※本稿は、藤本靖『羆撃ちに人生を賭けた男』(山と溪谷社)の一部を再編集したものです。
■ヒグマも肥える季節に
今年も狩猟期が巡ってきた。
周囲の木々は紅葉を終え、夏の間は鬱蒼としていた森も葉を落とし、所々に隙間が生まれている。世界中の多くの狩猟地が10月からシーズンを始めるのは、まさにこの“見通し”がきくからだ。葉が落ちれば、獲物を見誤る危険も減り、誤射のリスクも下がる。
林道沿いの草木も、すでに晩秋の装いである。
「アカ、明日はどこに入る」
昨晩、“電気屋さん”こと斉藤泰和から携帯に電話があった。赤石の古くからの猟仲間で、家業が電気工事店であったことから、仲間内ではそう呼ばれていた。
「いつも通り、山際の林道を見てくるわ」
「わかった。仕事が終わり次第、俺もいってみるわ」
彼らは狩猟時期になるとお互い、常に連絡を取り合い情報を取り交わす。単独猟では、不意の事故などで動けなくなった場合、基本は誰も助けてはくれない。
赤石は、いつものようにエゾシカ猟で使い続けている愛用の7ミリ口径ライフルを手にハイラックスに乗り込んだ。10分ほど走ると林道へ入る。枝先に残るコクワやヤマブドウをひょいひょいと目で拾いながら進んでいく。
「今年は実の生りがいい。ヒグマも、だいぶ脂を溜めているかもしれん」
■ヒグマが潜んでいそうな林道に
山沿いの林道は海岸よりも秋が深まるのが早く、木々の枝はすでに裸で、空が透けて見える。赤石は一本一本の林道を丹念に走破していく。誰も踏み入れていない道は草が道幅を覆い、まるで藪だ。しかし赤石は、ここがかつての作業道だったころから熟知しているため、迷わず奥へ進む。
山奥へと深く入り込む道は、この時期、ヒグマが潜んでいる可能性が高い。川に沿って延びる道を進むと、葉を落とした枝が車体をかすめ、「キィー」と耳障りな音を立てる。
そのたびにボディが軋(きし)んだ。
やがて道は二股となり、一方は河原へと降りていた。赤石は迷わず河原のほうを選ぶ。川の水量は少ない。ハイラックスで、ゴロ石を踏みしめながら川へ入っていく。水深は浅いが、対岸はわずかに切り立ち、登り切れるかどうか一瞬の判断を要する。
前輪が水に入ると、ガタガタと川底の起伏が車体に伝わった。川を横切り、最後の登りに差しかかる。四輪駆動はしっかり川底をグリップし、ボンネットが跳ね上がったかと思うほどの勢いで川べりをよじ登る。
登り切ったところからは泥道が続く。普通の車では到底進めないが、悪路走破用に仕上げた赤石のハイラックスは、悠々と泥を割りながら前進していく。
大雨のときに川が溢れたのだろう。
荒道の窪地にはあちこちに水が溜まっている。
両脇にはカラマツ林が広がり、トドマツが隣生するこの山域は、ヒグマが好んで棲みつく場所でもある。赤石は速度を落とし、林道を慎重に進んだ。
■まずい、殺られる
カラマツ林が終わりかけ、90度のカーブを回り込むと、景色はトドマツ林へと移り変わる。その瞬間、前方のトドマツの先端近くに、枝とは違う黒い塊が見えた。
赤石は車を止め、双眼鏡を取り出す。
双眼鏡の中には、揺れる枝の上に小さなヒグマがいた。距離は150メートルほど。サイズも距離も射撃には申し分ない。
赤石は静かに車を降り、後部座席からライフルを取り出した。ヒグマは先端から5メートルほど下の枝にいて、こちらには気づいていない。マツボックリをむしっているようだった。
スコープを覗き、呼吸を整え、引き金を絞る。乾いた銃声とともに、ヒグマは木から転げ落ち、「ドサッ」と音を立ててクマザサの中に消えた。
トドマツの下には、2メートルを超えるクマザサが密生している。その中へ銃を担いで分け入る。ヒグマがいた木は遠くないが、ササの密度が高く、思うように足が進まない。
赤石は銃を構えたまま、一歩一歩、慎重にササをかき分けていく。何度も足を取られながら進むこと5分、ようやく落下地点付近にたどり着いた――その刹那である。
「ウォーーッ!!」
突如、目の前、5メートルほどの所で、ヒグマの吠え声が炸裂した。
まずい。殺られる――さすがの赤石も総毛立った。
反射的に銃のボルトを引き、弾倉から薬室に弾を送り込む。
――親子連れだったか。
■ヒグマからの「最後通告」
すぐに冷静さを取り戻した赤石は、さきほど撃ったのは子グマで、いま吠えているのは母グマだと瞬時に悟った。頭の中で、とっさに状況を整理する。
「バサッ、バサッ!」
ササを割って、何かがすごい勢いで突進してきた。その距離、2メートルまで迫った所で、それはピタリと止まった。生い茂る藪に視界を阻まれて、その姿は見えない。
だがその濃厚な気配から、赤石にはそれが母グマであることがわかった。
母グマはそれ以上、距離を詰めてくることはしない。
――ブラフチャージ。
多くのヒグマは、脅威を感じた相手に対して、いきなり攻撃を仕掛けることはしない。その前段階として、「実際には接触しないが、攻撃するかのように急接近して威嚇する行動」を行う。こうした行動をブラフチャージと呼び、ヒグマとしては「戦う」ことよりも、相手を「退かせる」ことを目的としている。
とはいえ、ブラフチャージは「最後通告」である。
ササ藪の向こうからは、ヒグマの荒い呼吸だけが明確に聞こえる。
かなり興奮しているようだ。ここまで興奮してアドレナリンが全開状態になっていると、この至近距離で撃っても急所に当てない限り止まらない。むしろ逆上させるだけだ。
狩猟中、ヒグマに襲われる事故の多くは、ハンターが発砲したものの仕留めきれずに“手負い”にし、逆襲されるケースだ。興奮したヒグマは最後の力まで振り絞り、執念深く襲ってくる。
■弾は残り2発しかない…
姿の見えないヒグマとにらみ合いを続けながら、頭の中で必死に策を練る。来た道を戻ろうにも深いササ藪の中を戻ることになる。足元を取られたり、よろめいただけでも、すっ飛んできたヒグマに押え込まれるであろうことは目に見えている。
こうなったらヒグマと人間の「我慢比べ」である。
周囲は、不自然なほど静まりかえっていた。
風もなく、ササ一本揺れない。聞こえるのは、母グマが歯を鳴らす「カチカチ」という音と、前足で地面を叩く「ドン、ドン」という低い衝撃音だけだ。
弾倉には3発入れていたが、先ほど一発撃ったので、残りは2発しかない。腰のベルトには15発あるが、弾倉を撃ち切り、再装塡する5、6秒の間に2メートル先から突進されれば終わりだ。その猶予はない。
その時、耳元のイヤホンから無線が入った。
「無線、入っているか」
昨晩、電話で話した仲間の斉藤だった。
「入ってる。今、目の前に羆いるけど、動けない」
運良く、斉藤は近くにいるようだ。赤石はヒグマに悟られぬようマイクを手で覆い、小声で斉藤に今いる場所を伝える。
「林道に車がある。そこから(藪に)入った跡がついてるはずだ」
場所を伝えることはできたが、斉藤がたどり着けるかは分からない。来られたとしても、かなり時間はかかるだろう。
ササ藪の向こうではヒグマが相変わらず荒い呼吸を続け、「カチカチ」と歯を鳴らしている。こちらは一歩も動けず、時間だけが過ぎていく。
■頼もしい援軍
どれくらい時間が経っただろうか。遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。
「来たか」
すると、ヒグマの気配が、ふっと薄くなった。木から落ちた子グマの様子を見にいったのかもしれない。その木は、そこから10メートルほどの所にあった。
赤石はようやく時計に目を落とした。にらみ合いを始めてから、1時間以上が経過していた。春グマ猟で数々の修羅場を経験してきた赤石でも、2メートルの至近距離で2時間以上もヒグマと対峙したのは初めてだった。
ヒグマの興奮は少し収まっているように思えたが、気を抜くわけにはいかない。唸り声や歯を鳴らす音は聞こえなくなっていたが、藪の中にヒグマの気配は依然として濃厚だった。
背後で車のエンジン音が止まった。
「どこにいる」
斉藤から無線が入る。
「車の助手席側に藪へ入った跡がある。そこを進んでくれ。羆がまだいるから気をつけろ」
「わかった」
短いやり取りで十分だった。藪をかき分ける音が背後から近づいてくる。赤石の前方はほぼ見えないが、後方はかろうじて藪が薄くなっている。ようやく斉藤が姿を現した。赤石は自分の左側につくよう手で合図を送る。斉藤は、赤石の左側10メートルの位置についた。にらみ合いを始めてから、間もなく2時間になろうとしていた。
撃った子グマを回収する作業が残っているが、母グマが諦めてこの場を去らなければ、それもできない。
だが、今は1人ではない。ほんの気持ちだが、先ほどよりは対峙しやすい。赤石は手を上げて、斉藤に前進の合図を送る。
視界のきかないササを銃身でかき分け、一歩ずつ進む。いつヒグマが飛び出してくるかわからない緊張に喉が渇く。ヒグマがいたと思われる場所まで進んだ。
■ササ藪から飛び出してくるかも…
あたりは獣臭でむせ返るようだった。
母グマが通った跡は、ササ藪がトンネル状になっている。そこを慎重に進んでいく。時折、斉藤の姿がササ藪に隠れてしまうが、足音でお互いの位置を把握する。
ようやく2人は、斃れた子グマの場所にたどり着いた。体重は100キロには満たないだろう。ロープを取り出し、ヒグマの首へかけ、さらに鼻先に結んで一直線にする。こうしておけば、ササ藪の中を引きずっても外れない。100キロなら2人で引けば何とかなる。
問題は、母グマが戻る可能性だ。
あたりに母グマの気配はない。子グマが絶命しているのを確認して、その場を去ったのか、それともまだ未練断ち切り難く、こちらをうかがっているのか。
五感を総動員し、周囲の気配を探りながら慎重にロープを引く。ササ藪は帯のように濃淡があり、歩行そのものが重労働だ。時折休んでは音を聞き、ようやくササの薄い場所へ子グマを引き出した。
視界は開けたが、まだ油断はできない。母グマが完全に諦めたかどうかはわからない。斉藤は長いロープを取りに車へ戻る。赤石は周囲の気配に集中しながら待った。
赤石のハイラックスの荷台には、漁船で使うキャプスタンローラーが据え付けられている。これでロープを巻き取り、ヒグマを回収するのだ。
斉藤が戻り、長いロープを結び合わせ、準備が整う。車まではおよそ100メートル。赤石の合図でキャプスタンが回り、子グマが少しずつ動き始めた。2人は周囲を警戒しながら、ヒグマに寄り添うように林道へ向かう。
林道へ出た瞬間、赤石はようやく大きく息を吐いた。極度の緊張に満たされた時間の重さが、急に肩へ戻ってきた。
夕闇が迫る中、ハイラックスの荷台へ子グマを引き上げ、この日の猟はようやく終わった。
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藤本 靖(ふじもと・やすし)
NPO法人「南知床・ヒグマ情報センター」前理事長、現・主任研究員
1961年生まれ。北海道標津町在住。NPO法人「南知床・ヒグマ情報センター」前理事長、現・主任研究員。本業は自動車整備工場経営。またNPO法人の障害者施設理事長、標津町議会議員も務める。標津町で1988年に開催されたALL-JAPANサーモンダービー、忠類川サケマス有効利用調査など、北海道のサケ遊漁に関するパイオニア的存在。著書に『OSO18を追え “怪物ヒグマ”との闘い560日』(文藝春秋)がある。
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(NPO法人「南知床・ヒグマ情報センター」前理事長、現・主任研究員 藤本 靖)

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