日本人は貧しくなったといわれる。この国はいったいどうなってしまうのか。
『プアジャパン』が話題の作家・橘玲さんは「私が同書で描いた〈近未来小説〉はあくまでフィクションだ。なってほしくはないが、それを『妄想だ』と否定できない自分がいる」という――。(第2回/全3回)
※本稿は、橘玲『プアジャパン』(プレジデント社)の「第1章〈近未来小説〉日本人を待っていた浅い眠り2026年版」を再掲したものです。
■続出する住宅ローン破産…
インフレによって、日本社会も日本人の人生も大きく変わった。
金利が上昇しはじめると、住宅ローン破産が急増した。超低金利に慣れ親しんだひとたちは、ほとんどが変動金利の長期ローンでマイホームを購入していた。そのローン金利が10%台まで上がったことで、毎月の返済額は2倍以上になった。
ローンを払えない契約者が続出すると、銀行は抵当物件を片っ端から競売で売却し、東京や京都など人気地区の物件は外国人投資家が争って購入した。
その一方で、地方の物件はほとんど買い手がつかず、地方銀行や信用金庫などが不良債権を抱えて次々と破綻したが、政府にはもはや金融機関を救済する体力は残っていなかった。
そのため個人も法人も、銀行口座を解約して、決済にはブロックチェーンを使ったステーブルコインを使い、それ以外の資産は海外株式や金、ビットコインなどで保有するようになった。
■「ブラックウェンズデー」で救国内閣
私は30代半ばまで大手電機メーカーの技術者で、家賃補助を受けて賃貸で暮らしていたので、幸いなことに住宅ローン破産は免れた。海外企業との価格競争に巻き込まれてボーナスは年々減らされたが、会社にしがみついていれば定年まで食いつなぐことはできるだろうと、漠然と信じていた。

だが会社を愛していた私から見ても、自社の製品は価格でも品質でも中国メーカーにまったく太刀打ちできず、2期連続の赤字で大規模なリストラが始まった。
同じ頃、財政赤字をコントロールできなくなった日本がIMF(国際通貨基金)管理になるとの憶測が流れて、官邸は機能不全に陥り、国会は連日紛糾した。株価と国債価格が暴落し、為替市場で円が1日で10円以上も下落する「ブラックウェンズデー」が起きて、ようやく超党派の救国内閣が成立した。
■財政悪化で「消費税率30%」
政権の喫緊の課題は財政の健全化で、消費税率は30%になり、年金の受給開始年齢は70歳に引き上げられた。医療・介護サービスは保険料が大幅に上がり、自己負担は5割で、歯科治療が保険適用から外された。
老人だけでなく若者でも、いまでは歯が欠けているのは当たり前になった。
増えつづける認知症の高齢者を特別養護老人ホームにはとうてい収容できず、住宅地ではゾンビ映画のように老人たちが徘徊(はいかい)するようになった。認知症と診断されると手の甲にコンピュータチップを埋め込まれ、スマホをかざすだけで自宅や病歴などがわかるようになっている。
これまでの常識が跡形もなく崩壊していく現実を目の当たりにして、生来臆病な私も、このまま座して死を待つわけにはいかないと腹をくくった。わずかな割増退職金で会社を辞め、まったく縁のない不動産営業の世界に飛び込んだのだ。
■日本の電機メーカーがインドに買収される日
私の唯一の取り得は、ビジネス英語が話せることだった。外資系の小さな不動産会社に転職したのは、AIの時代に生き残るのはモノではなくヒトだと思ったからだ。

必死の思いで、欧米はもちろん中国やインド、東南アジアの富裕層に首都圏のマンションを営業して回ったあと、その実績が認められて、いまの会社にヘッドハンティングされた。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われるという条件だ。
私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。社員食堂のメニューがすべてカレーになったとも聞いた。彼らの窮状を聞くにつれ、きびしいけれどもここで頑張るしかないとあらためて思う。
■CEOは中国系アメリカ人
そんなことを考えながらカフェモカを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かった。
以前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムスンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の主要ビルはほとんどが外国企業の所有になった。
私が契約営業担当として働いているのはかつての財閥系大手不動産会社で、いまでは親会社もろとも中国の投資会社に買収され、本社はシンガポールに移転した。社員の半分は華人(中国人、台湾人、香港人、シンガポール人)で、CEOはスタンフォード大学でMBAを取得した30代の中国系アメリカ人だ。
華僑などから集めた資金で不動産ファンドを組成し、東京の都心部に富裕層向けのチャイナタウンを建設しようとしている。
■日本を目指す中国の富裕層
共産党の一党独裁のもとで市場経済を導入した中国では、富裕層は国や地方政府の共産党幹部との「関係(グワンシ)」で莫大な富を築き上げてきた。
だが「反腐敗」の政治キャンペーンで権力者たちが次々とスケープゴートにされ、各地で「金持ちを吊るせ」という民衆の大規模なデモが起きるのを見て、いまでは自らの資産を守ろうと必死になっている。
中国社会が動揺するにつれて、ファンドには莫大な資金が流れ込んでくるようになった。最初は50億ドルでスタートしたのだが、それがいまでは1000億ドル規模にまで膨張し、アジア最大級の不動産ファンドになった。
通貨の信用が失墜しても、日本人が戦後、営々と築いてきた社会インフラの価値は変わらない。
東京のように、上下水道や電気・ガスはもちろんのこと、公共交通機関が網の目のように発達し、若い女性が深夜でも一人歩きできるほど治安がよく、ミシュランの星を獲得したレストランがいくつもあるような高機能の都市は世界でもまれだ。
海外の投資家、とりわけ中国の富裕層はそのことをはっきりと認識していた。
米中対立でアジア系に対する人種差別が欧米で頻発するようになると、彼らの関心は外国人にも法によって土地・建物の所有権が保障され、距離的に近く時差もないうえに、外見だけでは外国人と判別できず、中国共産党を批判する言論の自由がある日本に向かうようになった。
■「国家を信用した中国人は一人もいない」
午前9時の営業会議は、北京・上海・台北・香港・シンガポール・東京を結んで行なわれた。いまではアジアの次世代リーダーの一人と目されているCEOのジミー・チャンが、自家用ジェットに搭載した衛星回線で手短に事業計画を述べた。
「5000年の歴史のなかで、国家を信用した中国人など一人もいない」
CEOは皮肉な口調でいった。「人類にとって重要なのは、国ではなく市場だ。国家としての中国が解体していくのなら、それはわが社にとって最大の商機だ」。

中国の富裕層のキャピタルフライトが本格化するまでに、できるだけ多く都心部の優良物件を確保することが、私たち「東京チーム」の任務なのだ。
ジミーの話が終わると、地区別に分けられたチームでミーティングを行なった。私たちの担当は新宿で、プロジェクトマネージャーは30歳になったばかりの香港人女性アイリスだ。
いまではすべての不動産情報がデータ化され、AIが立地や築年数、テナントの状況などから適正な物件価格を算出し、それにもとづいて事業計画までつくっている。
だがそれでも私の仕事があるのは、AIでは地権者の家族関係や物件に対する思い入れなど、人間の非合理的な行動までは読み切れないからだ。これが、人間にわずかに残されたアドバンテージというわけだ。
■メール1本で解雇
ほとんどの売り手はAIを使って物件価格を最大化しようとし、交渉術まで指南されている。そのため人間同士のやりとりは、AIの振付による人形劇のようなものになっている。私の裁量で決められるのは、最初の挨拶の言葉くらいだ。
それでも交渉を成立させるには、当事者が顔を合わせ、握手をし、契約書に判を捺さなくてはならないのだから、慣習というのは不思議なものだ。
アイリスは部下たちのアポイントと進捗状況を確認したあと、田沢という30代後半の男に残るよう伝えた。3カ月続けてノルマを達成できておらず、今月もあと10日しかないので、いつもの手続きが始まったのだ。
書類にサインし、わずかな私物を整理すると、あとは奇跡でも起きないかぎりメール1本で解雇される。
田沢の机の上には、まだ若い妻と5歳になる女の子の写真が飾られていた。私も先月はノルマをクリアできなかったので、尻に火がついているのは同じだ。
■公共交通機関も高くて乗れない
東京駅から中央線で新宿に向かう。公共交通機関の料金が大幅に引き上げられたことで、満員電車は過去のものになった。
3000円の追加料金を払ってグリーン車に乗り込むのはみな外国人だ。都内の移動手段はバスや電車から自転車と徒歩に変わり、これが日本人が健康になっている理由のひとつではないかと思う。
物価が上昇しはじめ、実質賃金の下落が止まらずに生活が苦しくなると、与党は選挙に勝てなくなって政治が混乱した。「外国人ゼロ」「税金ゼロ」など好き勝手な政策を掲げる新興政党が躍進し、救世主として登場した保守政治家は、外国人政策を見直して、永住許可申請の厳格化や、外国人による土地取得の規制強化で保守派の喝采を浴びた。
ところが奇妙なことに、保守政権のあいだに外国人労働者の数は大幅に増えた。
少子化による人口減で日本経済は空前の人手不足に陥っており、とりわけ地方経済は外国人労働者がいないと維持できなくなっていた。このままでは倒産・廃業するしかないという圧力を受けて、政治家たちは口では「排外主義」を唱えながら、実際には外国人労働者の受け入れ規制を緩和した。

イギリスは「移民問題」を解決するため2016年に国民投票でEUからの離脱を決めたが、じつはその後のほうが移民が増えたのと同じだ。
■「移民国家」化する日本
いまでは農業や物流、建設業だけでなく、病院や介護施設も外国人なしでは回らない。電車内をざっと見回しても、半分ちかくは外国人か、日本に帰化した外国にルーツのある乗客のようだった。外国人比率は20%に近づき、日本は着実に「移民国家」への道を歩んでいる。
日本が多民族国家になるにあたって大きな影響を与えたのが、中国の景気低迷と就職難だった。若年失業率は20%を超え、努力は無意味だという「寝そべり族」や、最低限のエネルギーで生活する「ネズミ人間(老鼠人)」が増えていった。
そんな中国の若者から見れば、大卒の就職内定率がほぼ100%という日本はまさに「夢の国」だった。
そのうえ採用にあたって国籍を考慮してはならないので、日本の大学や大学院を卒業すれば、大企業の正社員になることも難しくはない。そこで何年か実務経験を積んだあとは、欧米のグローバル企業に高給で転職するというのが“必勝パターン”になった。
■日本を去る優秀な若者たち
需要と供給の法則では、稀少なものの価値が高く、たくさんあるものの価値は低い。日本においてたくさんあるものは高齢者で、稀少なのは若者だ。いまの子どもたちは生まれたときから大切にされ、さまざまな調査で、日本の若者の8割以上が自分を幸福だと思っている。
そのことが知られるようになると、過酷な競争社会で子どもを育てることを不安に思っていた中国の富裕層が、家族で日本に移住するようになった。東京・文京区など、公立小学校のレベルが高いとされる地域では、クラスの半数が外国人というのがもはや当たり前だ。
こうした変化に真っ先に反応したのが、ベータ世代の日本の若者だった。日本で暮らす中国人の子弟には、中国語と日本語だけでなく、英語も流暢(りゅうちょう)に話すトリリンガルが珍しくない。
こうした賢い若者は経済的にも成功するので、友だちとしてつき合うのなら、日本語しか話せない同世代の日本人よりずっと魅力的だ。彼らのような新しいエリートが設立したベンチャーが、シリコンバレーに次々と進出して話題になった。もっとも、いったん日本を出ていった若者たちは、もはやこの国に戻ってくることはないのだが。
■「エッセンシャルワーク」ならいくらでもある…
芸能界も人種の多様化が進んで、昨年のM-1グランプリでは日本生まれのベトナム人コンビが優勝した。日本も韓国も少子化なので、アイドルグループを維持することができなくなり、融合してJKポップになった。
野球もサッカーも有望選手はほとんど海外に移籍し、スポーツニュースは大リーグとヨーロッパサッカーの話題ばかりだ。一方、プロ野球やJリーグはアフリカや東南アジアなど外国にルーツをもつ日本人選手が増え、手軽に盛り上がれる娯楽としてそれなりの人気を保っている。
最近の子どもたちは、面倒な仕事はAIに任せればいいのだから、勉強はコスパが悪すぎると、スポーツやダンス、歌、芝居など好きなことしかやらなくなった。
うちの子どもも小学校5年生で学校に行かなくなり、最初は不安だったが、いまではそのような子どもが多数派になって、「不登校」という言葉は死語になった。毎日学校に通うほうが少数派で、深刻な教員不足もあり学校の統廃合が進んでいる。
長男は芸能志望で、16歳になったらソウルのダンススクールに行きたいといっている。10歳の長女もそれを見て、ネットで中国語と韓国語を勉強しはじめた。妻も私も、そうやって「自分らしく」生きていってくれればいいと思っている。たとえ夢がかなわなくても、エッセンシャルワークの仕事がいくらでもあるのだから。

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橘 玲(たちばな・あきら)

作家

1959年生まれ。早稲田大学卒業。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部を超えるベストセラーに。05年の『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補に。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。著書に『「読まなくてもいい本」の読書案内』(ちくま文庫)、『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)、『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』(幻冬舎文庫)、『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)など多数。

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(作家 橘 玲)
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