※本稿は、橘玲『プアジャパン』(プレジデント社)の「第1章〈近未来小説〉日本人を待っていた浅い眠り2026年版」を再掲したものです。
■元ニートの億万長者
新宿駅の南口を出ると、新しくつくられた超高層ビルの最上階にある個人投資家の事務所に向かった。数少ない日本人顧客の一人で、「ドリーマー」の名でSNSのインフルエンサーとして知られる30代前半の若者だ。
大学を中退してFXとパチスロで生活していたドリーマーは、円が下落する過程で、レバレッジをかけた巨額の円買いドル売りのポジションをつくり、莫大な利益を得た。AIはさらなる円安を予測しており、それに逆らって逆張りで成功したことで、「神」と呼ばれるようになった。
ドリーマーはその資金を元手に不動産投資をはじめ、いまでは渋谷や青山に数棟のビルを所有している。
インフレと不況が同時に起きることをスタグフレーションというが、その結果、この10年で日本の富裕層はほぼ全面的に入れ替わってしまった。
■大手銀行員の末路
ホテルのロビーのような豪華なリビングで、円安のため超高級品になったハワイコナのコーヒーを飲んでいると、大手銀行の支店長が額の汗を拭きながらサイバールームから出てきた。
実質国有化されたその銀行は公務員並みの給与しか支給することが許されず、有能な人材はすべて外資系に移っていった。
残ったのは英語も話せず、金融の専門知識もない中高年ばかりで、彼らにできることといえば、かつてはゴミかムシケラのようにしか思っていなかったニートの若者のもとに日参し、融資させてほしいと懇願するくらいだ。
■ゲームの捨て駒
最先端の電子機器に囲まれたサイバールームに入ると、病院の無菌室のような匂いがした。大富豪の若者は短パンにTシャツという軽装で、5台のモニタでマーケットをチェックし、スマホで相場の見通しをポストしながら、用件だけを一方的にしゃべった。
顔色は悪く、目の下に黒い隈(くま)ができ、ほとんど眠っていないようだ。世界中の株と為替に投資する彼は、いまでは1000万人を超えるXのフォロワーに“ご託宣”を発信するカリスマなのだ。
ドリーマーは、日本橋三越本店を買収することにしたので、参加する気があるかと訊いてきた。AIが用意したシナリオの範囲内だったので、私がうなずくと、一方的に金利と条件を伝えられた。それもAIの予想どおりだったので、のちほど電子契約書を送ると返答し、商談はきっかり1分30秒で終わった。
ドリーマーの背後には、暗号資産で数兆円の資産を築いたアメリカのインフルエンサーがいるといわれている。いまではこうした若い超富裕層のネットワークが、世界の金融マーケットを動かしている。
それでもわたしたちがおこぼれに預かれるのは、ゲームの捨て駒として、損をしたときのリスクを引き受けているからだ。
■「成功者にへつらう仕事をするひとびと」
日本だけでなく世界中で富の二極化が進んでいた。
莫大な富を手にした彼のような成功者がいるかと思えば、生活保護が打ち切られ、親と同居するか、さもなければホームレスになるほかない境遇に置かれている者も多かった。
アメリカやヨーロッパでは状況はさらに悪化しており、富裕層を狙ったテロが頻発し、ウォール街は重武装の私設軍隊によって警備されている。それを考えれば、世界の富裕層が治安のいい東京に続々と集まってくるのは当然だ。
ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ミードは1964年に、未来の世界は「困窮したプロレタリアートと、バトラーや召使やメイドなど、成功者にへつらう仕事をするひとびと」で構成されるようになると予言したという。当時はたんなる冗談か世迷い事と思われたが、いまではそれが現実になった。
ニューヨークやロンドン、東京など超富裕層の住む地域では、エリート限定のパーソナルトレーナーやカリスマ・ヨガインストラクターのほか、オーダーメイドのスプーンをつくる職人、富裕層の子どもの“友だち代行サービス”、ペットのための専属心理カウンセラーなど奇妙な職業が次々と生まれ、会社員をはるかに超える高給を得ている。
■インフレでどんどん貧乏になる国
新宿駅の駅ビルで2万円のビジネスランチを食べたあと、西新宿まで歩いて次のアポイントメントである佐藤の事務所を訪れた。
株で儲けて50歳でリタイアし、マレーシアで移住生活を送っていた佐藤は、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」の一人だ。その資産で事務所の入っているこのビルを購入したのだが、それを売りたいと相談されている。
「この国で私のような小金持ちが生きていくのはほんとうに大変です」昼から焼酎のロックを煽ると、佐藤はぼやいた。
リフレ派の経済評論家たちは、インフレになれば日本経済は復活すると大合唱したが、実際には日本はどんどん貧しくなっていった。
大幅な円安になっても、いったん海外に流出した製造業は戻ってはこなかった。日本国内の設備は老朽化しているため、東南アジアの最先端の工場には太刀打ちできなかった。
円安で石油や原材料の輸入価格が上がり、人手不足で建築費も高騰しているので、新たに国内に工場をつくっても採算が合わないのだという。
■虐げられる中途半端なお金持ち
日本企業の株価は低迷し、海外の投資ファンドの格好の買収対象となった。外国資本となった企業は不採算の国内市場から撤退し、本社を香港やシンガポールに移した。日本人はさらに貧乏になったが、皮肉なことに株価はV字回復した。
デフレ脱却による経済復活の夢が潰えると、この国にはなんの希望もなくなってしまった。
それに輪をかけたのが、政府の増税政策だ。経済格差が有権者の最大の関心事になると、富裕層に対する懲罰的な課税を公約にした政党が連立政権に加わるようになった。
彼らは所得税の最高税率を80%にし、1億円を超える金融所得には50%課税し、10億円を超える不動産や金融資産に資産税を科し、相続税にいたっては全額課税、すなわち死んだら財産はすべて国庫に没収すべきだと主張した。
だが現実には、ドリーマーのような超富裕層は法律事務所を使った鉄壁の租税対策をしているので、日本政府がどのような法律をつくろうと関係ない。もっとも被害が大きいのは、佐藤のような“中途半端な金持ち”だった。
もう70歳に近く、持病もあるというのに、理不尽で懲罰的な課税を避けようとすれば、国内の財産をすべて売ってまた海外暮らしをするしかないのだ。
■日本人からむしり取るしかない
「いまでは日本人より、この国に住んでいる中国や東南アジアの人間のほうがずっと金持ちなんだから、外国人から税金を取ればいいんですよ」佐藤の愚痴は止まらなかった。
「それなのに政府は弱腰で、アメリカや中国から“外国人差別”と批判されることを恐れて、好き放題させている。そのため私のようなまっとうな日本人が、ちょっとカネをもっているというだけで差別されるんです」
同じような悩みは、別のビルオーナーからも聞いていた。有権者は圧倒的に貧乏人が多いので、日本国の財政を維持するには、数少ない日本人の金持ちからむしり取るしかないのだ。
そんな話を聞いていると、この国でゆたかになることになんの意味があるのか疑問に思えてくる。日本人はむかしから、自分以外の者がよい思いをするのが許せず、それなら全員が貧乏になったほうがマシだと思っている。このムラ社会では、目立たないように生きていくのがいちばんなのだろう。
■歌舞伎町の大麻特区
帰りの電車までしばらく時間があったので、ひさしぶりに歌舞伎町まで足を延ばすことにした。
外国人観光客が昼から楽しそうに立ち飲みしている思い出横丁から大ガードを抜け、歌舞伎町一番街に入ると、緑の葉っぱのマークを掲げた店が並んでいる。
観光振興でなりふりかまっていられなくなったために、何年か前にこの一帯が「大麻特区」になったのだ。その効果は歴然で、中国や韓国、台湾のような薬物にきびしい国から若者たちが大挙して押し寄せた。
路上での喫煙は禁じられているが、道路に面したオープンカフェの店もあり、あたりには独特の甘い香りが漂っている。喫煙年齢が18歳に引き下げられたことで、制服姿の女子高生が外国人と一緒に大麻を吸っていた。
ゴジラヘッドのあるビルの周辺は、いまではアジア最大の風俗エリアで、男でも女でも、あるいはゲイやレズビアン、トランスジェンダーでも、あらゆる欲望がかなう店が集まっている。
高層ビルに挟まれたシネシティ広場の前では、コスプレをした女子高生や家出少女たちが未成年でも遊べるコンセプトカフェの呼び込みをしていて、ここも外国人観光客に人気の撮影スポットになっていた。
■外国人が払う金でなんとか暮らす現実…
学校制度が崩壊したことで、日本中から中高生が居場所を求めてこの街に流れ込んできた。
ラブホテル街に面した大久保公園の前では、まだ夕方だというのに春を売る女性たちが並んでいる。何度摘発しても街娼が減らないため、最近では大麻につづいてこの一帯を「売買春特区」にして、エロス資本をマネタイズする女性たちを法の保護のもとに置くべきだという主張が高まっている。
日本人女性が裕福な外国人に買われるようになったことで社会が排外主義化したかというと、不思議なことに、最近では外国人排斥の主張はSNSの一部でしか見かけなくなった。
いまでは日本人の多くが、外国人が払ってくれるお金でなんとか暮らしているからだろう。
日本の経済はいつの間にか、かつてのタイやベトナム、フィリピンのような、観光に頼る発展途上国に似てきた。
地方自治体はどこも外国人観光客を呼び込み、アジアの企業を誘致し、使い道のない土地を外国人に売りつけようと必死だ。高度成長期には学校で“日本はアジアでいちばんの国”と教えていたようだが、いまでは悪い冗談でしかない。
新宿に来ると、つい歌舞伎町に足が向いてしまうのは、自分がまだ恵まれていると思わせてくれるからだ。あさましいとは思いつつも、「ここまでは落ちていない」と勇気をもらえる。
■大家族制に戻りつつある日本
歌舞伎町を一周してから、新宿駅に向かった。
思いどおりの人生とはいえなかった。インフレと金融危機で、私の実家も妻の実家も、両親が年金だけでは生活できなくなった。それで空き家のまま投げ売りされている3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らせるようにしたのだ。
同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。
孫が近くにいることもあってか、私と妻の両親同士は仲良くやっており、朝から4人で畑仕事に精を出している。すこしでも節約するために、自分たちが食べるものは、できるだけ自分たちでつくらなければならない。今年はアスパラガスやホウレン草がよく育ったという。
老人がどんどん元気になっているのは、毎日の農作業の健康効果もあるのではないだろうか。
■「シャッター街」か「ネオ中華街」か
東京の池袋や大阪の西成などの「ネオ中華街」は、いまでは本国と区別がつかない規模にまで拡大した。こうした変化を嫌う保守的な日本人もいるが、悪いことばかりではない。
私が引っ越した地方都市はこれといった観光資源がなく、インバウンドの集客も期待できないので、ほとんどの店は廃業してシャッターを下ろしてしまった。だがそんな街でも、家賃の安さに惹(ひ)かれて、最近は外国人の家族連れが増えてきた。
さびれていた地元の商店街は、中国やタイ、ベトナム、インドなどの食材を扱う店やエスニックのレストランが増えたことですこしずつ活気を取り戻しつつある。最近は、地域の祭りを復活させようという機運が盛り上がり、神輿の上にガネーシャが乗ったデザインがネット上に公開されて物議をかもした。
「日本の伝統を守れ」というひとたちは、こうした動きにいちいち反発しているが、年寄りしかいない死んだような町よりも、外国人の若者がたくさんいる、活気のある町のほうがずっといいと私は思う。
■「ビール」「つまみ」セットが1万円の世界線…
新宿駅に着いたのは午後6時10分前で、駅前広場には街娼と赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まりはじめていた。
嬌声と哀訴の声に耳を閉ざし、スーツの袖をつかむ骨ばった腕を払いのけて改札を通り抜け、1万円でビールとつまみを買って、午後6時発の特急電車に乗り込む。南アルプスの家から月曜の夜に東京に来て、人形町のネットカフェで過ごし、木曜の夜に家族の待つ田舎に戻る生活をはじめて1年になる。
列車が動き出すと、プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込んだ。
この週末は、失業した妻の弟が、一緒に暮らせないかと相談に来ることになっている。長女の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員が私を頼っているのだ。
中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月に照らされた満開の桜を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。(了)
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橘 玲(たちばな・あきら)
作家
1959年生まれ。早稲田大学卒業。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部を超えるベストセラーに。05年の『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補に。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。著書に『「読まなくてもいい本」の読書案内』(ちくま文庫)、『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)、『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』(幻冬舎文庫)、『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)など多数。
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(作家 橘 玲)

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