書かれていない。「何かにご応募なさったんでしょうか?」と戸惑ったふりをしながらも、さだは港区の稲見正子さんだけに向かって「次はハガキのこの辺にご意見などお書きくださると、番組も盛り上がるという風に思います」と語りかける。
これは、明らかにアドリブではない。間違いなくさだは事前にこのハガキを読んでいるし、その上でこのハガキを選び、このタイミングで読もうと決めているはずだ。そしてそこにこそ、さだまさしというディスク・ジョッキーの選曲センスが現れている。バカにせず、嘲笑もせず、何もメッセージが書かれていないハガキを港区の稲見さんがわざわざ番組まで送ってきてくれたということに敬意を払いながら、その現象自体を楽しんでいる。それを稲見正子さんも含めた視聴者とともに、共有しようとしているのだ。
冒頭に戻れば、一般的にテレビ番組とは多くの人たちの手によって作られているわけだが、それでは本当の意味でテレビに必要なものとはなんだろうか? プロの技術だろうか? ある程度の予算だろうか? それとも時間なのか? どれも違う。
ここ最近、テレビとネットの断絶は延々深くなり続けている。テレビはネットユーザーに代表される視聴者層をあまりにも雑にカテゴライズし、ネット側はテレビに代表されるマスコミを単一化する。それが楽しいのならそれはそれでいいのだろうが、しかしわざわざせせこましく生きる必要もないだろう。テレビがある。視聴者がいる。それだけで、本当はとても豊かなのだ。『今夜も生でさだまさし』はこれまでも、これからも、その一番大切なことだけをきっとつぶやき続けるのだろう。NHK総合の深夜枠という、世界の中心であり、片隅でもあるという不思議な場所から。
【検証結果】
補足的になるが、この番組における出演者がさだまさしを含めて3人であるという点は重要だろう。さだひとりであれば、さだとハガキとでの意見のやり合いになってしまう。さだの隣にもうひとりだけいたとしても、さだはハガキ側か、もうひとり側のスタッフ側に立たなければならなくなる。だが、もうひとり加えて、現状のようにさだともう2人がいれば、敵対関係は必要なくなり、そこで雑談が生まれる。この番組は低予算、低人数をコンセプトとして求めているが、それでも出演者は3人いないといけないというのは重要な点だ。正しさはいらない。少なくともさだが求めているのは、正しさではなく、雑談そのものなのだろう。
(文=相沢直)
●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは @aizawaaa