■NHK大河で描かれた信長の残酷さ
織田信長が苛烈な君主で、かなり残酷な行いにも躊躇がなかったのはまちがいない。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、そう描かれている。
第25回「変事の予兆」(6月29日放送)では、信長(小栗旬)は3人の家臣を追放した。筆頭家老の佐久間信盛(菅原大吉)、宿老のひとり林秀貞(諏訪太朗)、斎藤家の家臣だったが織田家に寝返った安藤守就(田中哲司)。ドラマでは信長が彼らに相撲をとらせ、負けた途端に追放を命じる、という展開だった。相撲をからめたのはフィクションだが、天正8年(1580)8月、彼らが織田家を追放されたのは史実である。
第24回「軍師官兵衛!」(6月21日放送)では、信長に反旗をひるがえし、有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城していた荒木村重(トータス松本)が逃走。信長は怒るとともに、有岡城に残っていた村重の妻子や家臣らを、見せしめとして皆殺しにさせた。ドラマでは、村重の妻のだし(山谷花純)が京都の六条河原で斬首されたが、『信長公記』などによれば、ほかにも六百数十人が皆殺しにされた。
さすがにドラマでは描写できないが、まず上級家臣の妻子たちは磔にして惨殺された。しかし、それはまだ処刑方法としてはマシなほうで、多くは小屋に閉じ込められ、周囲に藁を積んで火をつけ、焼き殺された。
■秀吉、秀長の描かれ方には違和感
同じ回では信長の嫡男、信忠(小関裕太)の残酷さも強調された。信長に歯向かうとどうなるか知らしめるために、羽柴秀吉(池松壮亮)が包囲している三木城(兵庫県三木市)に籠る城兵やその家族らを、見せしめとして皆殺しにするように主張した。三木城主の別所長治(下川恭平)は荒木村重と共同戦線を張っていたので、有岡城が落城した以上、こちらも落ちるのは時間の問題だったのだ。
結果としては、黒田官兵衛(倉悠貴)が割って入って、播磨(兵庫県南西部)の人民の心を羽柴、ひいては織田家に引き寄せるためには、あまり手荒なことをすべきでない、と主張し、信忠は三木城についての判断を、秀吉と小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)にまかせることにした。しかし、信長だけでなく、その直系の信忠も残酷なのだ、と感じ取った視聴者は、少なくなかっただろう。
実際、信長の仕打ちは、今日の基準からはもちろん、当時の標準とくらべても残酷なことが少なくなかったから、「豊臣兄弟!」でこのように描かれるのは、別におかしいことではない。
しかし、ひとつ問題を指摘したい。このドラマでは、信長父子との対比のうえで、秀吉と秀長兄弟は非常に寛大で、人命重視で、今日的にいえばヒューマニストであるかのように描かれている。その点には、強い違和感を覚えざるをえないのである。
■「豊臣兄弟」は本当にヒューマニストだったのか
第24回では、三木城の城兵を救出することに、とくに小一郎がこだわった。有岡城に籠城していた人たちの命を救うことができなかったことを深く悔いて、三木城ではなんとか救いたい、という思いを強く打ち出した。
前述のように、信忠が最終的に、三木城の処分について羽柴兄弟にまかせたので、まず秀吉が三木城に乗り込んで城主の別所長治らと話し合い、長治が腹を切るのと引き換えに、城に籠る長治の家族、家臣とその家族らの命は救われることになった。
残酷な信長と信忠のやり方に羽柴兄弟が抵抗して、同じく戦争が終結するのでも、できるかぎり人命が救われる道が選ばれた、という描き方だった。信長父子の残酷さにくらべると、羽柴兄弟は大いにヒューマニストである。戦国時代であり、天下一統の過程だから戦争は避けられないにしても、無駄な犠牲は極力避けるのが羽柴兄弟のやり方であり、願いなのだ――。
ドラマでそうハッキリ説明されたわけではないが、明らかにそういう展開だった。だが、結論を先にいえば、筆者には史料等で確認できるかぎり、信長より羽柴兄弟のほうが、よほど残酷だったように思えるのである。
■史実における三木城攻めの残酷さ
たしかに秀吉と秀長は、自軍の兵力の損失ができるだけ少なくて済む戦法を選択した。しかも、そうしたやり方が極端なまでに徹底されることが多かった。しかし、誤解してはいけないが、彼らのベースにあったのは、今日的な人命尊重の考え方ではない。目的は人命ではなく、あくまでも兵力の温存だった。
兵力の温存を優先したのは、なにも羽柴兄弟だけではない。この時代の武将は、次の戦争に備えるためにも、だれもがそれを考えた。だから、真っ向からぶつかって味方にも敵にも大きな損失が出る野戦は、可能なかぎり避けるものだった。
この点をとくに徹底させたのが羽柴兄弟だった。実際、前述の三木城も兵糧攻めの末に落城させ、たしかに、自軍の損失は最小限に済ませた。
だからといって、「豊臣兄弟!」で描かれたような、穏やかな終戦ではなかった。それどころか、信長による有岡城の皆殺しよりも、むしろ残酷な結末を迎えたといえる。
■飢えた城兵の首を次々とはねた
秀吉は三木城を1年10カ月にわたって包囲した。時間はかかったが、直接的な戦闘はあまりなかったので、自軍にはあまり損失が出ていない。では、三木城側はどうだったか。周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築く臨時の城)が配置された三木城は、食料の補給路がすっかり断ち切られてしまった。その結果、「三木の干殺し」と呼ばれる地獄のような事態となった。
城内の状況は凄惨をきわめた。なにしろ城内には、別所一族のほか、家臣や別所氏に同調した武士たちとその家族、さらには浄土真宗の門徒らも籠っていた。
しかも、「豊臣兄弟!」のように、秀吉が三木城を訪れ、穏やかに交渉したのではない。天正8年(1580)1月6日、秀吉は籠城者が飢え切り、多数の餓死者が出ている三木城への総攻撃を仕かけた。この状態になれば、もう城を攻めても自軍にさほどの損失は出ない。その挙句、17日に別所長治以下、叔父の別所賀相、弟の別所友之の3人が切腹した。
だが、城兵が救われたとは伝わっていない。秀吉と蜂須賀正勝が宇喜多直家に伝えた文書によれば、城兵たちは1カ所に押し込められ、皆殺しにされたという(『沼田家文書』)。秀吉が長宗我部元親に宛てた文書にも、城兵の首はことごとくはねたと書かれている。
■残酷さは羽柴兄弟にこそ徹底していた
その後も、羽柴兄弟は三木城に続いて、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変までの2年余りのあいだに、「鳥取城の渇え殺し」と「備中高松城の水攻め」を敢行した。ともに城兵を徹底的に飢えさせ、この世の地獄を現出させた点で共通している。
鳥取城(鳥取市)では、吉川経家が切腹して城兵の命は守られたものの、飢餓状態に陥っていた城兵の多くは、秀吉が振舞った粥を食したのちに急死したと伝わる。長期間の飢餓状態ののち、胃に急に食べ物を入れたために、体内の電解質のバランスが崩れて重篤な症状を引き起こすリフィーディング症候群を発症した可能性が指摘されている。
また、備中高松城(岡山市北区)の場合は、本能寺の変で信長が討たれた直後に、それを隠して和睦したため、城主の清水宗治が切腹することで城兵の命は助けられた。だが、信長が存命だったら、どんな結末になっていたことか。
いずれにせよ、残酷さは信長父子の専売特許ではないどころか、自軍の兵さえ温存されれば、敵はどんな悲惨な状況になっても構わない、というスタンスは、むしろ羽柴兄弟にこそ徹底していたといえる。
もっとも、当時は敵に甘い顔を見せた途端に、自分が討たれかねない弱肉強食の時代だった。信長のやり方も、羽柴兄弟のやり方も、今日の価値観で批判するのは簡単だが、それでは戦国時代を見誤ってしまう。「豊臣兄弟!」に描かれている羽柴兄弟、とりわけ小一郎のように、なによりもまず人命尊重を優先しているようでは、敗北への道をまっしぐらであったことは強調しておきたい。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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