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新説、本能寺の変。光秀が信長を討った真の理由

2013年6月21日 11時00分

ライター情報:近藤正高

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「週刊 新発見!日本の歴史」創刊号(朝日新聞出版)
創刊号では、天下一統をめざした織田信長の活躍を中心に、種子島に鉄砲が伝来した1543年から本能寺の変の起こった1582年までをとりあげる。ただし、近年の研究では、鉄砲伝来は定説より1年早い1542年とする説が有力になっているという。これについても詳細は本誌を参照のほどを。

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戦国武将の織田信長が天下一統を目前に自害をとげた「本能寺の変」は、天正10年6月2日、西暦でいうと1582年6月21日に起こったとされる。中国地方攻略を進めていた羽柴(豊臣)秀吉に加勢するためわずかな側近だけを連れて向かった信長は、前々日より京都の本能寺に滞在していた。そこへ、同じく中国攻めに加わるため大軍を率いて出発した信長家臣の明智光秀が、突如として主君を討つべく急襲したのだ。

光秀はなぜ、信長に反旗を翻したのか? これについては、日本史における大きな謎の一つとして長らく議論が続いている。さきごろ朝日新聞出版より創刊された「週刊 新発見!日本の歴史」の第1号では、本能寺の変について、最新の学説にもとづいてその真相に迫っている。それによると、光秀が本能寺急襲におよんだその理由としては、以下のようなものがあげられるという。誌面では、それぞれの説の有力度が星の数(最大3つ)で示されていた。

・怨恨説 星2つ
・野望説 星2つ
・悲観説 星1つ
・四国政策説 星3つ
・黒幕説……朝廷説(星1.5つ)、足利義昭説(星1つ)、羽柴秀吉説(星0.5つ)、徳川家康説(星0.5つ)

このうち「怨恨説」は、面罵された、領地替えを命じられたなどの理由で、光秀が信長に恨みを抱いたという、ドラマやマンガなどでもおなじみの説である。だがこれを断定するにはまだ証拠が不十分なのか、星2つにとどまる。星3つをつけたのは「四国政策説」だけだが、この説は一般的にはなじみが薄いかもしれない。私も不勉強にも初めて知った。

信長はもともと、土佐(高知県)の長宗我部氏と友好関係を結び、同氏による四国制圧を容認していた。この関係の媒介役を担っていたのが光秀(とその重臣の斎藤利三)だった。それが1581年から翌年にかけて、信長は友好から対決へと四国政策の方針を転換、それまで長宗我部氏の窓口となっていた光秀はすっかり立場を失ってしまう。このことが彼に信長を討つ決意をさせたというのだ。

もちろん、これによってすべてが説明できるわけではない。光秀はあくまで自らの決意で信長を討ったのか。それとも、四国政策の転換から家臣団のなかで不利な立場となった光秀を、かつての主君ともいうべき足利義昭(室町幕府15代将軍)が、自らを中心に形成した信長包囲網に取りこんで信長殺害をうながしたのか。結論を出すには、さらなる史料の検討が必要のようである。

私も含めて、歴史学には門外漢ながら歴史は好きだという人は、えてして歴史にドラマやロマンを求めがちだ。

ライター情報

近藤正高

ライター。1976年生まれ。エキレビ!では歴史・科学からドラマ・アイドルまで手広く執筆。著書に『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)など。愛知県在住。

URL:Culture Vulture

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