きょう8月8日午後3時より、NHKの総合テレビにて天皇陛下がご自身のお気持ちを表されたビデオメッセージが放送される(番組自体の放送時間は14時30分~16時30分)。これは先月、「生前退位」の意向がにわかに報じられたのを受けてのものだ。
ビデオメッセージではおそらく「退位」という言葉や直接的な意向の表明は避けられるものとみられるが、はたしてどのようなお言葉が発せられるのか、注目されるところである。
天皇陛下「生前退位」意向の背景。本日午後3時ビデオメッセージ放送
河西秀哉『明仁天皇と戦後日本』(洋泉社・歴史新書y)。「生前退位」報道とほぼ時期を同じくして刊行された、気鋭の歴史学者による一冊。天皇陛下の皇太子時代からの足跡をたどりながら、戦後社会における天皇・皇室観の変遷を追う。

戦後も何度か提起された天皇退位


日本の歴史上、天皇の退位は89例あり、けっして少なくはない。だが、明治時代に制定された皇室典範では、皇位継承は天皇が崩御したときに限定され、生前に退位することはできなくなった。ここには、当時の体制において天皇は政治の中枢的な存在であったため、もし天皇と政府が対立した場合、天皇が退位を理由として政府に圧力をかけるようなことを防ぐという意図があったとされる(皇室事典編集委員会編『知っておきたい日本の皇室』角川ソフィア文庫)。生前退位の否定は、戦後、改定された皇室典範にも引き継がれ、現在まで存続されてきた。よって、もし天皇の意思による退位を可能にするなら、いうまでもなく、まず皇室典範を改定する必要がある。

しかし終戦後、昭和天皇の退位が提起されたことが少なくとも2度あった。
最初は1945年の敗戦前後、元首相の近衛文麿らによって提唱された。GHQ(占領軍)が日本の民主化を推し進めようとするなかで、天皇制廃止が求められることも予想された。これは、そうした動きに先手を打つべく、戦時中にあるべき君主として振る舞うことのできなかった昭和天皇に道徳的な責任を取らせることで、皇室・天皇という制度そのものの維持を図ろうというものであった。

そして2度目は、1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印され(発効は翌年4月)、連合国による占領から日本が独立する前後である。元東京帝国大学法学部教授の矢部貞治はこのとき、敗戦を導いたことへの昭和天皇の道徳的責任は存在するとして、皇室・天皇制の維持のため退位すべきだと主張した。矢部がとくに固執したのは、天皇自身の決断による「自主的退位」だった。


一方で、当時皇太子だった明仁親王が1951年12月に満18歳となり、皇室典範に定める皇太子・皇太孫の成年年齢を迎えるタイミングとも重なった。ここから矢部は、講和独立という国家の再出発と明仁親王の存在を根拠に、昭和天皇の退位を主張したのである。そこには天皇制の若返りという意図が込められていた。この退位論には、矢部の東大時代の教え子で、若き衆院議員だった中曽根康弘(のち首相)も同調し、国会で持論を展開している(ここまで河西秀哉『明仁天皇と戦後日本』洋泉社・歴史新書yを参照)。

かつて昭和天皇の退位を主張する人々に、その若さから皇位継承を期待された現在の天皇陛下が、82歳となったいま、自ら退位の意向を示されたということに、歴史のめぐりあわせの妙を感じずにはいられない。

体調不良でも休めないご公務


今回、「生前退位」が示唆された理由について、天皇陛下がご高齢から将来的に公務を十分にこなせなくなった場合を考えてのことと見る向きも多い。

天皇の仕事には、憲法で規定された「国事行為」のほか、それ以外の、「象徴」という地位に基づき公的な立場で行なう行為と解釈されている「公的行為」などに分類される。


国事行為の具体例としては、法律などの公布、首相の任命や大臣らの任免、外国大使らの信任状の認証などがあげられる。これら公務にあたって天皇は書類に印を押すなどする。こうした書類の決裁は「執務」と呼ばれ、法的な面からみてもっとも重要な天皇の仕事であり、国事行為そのものの大部分を占めるという(山本雅人『天皇陛下の全仕事』講談社現代新書)。

この執務には法律の公布をはじめ国務運営上重要なものが多数含まれるため、たとえば「風邪」などの体調を理由に休むこともできないし、ほかの行事を理由に遅らせることもできない。産経新聞の記者で長らく皇室取材を行なってきた山本雅人は、この事実について《天皇が生存中に退位できないことや、天皇に「定年」がなく、年齢にかかわらず生涯、国事行為などの仕事をし続けられないことと並び、特筆すべきことである》と書く(前掲『天皇陛下の全仕事』)。

国事行為や公的行為のほか、天皇の仕事には福祉施設の訪問など公的性格のある行事への出席、またコンサートや展覧会鑑賞、大相撲観戦など私的なものがある。
戦前の旧憲法下では重要な国事行為であった「宮中祭祀」も、現在ではあくまでも天皇の私的行為として行なわれている。これは、現行憲法では公務員が特定の宗教に関与することが禁じられ、祭祀に閣僚や宮内庁職員といった公務員がかかわれなくなったためだ。ただし天皇や皇室にとって「祭祀」は、いまなお重要な仕事であることに変わりはない。

2009年には宮内庁より「今後の御公務及び宮中祭祀の進め方について」という発表があった。これは天皇・皇后両陛下の高齢と健康上の不安を抱えていることを考慮し、その負担を少しでも軽減するという観点から、公務および宮中祭祀の進め方を検討し、調整・見直し事項を取りまとめたものである。このとき、公務そのものを削除するのではなく、年に50回以上行なわれていた勲章・褒章受章者の拝謁の回数・日程を縮減したり、訪日した外国要人の引見(招いて対面すること)の回数を若干減らしたりなどといった形で調整が図られた。
宮中祭祀についても、毎月1回、宮中三殿を拝礼する「旬祭」のうち5月、10月以外は代拝により行なうものと改められている(渡邉允『天皇家の執事 侍従長の十年半』文春文庫)。

それでも、前述のとおり公務そのものを削減したわけではないので、天皇陛下が忙しいことに変わりはない。ご高齢や健康上の不安から、仕事をいずれきちんとこなせなくなるのではないかと陛下が懸念を抱かれたとしても、まったく不思議ではないだろう。

多忙な日々のなか研究に従事


天皇陛下にハゼの研究者という一面があることはよく知られる。これは皇太子時代から続けて来られたことだが、1989年に天皇に即位して以降、多忙な公務から研究にはなかなか時間を割けなくなった。それを見越してのことか、ハゼ研究を始めるにあたって陛下はある選択をしていた。
1996年から11年間、侍従長を務めた渡邉允は次のように証言する。

《そもそも、陛下が生きた魚を観察する生態学ではなく、主に標本を使って研究する形態学を選ばれたのも、そうすれば研究に当てる時間を研究者が決めることができるので、公務の時間を侵すことなく、その合間に研究に従事できるというお考えからだとおっしゃったことがあります》(前掲『天皇家の執事』)

天皇陛下は即位後も、時間を見つけては自らの研究を続けてこられた一方で、皇居内の生物についての正確な記録を残していったらどうかと提案もしている。ここから、1996年より5年がかりで、国立科学博物館の研究者を中心に、吹上御苑とそれに続く道灌堀周辺で綿密な調査が行なわれた。この結果、皇居には3,638種の動物(タヌキやオオタカなどを含む)と1,366種の植物が生息することがあきらかとなった。2007年には、こうした吹上御苑の豊かな自然を人々にも見てもらいたいとの陛下の思いを受けて、200人近くの人々が参加して吹上御苑内に設けられたルートを歩く自然観察会が実現し、その後も続いている。

皇居は東京の真ん中に存在し、武蔵野の自然がいまなお残す広大な森でもある。もし天皇陛下が退位されたとして、その後は存分に研究に没頭するとともに、森の守り主としてそのすばらしさを国民に伝えながら日々をすごされるのではないか――。自然を愛されるそのお姿から、ついそんな夢想を抱いてしまう。
(近藤正高)