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追悼・飯野賢治「人生をゲームに賭けた男」特別寄稿■飯田和敏(ゲームクリエイター)

2013年2月28日 11時00分
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『ゲーム―Super 27years Life』飯野賢治/講談社(1997年)

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飯野賢治の葬儀には沢山の人が集まっていた。久しぶりに懐かしい仲間たちとも再会することが出来たが、会釈の後、どうしても二の句が継げない。
突然の事にみんな言葉を失っていた。

いまぼくは飯野賢治とのはじめての会話を思い出そうとしている。

それは1996年頃だっただろう。
『Dの食卓』が評判になり、メディアへの露出がはじまったころだったので風貌は知っていた。
ぼくも『アクアノートの休日』が話題になって、それなりに顔や名前が知られはじめたころだった。

なんらかのイベントですれ違った時、ふーん、あいつか、と思った。幕張メッセだったと思う。
トレードマークのスーツ姿、ロン毛の巨漢。険しい表情で、ズンズンズンと歩いていた。彼もぼくに気づいたのだろう、一瞬だけ視線がばっちり合った。
その日はそれでおしまい。ぼくは一緒にゲームを作っていたメンバーに「飯野賢治を見たよ」と伝えた。
ぼくらはまだ20代だった。世の中に勝負を挑んだ作品が評価され、満足と戸惑いを感じていた。さー、これからだ!と張り切る一方で、ただのまぐれかもしれないという不安もあった。

後日、雑誌で対談することになった。それが初対面だったと思う。会話の内容は掲載誌に記録されているが、「おうおう、オマエか最近調子づいてるのは」「そっちこそはしゃぎ過ぎじゃないの」と水面下ではつばぜりあいが繰り広げれていたと思う。こうしたことは埼玉出身者(飯野)と千葉出身者(飯田)にはよくあるパターンだ。

それからしょっちゅう飯野賢治と会うようになった。イベント出演や雑誌対談、ラジオやテレビの収録などが多かったが、特別な用がないときもよく会っていた。ギターを弾いて遊んだりもしていた。
飯野賢治はマスコミにバンバン出まくるようになり、時代の寵児ともてはやされ、充分な制作資金を確保し、理想的なオフィスを作り、各界の実力者たちと一緒に仕事を展開していった。ぼくも飯野賢治ほどではないが活動の幅を拡げていった。満足や戸惑いは一旦棚に上げて、とにかくヤル。イケルとこまでイク。あえてムリなほうをノゾム。ぼくらだけじゃない。その頃の「ゲームクリエイター」はそうやってビデオゲームの表現領域を拡張していくことに夢中だった。

そうした衝動の原点が飯野賢治の早過ぎる自伝『ゲーム』(講談社)に記されている。殺風景な郊外。父親とのふたり暮らし。高校は退学してしまった。将来の展望なんて持ちようがない。どうしようもなく荒んでいく心を和らげたのがビデオゲームだった。

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