■光秀の「空白の10日間」
天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀は本能寺を急襲して織田信長を討ち果たした。だが、信長の首は発見できなかった。本能寺が紅蓮(ぐれん)の炎に包まれ焼けた遺骸が数多く転がっていたため、その中から信長を判別するのは不可能だったのだろう。また、二条新御所で討った嫡男・信忠(のぶただ)の首も見つからなかった。
首級を上げたことを確認できない勝利だった。しかし止(とど)まってはいられない。次の段階へと進むしか、光秀に道はなかった。差し当たっては、まず京の都と近江の確保だった。
光秀は、この「差し当たって」の目的に6月2日から11日までの10日間を費やす。そして朝廷から京の治安維持を任されるなど一定の成果はあげたものの、味方となってくれると予想していた有力諸将の懐柔に失敗する。
対してこの間、ライバルの羽柴秀吉は中国大返しを着々と進めていた。
いったい6月2日から11日まで、光秀はどこで、何をしていたのか。本稿はその日々を時系列に解説し、そこから導かれる光秀の敗因をあぶり出したいと思う。
■光秀が進撃をあえて避けた土地
【6月2日その1】
光秀は京に残る織田勢の残党狩りを命じると、自らはまず近江に向かい、琵琶湖東岸にある信長の拠点・安土城を占拠しようとした。
実際、光秀と交流のあった公卿の吉田兼見(よしだかねみ)は『兼見卿記』に、「(2日の)未(ひつじ)の刻(午後1~3時頃)、粟田口(あわたぐち)(東海道の入り口)あたりまで乗馬して行き(安土に向かう途上の)光秀に対面した」と記している。
半面、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)・大和(奈良県)・丹後(京都府北部)といった、光秀に関係深い地には進軍しなかった。各地に光秀と懇意にしていた諸将がいたからだ。
摂津には中川清秀(なかがわきよひで)と高山右近(たかやまうこん)、大和には筒井順慶(つついじゅんけい)、丹後には細川藤孝(ほそかわふじたか)がいた。彼らの領地に兵を向けるのは、諸将を敵に回すリスクがあった。逆にいえば彼らには2日頃から書状を送り、「味方について欲しい」と依頼する工作を水面下で始めていたと考えられる(詳細は後述)。
なお、大坂の堺にいた徳川家康には討手を送ったようだが、危険を察知した家康は逃亡し(伊賀越え)、岡崎(愛知県岡崎市)へ帰還している。
■近江はこうして光秀の手に
【6月2日その2】
安土城を目指した光秀は、瀬田(せた)の唐橋(からはし)(滋賀県大津市)で足止めを食う。信長の配下で瀬田城主だった山岡景隆(やまおかかげたか)が、橋を焼き落としていたためだ。
そこで橋の応急的な修復を命じ、光秀本人はいったん居城の坂本城(瀬田の唐橋から北へ約12km)へ戻った(『信長公記』『惟任謀叛記(これとうむほんき)』)。
【6月4日または5日】
4日に橋の修復が完了し進軍を再開。ただし『兼見卿記』には橋の復旧前に兵を進軍させた形跡も記されており、坂本城から船で琵琶湖を渡った可能性も指摘されている。いずれにせよ、同日には安土城に入った(ルイス・フロイス『日本史』、奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)・多聞院(たもんいん)の僧たちが残した記録『多聞院日記』)。
一方、『兼見卿記』は安土入城を5日と記しているため、4日または5日のどちらが正確だったかは、よくわからない。
安土城には、すでに2日に「信長死す」の報がもたらされていたらしく、守備の役に就いていた蒲生賢秀(がもうかたひで)は上臈衆(じょうろうしゅう)(身分の高い子女)を避難させた。上臈衆は城にある金銀・宝物を持ち出し、城を焼くことを主張したが、蒲生は「天下無双の御屋形(おやかた)(安土城)」を焼いて金銀を持ち出すなど「嘲笑」の的となると退けたという(『信長公記』)。
『兼見卿記』も蒲生が抵抗せず城を明け渡したことを匂わせており、無血開城に近かったと思われる。光秀は安土城に入ると財宝を家臣たちに分与し、人心掌握に努めたという(イエズス会報告書『日本耶蘇会年報』)。
明智軍はさらに北上し、光秀に加担した武田元明(たけだもとあき)が丹羽長秀(にわながひで)の佐和山(さわやま)城(滋賀県彦根市)を、京極高次(きょうごくたかつぐ)が秀吉の長浜(ながはま)城(同長浜市)を落とし(『多聞院日記』)、5日にはほぼ近江を制圧した。
■光秀に着々と迫る足音
【6月7日】
吉田兼見を朝廷の勅使として安土城に迎え、「京に支障がないよう申し付ける」と、都の治安維持を一任される。その際、正親町(おおぎまち)天皇の嫡子・誠仁(さねひと)親王から贈られた緞子(どんす)(高級絹織物)を受け取っている。
このとき吉田は「謀叛の存分」について光秀と雑談したと『兼見卿記』に記しているが、その「存分(思い)」の内容が書かれていない。「存分」が詳しく記されていたら、なぜ信長を襲ったか、胸の内が判明していた可能性はあるだろう。
日にちは前後するが3日には京の賀茂別雷神社から、5日には奈良興福寺から、光秀とその家臣たちに金子(きんす)が贈られたともいう(『蓮成院記録』)。これらを見た限り、朝廷と有力寺社は信長から光秀へと権限が移譲したことを、暫定的に一部認めていたフシがある。
ただし、武家同士の抗争に勝った側への儀礼に過ぎないだろう。光秀を倒す者が現れたら朝廷も寺社も即座に手のひらを返す。そして光秀を倒す者・秀吉は、怒涛のごとく中国地方から引き返す真っ只中にいた。
■わずか数時間で決した勝敗
【6月8~11日】
8日、京へ向け安土を出発。同日中に先陣は山科(京都市山科区)に着陣し、翌9日に入京。
入京した光秀は吉田兼見邸を訪れ、正親町天皇と誠仁親王に銀子500枚、有力寺院にも100枚を贈っている。吉田は朝廷・寺社への取次を担う、頼りになる存在だったとわかる。
10日、河内方面(大阪府東部)に兵を進め洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣取り、筒井順慶の合流を待ったが、順慶は現れなかった。
その後、秀吉に備えて山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に陣を敷き、防衛ラインを整えた。秀吉が山崎から南西に12kmの富田(とんだ)に着いたのは翌日。戦いは小競り合いを経て13日夕刻に本格開戦し、わずか数時間で大勢が決まり、光秀は敗れる。
■それでも細川は動かなかった
2日から11日までの10日間、光秀は各地の有力諸将に多くの書状を送ったと考えられる。すでに2日には美濃の西尾光教(にしおみつのり)に宛てた書状が確認でき、そこには「信長父子の悪逆が天下の妨げになっていた」と書かれている(『武家事紀』)。味方に引き入れるつもりだったが、西尾は光秀を拒絶した。
また6月9日付、細川藤孝・忠興(ただおき)父子に宛てた有名な書状がある(「明智光秀覚条々」永青文庫所蔵)。内容は下記の通りだ。
藤孝と忠興が信長の死を悼んで元結(もとゆい)を切ったのは、最初は腹が立ったが今は冷静に受け止めている。
そのうえで加勢してくれるなら摂津を与えよう。若狭や但馬が欲しいなら、それも良い。
そもそも今回の謀叛は忠興ら次世代の者たちを取り立てようとしたのが本意で、今後は忠興や私の長男の十五郎(光慶(みつよし))らに譲って隠居するつもりだ。
「元結」とは髷(まげ)を結ぶ紐である。藤孝と忠興は6月3日にこの紐を切った(俗世と縁を切ることを意味)。つまり光秀は3日までに細川親子に協力要請したが、ふたりは光秀と一切の関係を断つ決意を示していた。光秀は激怒し、翻意させようと使者を遣わしたが、細川の意志は固かった(細川家史『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』)。
そこで9日付「明智光秀覚条々」で再度翻意を促したのだが、それでも細川は動かなかった。
■名だたる武将ほど離れていく
大和の筒井順慶も光秀を拒絶した。
光秀は重臣の藤田伝五((ふじたでんご)を派遣し順慶を説得したが(『蓮成院記録』)、順慶はおそらく9日までに秀吉の大返しを知って出陣を中止し、10日に洞ヶ峠まで迎えに来ていた光秀と合流しなかった。出陣していながら洞ヶ峠で様子をうかがっていたという「順慶の日和見(ひよりみ)」は俗説で、今では光秀が出陣し軍事的に威嚇したが、順慶は決心を曲げなかったというのが有力だ。
摂津の中川清秀と高山右近も11日、中国から大返ししてきた秀吉と尼崎(兵庫県)で合流した。おそらくこの両名にも書状は送っていたと思われるが、ふたりとも光秀になびかず、そのまま羽柴軍の先鋒として山崎の戦いに挑んだ。
光秀に味方したのは、前述の武田元明や京極高次の他、近江の武将・阿閉貞征(あつじさだゆき)、丹波の並河易家(なびかやすいえ)・荒木氏綱(あらきうじつな)ら、いずれも弱小勢力だった。
さらに12日付、紀州(和歌山県)雑賀(さいか)の土豪・土橋重治(つちはししげはる)宛て書状が現存する。「写(うつし)」しか存在していなかったが原本が発見され、美濃加茂市民ミュージアムに所蔵されている。
土橋は室町幕府15代将軍・足利義昭と深い関係を持つ人物で、光秀が土橋を通じて義昭の上洛を働きかけていたように読める内容だった。そのためこの書状を根拠に、本能寺の変には義昭も何らかの形で関与していたのではないか、という説も浮上している。
だがよく読むと、「あなた(土橋)が義昭の上洛を望んでいるなら私も協力します」と返信しているに過ぎず、要はポスト信長の政権構想の中枢に義昭を据えるなら支援します(だから私の味方になりませんか?)と、連携を持ちかけているだけにも読めるのだ。
■光秀に足りなかった戦略と準備
この書状の後、光秀と土橋がどのようなやりとりをしたかはわからない。何しろ光秀は13日の山崎の戦いに敗れ、その直後に歴史から姿を消すのだから、書状の本当の意図は不明のままといえよう。
光秀は信長の下で京の代官を務めた経験から、朝廷や寺社の協力なしには物事が進まないと知っていた。それゆえ貴族と僧侶への工作には長けていた。
しかし、時は自らが起こしたクーデターによる非常時だ。そんな有事の際には「治安維持を任せる」などといった大義名分より、差し当たっての敵に戦(いくさ)で勝つことが最優先事項だ。
大義名分など、勝てばいくらでも後付けできる。秀吉はそれを知っていたからこそ、迅速に兵を動かし、仲間を増やし、勝つことだけを考えた。
本能寺で信長を殺害するまでは成功したものの、その後については緻密な戦略があったわけでもなく、準備不足だった。ゆえに大義名分という「形」を優先せざるを得ず、後手を踏んだ。
一次史料は光秀の人物評を「策略を巡らせる野心家」等と書き残している(ルイス・フロイス『日本史』など)。知将であり、策士である。そんな男がなぜ、先を読めず、道を誤ったのだろうか。
参考図書
・柴裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
・歴史群像シリーズ『俊英 明智光秀』所収 平野明夫「本懐と落胆 光秀天変の二十九日」(学研、2002年)
・福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』(中公新書、2020年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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