事象の大小問わず、うっかり口にした一言で状況が急速に動き出すことがある。東ドイツの広報官のギュンター・シャボフスキーは新たな政令について書かれた紙を、記者会見用に受け取ったものの、激務すぎて発表内容を詳しく把握できていなかった。
結果、誤った発言をしたことがベルリンの壁の崩壊の引き金になったという。クイズ作家の近藤仁美さんが書いた『世界を変えた「凡ミス」図鑑』(三笠書房)より、紹介する――。
■不和ではなく国の融和を実現した勘違い
勘違いはときに人の不和を招くが、俗に「歴史上最も素晴らしい勘違い」と呼ばれる出来事は、ある国の融和を実現した。1989年11月、今のドイツが東西に分かれていた時代のことである。
第二次世界大戦後、敗戦国のドイツは、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランスによって分割統治されることになった。このときの分け方は、国の東側を社会主義のソ連が、西側を資本主義のアメリカ・イギリス・フランスが受け持つ、というものだった。
1国を急に二つに分けるとなると、国民にとってはそれだけでも混乱必至である。さらに事態を複雑にしたのは、旧ドイツの首都・ベルリンの統治だった。
ベルリンは、東側の中心部からやや北東寄りの場所に位置したが、西側の資本主義諸国としては、最も発展した首都を手放したくない。そこで、ベルリン内だけ、さらに東西に分けられた。
分割されたとはいえ、当初は統治者が違うだけでベルリンの東西を行き来することもできた。ところが、地域を治める考え方が違えば、経済の発展具合も変わってくる。

たとえば、ソ連によって社会主義に移行した東側では、何をどれだけ生産するか決めるのは政府であり、市場での自由な競争や技術革新は起きにくかった。
また、ソ連への戦争賠償で、鉄道のレールや工場の機械が接収されてしまい、東側はもとのインフラが失われた状態からのスタートにならざるを得なかった。
■東側から西側へ、約300万もの人が流出
一方で、アメリカ・イギリス・フランスが資本主義で統治した西側では、企業の競争によって高品質かつ消費者のニーズに合うものが作られていった。
また、復興のためにアメリカから強力な経済援助が行なわれたため、インフラをはじめとする人々の生活基盤が急速に整った。
こうしたいきさつで、東ドイツと西ドイツには、埋めがたい経済格差が生じた。
互いの状況をまったく知らなければ、「まあ、こんなものか」と過ごせたかもしれない。しかし、もとは同じ国だけあって、情報は入る。
その結果、戦後から1960年代初頭にかけて、貧しい東側から裕福な西側へ、約300万もの人が流出した。その半数以上は、同じ市内で東西の行き来ができたベルリンを経由し、西ドイツに入るというルートだった。
焦ったのは東側だ。人がいなければ、そもそも国が成り立たない。状況は深刻で、医師・看護師の出国で病院は閉鎖寸前。
水道などの公共設備すら、市の係員の逃亡で不具合続出だった。
■数時間のうちに155キロメートルの壁
そのとき誰かがひらめいた。西ベルリン、入れないようにしよっと。
実現方法は、とんでもない力技だった。
人が寝静まった夜、ほんの数時間のうちに街に壁を造ったのだ。
人がいない田園地帯などは、コンクリートでなく有刺鉄線の部分もあったが、それでも全長155キロメートル! 西ベルリンはすっぽり覆われ、たまたま遊びや仕事で出かけただけの人すら、反対側に帰れなくなってしまった。
この「壁」は、その後28年の長きにわたって東西ベルリンを分断し続けた。よじ登ったり、壁の地下を掘ったりして逃げた人もいたが、見つかれば逮捕や射殺が待っていた。
ちなみに、1964年に地下道で57人が脱出した出来事は、計画に加担した人々の間で「トーキョー作戦」と呼ばれている。1964年といえば、そう、同年開催の東京オリンピックにちなむ隠語だ。
いずれにしても、東ドイツの人々は、壁の存在や東西の経済格差に不満を募らせていった。1989年には、政府が選挙結果を操作したことで大規模な反政府デモが起き、旅行の自由化が求められた。

当時は、たとえ旅行であっても国民が西側に行かないよう、政府が制限をかけていたのだ。さらにいえば、東ドイツの場合、同じ共産圏である東欧諸国への旅行も自由ではなく、許可や制限を伴うことが多かった。
国民による反政府デモが勢いを増すにつれ、彼らに対応する役人たちは疲れ切っていった。
■ドイツの運命を変えた「夕方の記者会見」
(ああ、今日も忙しい)
1989年11月9日。東ドイツ政府の広報官ギュンター・シャボフスキーは、新たな政令について書かれた紙を、記者会見用に受け取った。
現在17時50分で、会見開始は18時。今日もバタバタだった。急いで会見の現場に向かう彼には、紙を読み込む暇などなかった。
シャボフスキーが会場に着くと、会見が始まった。出席した記者は400人。テレビで放送もするが、特別な場ではなく、ほぼ毎週行なっている定例のものだ。今日もいつもどおり終わる。
その場にいた全員が、きっとそう思っていた。
シャボフスキーは、例の紙を開き、内容を伝えていった。紙には、このところ政府で話し合われていた旅行規制の緩和についても書かれていた。
会見の終盤、一人の記者が手を挙げた。
「旅行の自由化は、いつから始まるんですか?」
……えっと、いつだ? シャボフスキーは紙に目を落としたが、具体的な開始日時などは書かれていなかった。一方で、規制緩和の政令文には、「遅滞なく」という文言があった。
「私の知る限り……直ちにです。遅滞なく」
その瞬間、会場がざわめいた。退屈な定例会見かと思いきや、とんだ特ダネだ。今後は、合法的に国境を越えられる地点からなら出国できるらしい。
ということは、もしや。
「ベルリンの壁の検問所からもですか?」
再び質問が飛んだ。
これに対し、シャボフスキーはこのように答えた。
「はい、ベルリンの壁を含め、すべての国境通過点からです」
実は、この会見は色々と間違っていた。
■発表前の報連相が足らなかった
そもそも、旅行自由化の政令は、まだ成立していなかった。成立のためには閣議決定をする必要があったのだが、11月9日の段階では、閣議に持っていくための関係機関の承認が済んだだけ。
しかも、例の「遅滞なく」の文言は、政令発令後、ビザの発給を求められたら迅速に対応するように、という話だ。少なくとも今じゃない。
もう一ついえば、ベルリンの壁の検問所は、合法的な「国境通過点」ではあるが、規制緩和の対象外になるはずだった。
なぜここまで、幾重にも間違えたのか。
シャボフスキーに問題の紙を渡したのは、東ドイツの最高指導者であるエゴン・クレンツという人物だった。クレンツは、シャボフスキーが新政令の議論に参加しているメンバーの一人だとわかっていたためか、紙の内容について詳しい説明をしなかった。
ところが、シャボフスキーは激務すぎて、議論の途中で何度も中座してしまっていた。そのせいで、細かい内容や発効時期、さらにはメモの内容のうち今日の時点では黙っておくべきことを把握できていなかった、というわけだ。

……ああ、報連相。発表前に内容を確認し合っていたら、この事態は防げたかもしれない。
■新時代の幕が開け、世界3位の経済大国へ
とはいえ、常に過労気味の現場だ。あとから考えれば「なんで聞かなかったの?」と思うようなことでも、抜けてしまうのは想像に難くない。しかもこれ、国中にテレビ放送か。他人のことなのに、なんか胃が痛い。
シャボフスキーの発言後、東ドイツの国民がベルリンの壁に押し寄せた。西側からも人が集まり、ともに「壁」を破壊。東西の人々は、シャンパンを開け、抱き合って喜んだ。
こうして、新時代の幕が開けた。統一されたドイツは、今やGDP(国内総生産)では日本を抜き、世界3位の経済大国になっている。

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近藤 仁美(こんどう・ひとみ)

クイズ作家

三重県生まれ。早稲田大学教育学部卒業および同大学院修了。在学中からクイズ作家として活動を始め、日本テレビ系『高校生クイズ』の問題作成を15年間担当したほか、『頭脳王』『クイズ! あなたは小学5年生より賢いの?』『せっかち勉強』などのテレビ番組や、各種メディア・イベント等で問題作成・監修を行ってきた。2018年より国際クイズ連盟日本支部長。クイズの世界大会では日本人初・唯一の問題作成者を務める。

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(クイズ作家 近藤 仁美)
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