日本史を書き換えた王国はどこにあったのか。歴史学者の武光誠さんは「2015年の発掘調査で、九州北部の奴国が中国に遣使するより200年以上も前に有力な王国があったことが明らかになった。
これは50年に一度の大発見とも呼ぶべきものだ」という――。
※本稿は、武光誠『直近20年の新発見で解き明かす 古代史の真実』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
■50年に一度の大発見
「それまでに予想できないものが出土して、日本史が大きく書き換えられた」
古代史の分野ではごく稀(まれ)に、こういったことが起こる。
平成27年(2015)に、淡路島の南西部の海岸で、衝撃的な出来事があった。それは一部の報道によれば「50年に一度の大発見とも呼ぶべきもの」であった。
紀元前4世紀から2世紀頃にいたる長い期間にあった、「淡路王国」と呼ぶべき集団の存在が明らかになった。九州北部の奴国が中国の前漢朝に遣使するより200年以上も前に、淡路に有力な王国があったのだ。
南あわじ市西部で採取された土砂の中から、古い時代の7個の銅鐸がまとまって発見されたのである。この銅鐸には便宜上、松帆(まつほ)1号から松帆7号までの呼び名が付された。
7個の銅鐸のなかの最大のものが、高さ31.8センチメートルの松帆6号銅鐸である。そしてそれに次ぐのが、高さ31.5センチメートルの松帆3号銅鐸になる。
松帆銅鐸中の最小のものは、高さ21.1センチメートルほどのものだ。
それでも7個の銅鐸は、いずれも同時期のものの中で比較的大きい上質なものであるとされた。
銅鐸は、時代が下がるにつれて大型化していく。それは銅剣銅矛(どうほこ)が、細型のものからしだいに幅の広いものへと変わっていく動きに対応するものである。
松帆銅鐸の調査がすすむ中で、平成29年(2017)に興味深い報告がなされた。
「松帆銅鐸は1世紀はじめにまとまって地中に埋納(まいのう)されたと考えられる」というものである。
淡路島南西部を中心地とした小国連合を、「淡路王国」と名付けておこう。この淡路王国は1世紀はじめ頃まで、銅鐸の祭祀を行なっていた。
そして大陸からまとまった数の銅鏡を入手できるようになったあと、銅鏡を用いた新たな祭祀を始めたとも考えられる。
■紀元前4世紀につくられた海の道
松帆4号銅鐸のなかには、植物片が残っていた。そして炭素測定法を試料にして植物片を調べたところ、試料の年代が弥生時代中期にあたる紀元前4世紀のものである点が明らかになった。
銅鐸の形式からみて松帆7号銅鐸は、7個の松帆銅鐸のなかの最古のものとみられる。
そして松帆銅鐸のなかで最も新しい松帆2号銅鐸は、その形式からみて弥生時代中期後半にあたる紀元前2世紀頃につくられたと考えられる。

淡路王国では、紀元前4世紀に銅鐸の祭祀が始められた。そして紀元前4世紀から紀元前2世紀にかけて複数の銅鐸が作られ、王国の大切な祭器として伝来されていった。
しかし、そのような銅鐸の祭祀は、弥生時代後期が始まってまもない1世紀に行なわれなくなった。しかし松帆銅鐸が埋納された後も、淡路王国は交易の拠点となる有力な勢力として続いたのであろう。
松帆7号銅鐸の成分分析によって、その銅鐸に朝鮮半島産の鉛(なまり)が使われていたことが明らかになった。そうすると淡路王国は、朝鮮半島の交易民が日本に持ち込んだ銅素材か壊れた青銅器を購入したと考えてよい。かれらは自国の工房で、それを鋳(い)なおして銅鐸をつくったのであろう。
青銅器の材料は、朝鮮半島南端から玄界灘、関門海峡を経て運ばれた。それはそこから、瀬戸内海の山陽側か四国側を経て、瀬戸内海に面した淡路島の西岸を通って淡路王国に持ち込まれたのだろう。
紀元前4世紀という早い時点で大陸と淡路王国とを結ぶ、このような海の道がつくられていたのだ。
■交易で栄えた弥生時代の王国
同じ鋳型でつくられた銅鏡を、「同笵(どうはん)の銅鏡」という。松帆銅鐸の同笵の銅鐸を調べていくと、淡路王国と出雲との思いもよらないつながりが浮かび上がってきた。

出雲にある出雲(いずも)市の荒神谷(こうじんだに)遺跡と雲南(うんなん)市の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から何点もの銅鐸がまとまって出土していた。そして松帆銅鐸が出土したあと、荒神谷遺跡の銅鐸の1つが、松帆6号銅鐸と同笵である(同じ鋳型でつくられた)ことが明らかになった。
さらに加茂岩倉遺跡の銅鐸の中からも、松帆3号銅鐸と同笵のものが見付かった。淡路王国で製作された銅鐸が、出雲に持ち込まれたのであろうか。そうすると淡路王国から淡路島西岸を通って吉備(きび)(岡山県および広島県東部)にいたる、「海の道」ができていたことになる。
銅鐸は、吉備から陸路で中国山地を越えて出雲に持ち込まれたのであろう。
松帆銅鐸のなかの2号銅鐸、4号銅鐸、6号銅鐸の3点は、同笵でつくられていた。そしてこれらの銅鐸と同笵の銅鐸が、松帆銅鐸の出土地の近くから見付かっていた。
南あわじ市の松帆地区から出土したと伝わる「中(なか)の御堂(みどう)銅鐸」が3点の松帆銅鐸と同笵であったのだ。中の御堂銅鐸は、江戸時代に偶然掘り出されたものだと伝えられている。
こういったことを考え合わせると、淡路王国がらみの青銅器が、今後も見付かる可能性が高い。淡路島の南西部という意外なところに、交易で栄えた弥生時代の王国がつくられていたのだ。

■国生み神話を伝えた淡路王国
淡路王国の船団は、淡路島南岸を通り、紀淡(きたん)海峡を渡って木(き)(紀伊(きい))の小国とも往来したとみられる。そこから紀の川を遡(さかのぼ)り、山を越えれば大和に入れる。
それゆえ弥生時代後期の1世紀頃になると大和の小国の首長たちが、「淡路島に有力な小国連合がある」ことを知るようになったと思われる。
淡路王国をはじめとする淡路の国々が土地の守り神として祀ったのが、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)という夫婦の神であった。淡路の人びとは「夫婦の神が島々を生んだ」とする南方の神話にならって、伊奘諾尊と伊奘冉尊が淡路島とその周辺の島々を生む神話をつくった。
この神話がヤマト政権の王家に取り入れられて、『日本書紀』などに見える「国生み神話」になった。ヤマト政権が王家の祖先神話を整えていく過程で淡路島の素朴な神話は、夫婦の神が「大八島」と呼ばれる、古代の日本列島を構成する島々を生む話に変えられた。
そのときに、伊奘諾尊が娘の天照大神に高天原(たかまがはら)と地上の支配権を譲る話も、付け加えられた。そして娘に地上を委(ゆだ)ねたあと、伊奘諾尊は淡路島で過ごすようになったとされた。
今でも、あわじ市の一宮(いちのみや)の伊弉諾神宮で伊奘諾尊、伊奘冉尊の夫婦の神が祀られている。そこは『日本書紀』の時代以前から続く古社といわれている。
平安時代に伊弉諾神宮は、淡路国で最も権威のある神社である、淡路一宮とされた。

松帆銅鐸が埋納された後も、淡路王国は有力な王国として続いた。平成21年(2009)に、淡路市の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡という弥生時代後期の工房跡が発見された。
■鉄器の生産地となり交易によって勢力を拡大
そこからは、127点の鉄製武器が出土した。さらに工房と思われる建物も12棟見付かった。工房には、鉄の加工に用いられた石器が多数残っていた。
平成29年(2017)には、五斗長垣内遺跡の近くの淡路市の舟木(ふなき)遺跡が発掘された。
そこには、大掛かりな工房であったとみられる大型竪穴住居があった。
その大型竪穴住居跡の土間の床には、土が赤く焼けた鉄器加工用の炉の跡があった。そのあたりには鉄器をといだ砥石(といし)や60点ほどの鉄製品が残されていた。
1世紀から2世紀にかけて、淡路王国は鉄器の生産地となり、鉄器の交易によって勢力を拡大していったのである。
しかし交易の中心地としての淡路王国の地位は、しだいに後退していったと考えられる。2世紀後半に、吉備の小国連合の勢力が急速に拡大していったためである。

2世紀末に、岡山県倉敷(くらしき)市の楯築(たてつき)墳丘墓が築かれた。その墳丘墓は直径40メートルの円形の本体の両側に、約20メートルの突出部を付けたものである。
この楯築墳丘墓は、全長が約80メートルもある。にあげた纒向遺跡の発生期の古墳に近い規模をもつものであった。瀬戸内海の海の道は、有力な墳丘墓を残せるだけの勢力を誇る吉備の小国連合の支配下におかれるようになったと考えるほかない。
そのため淡路王国と出雲との交易は、吉備で断ち切られた。中国地方で、淡路王国は海路で吉備とだけ取り引きせざるを得なくなった。
■纒向遺跡を開発、西日本の交易の中心地へ
2世紀のごく末か3世紀のごく始めに、吉備の複数の集団がまとまって大和に移住した。かれらはこのあと纒向遺跡を開発し、そこを西日本の交易の中心地とした。
こうなると淡路王国が主導権をもつ交易路は、2つの短い海路に限られてしまう。1つは、淡路島西岸経由で吉備にいたる道である。そしてもう1つは、紀淡(きたん)海峡の道である。
ヤマト政権はしだいに勢力圏を拡大し、大阪湾の海路と紀伊経由の道との両方向かう淡路に接近してきた。
そのため淡路王国を構成する小国は、纒向遺跡が拡大して後期纒向になった3世紀後半あたりにヤマト政権に従ったのではあるまいか。

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武光 誠(たけみつ・まこと)

歴史学者

1950年、山口県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。同大学院博士課程修了。文学博士。2019年に明治学院大学教授を定年で退職。専攻は、日本古代史、歴史哲学。著書に『渡来人とは何者か』『一冊でわかる仏教とお寺』(河出書房新社)、『古代史入門事典』(東京堂出版)、『図説 ここが知りたかった!神道』『日本史を生き抜いた長寿の偉人』(小社刊)などがある。

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(歴史学者 武光 誠)
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