「保育園落ちた日本死ね」は流行語大賞にふさわしい【勝部元気のウェブ時評】

「2016ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに「保育園落ちた日本死ね」が入ったことが、世間で大きな波紋を広げているようです。

12月5日に放送された「白熱ライブ・ビビット」(TBS)のアンケートでは、賛成23%、反対77%と、反対が4分の3の多数を占める結果だったとのこと。
ネット上でも、タレントのつるの剛士氏が自身のTwitterに「こんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました」と書き込み、反対を表明していました。反対の人は主に以下3つの論拠から反対を表明しているようです。

(1)ブログの言葉遣い自体に反対している人
(2)「死ね」という言葉を流行語として選ぶことに反対している人
(3)国会議員が流行語大賞の受賞式に笑顔で出席したことに批判的な人

ただし、私は、この受賞は当然だと思います。むしろ外すほうがおかしいでしょう。今回はその理由を、上記3つに対して反論する形で論証していきたいと思います。


(1-1)結果が全てです


確かに「日本死ね」は汚い言葉かもしれません。私も基本的にそのような言葉は一切使わない人間です。ゲームでゲームオーバーした際に「死んじゃったー!」と言うのにも抵抗感を覚えるくらいです。

でもこの受賞は素直に嬉しいです。というのも、死ねと言いながら誰も死なせずに待機児童問題が一向に進まず"死にそうになっている日本社会"に多少の希望を与えたのですから。もちろん待機児童問題は依然未解決ですが、解決に向けてエンジンがかかったことは事実です。

汚い言葉は使わないに越したことはありませんが、これまで綺麗な言葉を使ったアプローチをしてきてもなかなか変わらなかったわけです。
つるの氏は自分の子供が保育園に落ちた際に、「政治を変えるため選挙に行こうと思った」と匿名ブログを批判するようなコメントを述べていますが、選挙という手段"だけ"で待機児童問題は前進したのでしょうか?

実際は、投票よりも匿名ブログによるムーブメントのほうが明らかに大きな成果を獲得しました。もちろん投票は民主主義において最も重要な意思表示であることは揺るがぬ原理原則ですが、民主主義を実現するのは、必ずしも投票という手段だけではありません。時として今回のような形の訴えのほうが、国民の声を政治に反映させることもできるのであり、投票を上回る効果を発揮することもあるわけです。

(1-2)礼儀をわきまえる被支配者になってはいけない


一部では「この言葉を認めることはヘイトスピーチを認めることと同義だ」という見解を述べている人がいますが、それは完全に別です。ベクトルが違います。国などの強大な権力機関に向かう「上向きの言葉」と、ヘイトスピーチのように社会的少数派や相対的な弱者に向かう「下向きの言葉」は、同列の基準で考えるべきものではありません。許容される言葉に傾斜があるのは当然です。


そもそも社会的弱者が窮状を訴える際に汚い言葉を使うなという考え方は、「お上に物申す時は頭を垂れよ」という権力者に都合の良い“礼儀"です。つまり、『オプリメ・オブリージュ※』であり、それ自体が社会的弱者への攻撃に当たります。激しくきつい表現で抵抗することを日本人は忌み嫌う傾向にありますが、そのスタンス自体が搾取する権力側の味方をしているわけです。
(※オプリメ・オブリージュ=「社会的強者には正しい行いをする義務がある」という意味の『ノブレス・オブリージュ』の対義語として作った「社会的弱者は弱者らしく慎ましく従順に振る舞え」という意味の造語)」

また、今回のような激しくきつい表現でも許容されるもう一つの理由は、個人ではなく総体(≒システム)に向かっているからです。『「日本」は私たち全てのこと、ゆえに「日本死ね」は私たち全てに死ねと言っているようなもの』という意見が散見されましたが、それは独自解釈に過ぎません。「日本」という言葉が何を意味するのかは人とTPOによって変わるものであり、ブログの文脈を読めば、日本という総体を指していることが分かるはずです。


「自分が苦しいからといって汚い言葉でやり返してはいけない」と説く人もいましたが、「個人対個人」の枠組みと、「個人対社会システム」というのはまるで違います。圧倒的な力を有するシステムが個人の自由な人生選択を無情に葬り去ろうとして来るわけですから、個人対個人の枠組みに当てはめられるような話ではないのです。

流行語大賞なんて些細な問題です


将来もしかしたら子供を持つ可能性もゼロではない私のような人間にとっては、ブログを書いた人も、それに付随して立ち上がった電子署名に署名をしてくださった人も、国会で取り上げた山尾志桜里議員も、山尾議員に進言した大学生のインターン生も、その要請を無視せず受け取って実際に対策を進めている塩崎厚労大臣も、みんな英雄です。

授賞式に参加したのは山尾議員ですが、それら全員がバトンを繋いだことで、待機児童問題が政治の中心課題に踊り出ることができました。一番の功績はやはりブログを書いた本人でしょうが、この受賞はこのムーブメントに携わった全ての人に送られたものだと私は受け取っています。もちろん待機児童問題は依然未解決ですが、解決に向けてエンジンがかかったことは事実であり、確実な「成果」があると言えます。それを称える意味でも受賞は妥当だと言えるでしょう。


つるの氏が「悲しい気持ちになりました」と述べていることに関しては、「たとえ成果があっても汚い言葉に受賞させるのは良くない」という主張なのかもしれません。私も高校生の頃に全校全学年参加の英単語テストで1位を取った時に、「見た目がチャラいから」という理由から、学校に登校しているのに「体調不良で欠席」と勝手にアナウンスされて受賞式に出させてもらえなかったことがあるのですが、つるの氏もその教師たちのように「成果を上げたか否かよりもふさわしいか否かのほうが評価基準として上回る」と考えているのでしょう。全く納得できないですが、が、仮にそうだとしても、受賞に注目するバランス感覚に疑問を感じるのです。

確かに私は受賞に関して成果を称えるものだという解釈を述べましたが、その一方で、この流行語大賞は所詮僅か6名の審査委員が選んだちょっとしたお祭りに過ぎません。しかも近年は二年連続で全く流行しているとは思えないような野球由来の言葉を大賞に選んでしまうくらい、公平性に疑問を感じる賞です。

たかが流行語大賞に汚い言葉が選ばれることが悲しいのですか? 子供が保育園に落ちて仕事を辞めざる得なくなる人が日本中に無数にいることが悲しいのではないのですか? 私は流行語大賞に何が選ばれるかという些細な問題に目を向けて、それよりも現実の人々が抱えているもっともっと巨大な悲しみから目を逸らしてしまっている人がいることが悲しいです。


現実に保活で失敗した親やその子供たちの悲しみの巨大さに比べれば、公平性に疑問の残る流行語大賞に何が選ばれようがはっきり言って足元にも及ばない些細な問題でしょう。そんなことで悲しむ暇が1秒でもあるのなら、待機児童問題に苦しめられる人々の悲しみに寄りそうほうに全部回してもらえないでしょうか?

(2-2)本当に子供のこと、考えていますか?


また、受賞に対して反対する人の中には、一部では子供への影響を懸念して受賞に反対の人もいるようです。

ですが、もし私が子供の立場なら「そんな言葉尻の問題よりも、片方の親が仕事を辞めざる得なくなって世帯収入が減るという現実的な問題のほうが私への影響めちゃくちゃ大きいから!受賞にケチつける暇あるなら待機児童解消が遅れているところにケチつけてよ!」と叫びたいです。つまり、「同情するなら金をくれ」です。

もちろんお金があれば必ずしも子供は幸せというわけではないですが、子供にとっては世帯収入の多寡によって自分が受けられる教育の質にも大きく差が生じますし、家にお金が無いことによって将来チャレンジができる幅が狭まるということも減るわけですから、片方の親が仕事を辞めざるを得ないという状況を放置することのほうが明らかに死活問題です。

ノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授が「感情的幸福は年収7万5000ドル(約850万円)までは収入に比例して増える」と指摘したように、世帯収入が多い親ほど幸福度も高いのは事実です。この水準に達することができるか否かは、両親ともに働き続けることができるか否かに大きく左右されるケースが多いでしょう。

子供に悪影響だと言っている人は、きっと子供のためを思っている心優しい人なのかもしれません。確かに流行語に選ばれたことがきっかけに、安易に死ねという言葉を他者に向かって使用してしまう子供が出てくるのはゼロとは言えないのは事実です。確かにそれは防げなければならないことです。ただし、しっかりと大人が対処すれば、それで子供の人生が壊れることはほとんどないのではないでしょうか。

その一方で、保育園に落ちれば親の人生が壊れることはかなりの確率で生じることです。繰り返しますが、たかがお祭りにケチをつける暇があるのなら、その時間を全て使って本当に子供たちに悪影響のある現実的な待機児童の問題でケチをつけて欲しいです。結局、ケチのつけどころを些細な問題に振り向けているのなら、むしろ子供のためにならないことをしていると思います。

(2-3)この騒動から子供が学ぶべき教訓はたくさんある


なお、「死ねという言葉を子供たちが使わないように!」と教えるのは至極もっともですが、そもそもこの「保育園落ちた日本死ね」の問題から、私たちが学び、子供たちに伝えるべき教訓はそんな表面的なことでしょうか? 

私が親ならば、しっかりとニュースの全貌を伝えた上で、『不遇に苦しむ人々の声に耳を傾けて配慮することで、その人たちが「死ね!」と怒りを爆発させなくて済むような、そんな環境を自分たちの周りからでも作っていこうね』ということを伝えたいです。

そしてこうも言いたいです。『汚い言葉は使ってはいけない。でもはっきり言って世の中は腐っている。みんな仲良くなんて幻想だ。理不尽な奴や理不尽なシステムがたくさんある。私が何とか頑張るから今は安心していて良いけれど、それでも君がもし強大な圧力によって不幸に追いやられてしまうことがあったら、怒って良いんだ。たとえ汚い言葉を使ってでも自分を守りぬくんだ。そういう時は礼儀なんてわきまえなくて良いんだ。ただし矛先とバランスを間違えるな。強きをくじき弱きを助けるんだ』と。

つまり、「子供好き」を自称しながら子供に対して「(TPO問わず)常に清く正しく美しい人間でいましょう」と強要してしまうのは、子供のためになるどころか、子供を"優等生"化させて子供の理不尽なことに抵抗するチカラを奪っており、むしろ子供に悪影響を与えている側面もあると思います。イジメや犯罪に遭った時に声をあげられないでいる子供はそういう教育をされていることも多いですから。

そして、このような表面的な問題に目が行きがちな人物が親や教師や上司にいると非常に厄介です。「本当は心優しいのに言葉遣いや態度が悪い人」に低い評価を与えて、「表向き取り繕った人間味の腐った人」に良い評価を与えることはあるある話だと思います。そういう人々を反面教師にして、『悪人はいつも善人の顔をしてやってくる。表面的な問題に捉われるな。本質を見極めろ』とも子供たちに伝えていきたいものです。

(3)政治家が笑顔で何が悪い


山尾議員の表情が笑顔だったという話も、本当にどうでも良い些細な問題です。彼女が受賞の際に笑顔であろうがなかろうが、現実の問題には何ら影響が無いことですから。前述のように所詮はお祭りです。しかもしっかりと「今は新語・流行語でも、早く『死語』にできるよう頑張りたい」と語っています。

仮に与党である自民党の議員が授賞式に笑顔で出ていようが、さらなる待機児童問題の推進を表明して、早急に解決することを誓ってくれるのであれば、私は問題無いと思っています。政治家は政治を進めることが仕事なのですから。

「握手の際の対応が良かったから」という理由で投票する候補者を選ぶ有権者がいまだにたくさんいることに驚きを隠せないのですが、政治家の些細な振る舞いを気にして成果や政策で選べない政治からそろそろ脱したいものです。

なお、彼女の表情に違和感を覚える人の中には単に民進党が嫌いというだけという人もいるでしょう。実際、私のTwitterにも汚い言葉が受賞して国会議員が笑顔なんておかしいと批判を飛ばしてくる方が何名かいましたが、過去の投稿を覗いてみると「民進党殺す!」「死ねゴキチョン!」等と書いてありました。完全にダブルスタンダードですね。

男性を見た目で評価している女性に対して批判的な男性が、実は自分のほうこそ女性を見た目で評価しているのと同様に、彼らはおそらく心理学的には反射的に『投影(自分の悪い面を認めたくない時に、他人にその悪い面を押し付けてしまう心の働き)』をしているのでしょう。

長々と、「保育園落ちた日本死ね」の流行語大賞トップテン入りの妥当性について論証しましたが、待機児童問題というのは何も子を持つ人だけの問題ではありません。たとえば、保育園に入れない子を持つ社員が幼稚園の開園時間のみの時短勤務をせざるを得なくなり、独身社員にしわ寄せが行くということもあるわけです。また、次の世代が生まれて人類が発展するのは社会全体の利益です。

どうかお願いします。今苦しんでいる親たちのために、これから親になろうと思っている人たちのために、これから生まれる子供たちのために、本当に問題なのは何なのか、本質的な課題を見つめてください。言葉の「見た目」に囚われないでください。