リニア中央新幹線にようやく全線着工の見通しが立った。ジャーナリストの小林一哉さんは「静岡県の川勝前知事が認めなかった県内での準備工事に着手することになるが、この工事の現場は非常に過酷な自然環境の場所にある」という――。

■大イベントに前知事の姿はなく
リニア南アルプストンネル静岡工区の工事着工を踏まえて、静岡県の鈴木康友知事は7月18日、JR東海の丹羽俊介社長と県自然環境保全条例に基づく自然環境保全協定を結んだ。
来賓に国土交通省の水嶋智・事務次官を招き、さらに、地元の難波喬司・静岡市長、大井川流域の島田市、焼津市、掛川市など10市町長、利水団体の代表らも同席して、鈴木知事と丹羽社長による自然環境保全協定の締結式を見守るなど、びっくりするほどの大イベントを演出した。
いちばん残念だったのは、この自然環境保全協定に最も関係の深い川勝平太・前知事が招待されなかったことである。
静岡県はこの締結式で、リニア工事に関して有する唯一の許可権限である河川法の占用許可を認めることも示した。今月中には、河川法の占用許可が出される。これで晴れて、JR東海は大井川の地下約400mでトンネル掘削を行うことができる。
丹羽社長は「今後、地元で工事説明会を開き、起工式・安全祈願祭を現地で行っていく。いつ、リニア工事に着工するかは未定」などと話した。
■「2027年開業」が遠のいた原因は?
なぜ、今回、静岡県は自然環境保全協定の締結式を県政史上初とも言える、異例の大イベントにしたのか?
その答えを解くには、6年前にさかのぼらなければならない。
2020年6月26日、JR東海の金子慎社長(当時)が静岡県庁を訪れ、ヤード(作業基地)の整備など準備工事の再開を川勝知事(当時)に求めた。
静岡県は、準備工事の再開には自然環境保全協定の締結が必要とした。結局、川勝知事は「自然環境保全協定を結ばない」と宣言、JR東海の準備工事再開を認めなかった。

この結果、JR東海は「リニア2027年開業は困難。静岡工区の未着工が理由」と発表、マスメディアが大々的にその内容を伝えた。
■川勝氏が遅らせた“犯人”に
川勝知事がJR東海と自然環境保全協定を結ばなかったことで、SNSを中心に「2027年開業を遅らせた“犯人”は川勝知事」となり、リニア開業を邪魔する「静岡悪者論」が広がるきっかけとなった。
つまり、自然環境保全協定を締結しなかったことが、リニア問題を巡る静岡県とJR東海との対立を最も象徴する出来事となったのだ。
それもあって、静岡県は、今回の自然環境保全協定の締結式を大々的に行うことで、リニア事業を推進する立場を鮮明にして、川勝知事時代の「反リニア」という世間の見方を一掃したかったのだろう。
いずれにしても、これだけでは非常にわかりにくい話である。実際に当時、いったい何があったのかをたどっていく。
■JR東海は準備工事を理由に挙げたが…
トップ会談の1カ月前、2020年5月29日の定例会見で、金子社長は突然、「6月中に静岡工区の準備工事が再開できなければ、リニアの2027年の開業は難しい」と発言した。
この金子発言に対して、川勝知事は「リニアトンネルを掘るための工事なら本体工事の一環だ。2027年開業はJR東海の単なる企業目標に過ぎない」などと、頭から準備工事の再開を否定した。
金子社長が求めた「準備工事」とは、椹島、千石、西俣の3つのヤード(作業基地)にそれぞれ、切り土や盛り土を行い、坑口付近の樹木の伐採などをした上で、濁水処理設備、火薬設備、非常発電設備など資機材を搬入して、将来、リニアトンネル工事に着手できた場合に備えるというものだった。
もし、3つのヤード整備だけを求めたならば、それほど時間の掛かるものではない。
JR東海は準備工事を3カ月程度と見込んでいた。
ふつうに考えれば、たった3カ月で終える準備工事だけ再開しても、2027年の開業に結びつくはずもない。
それも金子発言のたった1カ月前の4月27日に、リニア静岡工区の水資源問題を話し合う国の有識者会議が発足したばかりだった。有識者会議の結論が出ていない段階で、静岡県がトンネル本体工事を許可するはずはない。
それを考えれば、静岡工区のトンネル本体工事の着工にはどんなに早くても1年以上は掛かるのだ。
■現地の道路は台風被害で通行止め
金子社長の準備工事再開の要請に対して、川勝知事は、リニア工事現場につながる静岡市井川地区の沼平ゲートから二軒小屋までの全長27.3キロの静岡市の管理する東俣林道を早期に整備することを求めた。
2019年10月11日から12日かけて、台風19号が東日本に記録的な大被害をもたらした。東俣林道は2カ所で大崩落、30カ所以上で斜面崩壊、落石、土砂流出などに見舞われ、全面的に通行止めとなった。
いくら準備工事を行いたくても東俣林道の災害復旧が進んでいない状況を見れば、とうてい無理な話ではないかと川勝知事は言いたかったのだろう。
それでも、川勝知事と金子社長のトップ会談が決まった。たった3カ月の準備工事だけであれば、それを許可することに何の障害もなかった。ただ、それには自然環境保全協定を結ぶことが前提条件となっていた。

もともと自然環境保全条例には、静岡県が協定を拒否できる規制力はない。
条例では、企業が自然環境保全協定を結ばないで工事に入った場合、「企業名の公表」くらいの罰則しかないのだ。静岡県が条例で企業に協定締結を求めているのであり、逆に、県が協定締結を拒否する事例などないのだ。
■川勝氏は準備工事を認めるつもりだった
準備工事とは3つのヤードの樹木伐採、斜面補強や濁水処理設備の設置などを行うことである。ヤード整備は、川勝知事が許可権限を持つ河川法の占用許可とは全く関係のない話である。JR東海は県の自然環境保全条例に基づいた協定を結べばいいだけの話である。
それは川勝知事も承知していた。
6月26日のトップ対談で、金子社長は「ヤード整備は水環境問題とは関係ない。それ以前の問題と理解してもらいたい」と話して、準備工事の再開を求めた。
それを受けて、川勝知事は「県自然環境保全条例は5ヘクタール以上の開発整備であれば協定を結ぶ。県の権限はそれだけである」と回答した。わざわざ、トップ会談を行うほどの話ではないと言っているのだ。
事務方同士で調整すれば、それで済むような話である、と正確に理解していた。
だから、会談の終わったあとの囲み取材でも、川勝知事は「条例に基づいて協定を結べばよい。活動拠点を整備するならばそれでよいと思う」などと述べ、かたちの上では準備工事を認めていた。
■静岡県とJR東海が決裂した瞬間
ただ金子社長との対談では、川勝知事の説明は非常にわかりにくかった。そのため、1時間以上もたってから、再度、川勝知事の囲み取材の場が設けられた。
そこで川勝知事は「県自然環境保全条例に基づいてヤード工事を認めない」と宣言、以前から主張していた通りに準備工事を否定してしまった。条例の解釈を拡大したのであり、静岡県のやり方はあまりにも強引過ぎた。
その強引な反対に対して、JR東海は「リニア2027年開業は困難。静岡工区の未着工が理由」と発表したのである。
トップ対談翌日の新聞紙面は1面トップなどで、「知事ヤード整備認めず、JRリニア延期表明へ 初のトップ会談物別れ」(中日新聞)、「リニア27年開業延期へ 静岡県知事、着工認めず『JR東海の環境対策不十分』」(読売新聞)、「リニア27年開業延期へ JR東海社長と静岡県知事 会談で平行線」(日経新聞)などと伝えた。
そもそも、3カ月程度の準備工事と2027年のリニア開業困難には何の因果関係もない。ふつうに考えれば、誰もがわかると考えていた。
当然、JR東海の工事事務所関係者の多くは承知していた。
実際には、たった3カ月間の準備工事などやらせればいいのだ。それで2027年開業に間に合うというのならば、その「秘策」を見せてもらえばいい。いまとなってはJR東海の「秘策」が何かわからないが、川勝知事が自然環境保全条例を盾に準備工事を蹴ってしまったことの影響は大きかった。
■トップ会談4日後の豪雨が追い打ち
そんな大騒ぎがあったせいか、JR東海が求めた準備工事は何ひとつできていない。東俣林道を使い、すべての資機材を南アルプスのリニア工事現場へ搬入するところから始まる。
皮肉なことに、金子社長が2020年6月26日に静岡県庁を訪問した4日後、再び、豪雨が東俣林道を襲い、前年の台風被害が残る中で、新たな路肩欠損や道路冠水、斜面崩壊などで林道は全面閉鎖に追い込まれた。
その後も台風や大雨、豪雨などで斜面崩壊、道路欠損など毎年のように起きている。2022年には8月の台風8号、9月の台風14号、15号が立て続けに襲い、大きな被害をもたらしている。
これからも東俣林道では、もぐら叩きのように道路損壊や落石、斜面崩壊などが次々と起こることが予想される。南アルプスの静岡工区工事現場がそのような過酷な自然環境の場所にあることを理解しなければならないのだ。
■史上最難関のトンネル工事が待っている
6年前と違い、JR東海は「準備工事」に少なくとも半年、それどころか1年以上掛かる恐れもあると見ている。
南アルプスの現状を知れば知るほど、たった3カ月では済まないとわかったのだ。
川勝前知事は今年7月11日に静岡市で開かれたリニア反対集会に、長い手紙を送った。その中で、南アルプスの過酷な現場の状況を説明した上で、「(JR東海は)静岡県をルート上に入れた過ちをいさぎよく認める勇気を発揮されたい」と主張していた。
JR東海は、南アルプスの直線ルート選択が正しかったことを示すために、なるべく早期に南アルプストンネルを貫通しなければならない。しかし、それが当初考えていたよりもはるかに困難であることがわかっている。
18日の協定締結式に川勝前知事を呼んで、ご高説を拝聴したほうが、県民はじめ多くの人たちには、南アルプスのリニア工事がいかに大変なものになるのかを少しは理解できただろう。
ただ不適切な発言も非常に多いだけに、今回は、川勝前知事の招待を見送ったのかもしれない。あるいはJR東海がいやがっただけかもしれない。

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小林 一哉(こばやし・かずや)

ジャーナリスト

ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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(ジャーナリスト 小林 一哉)
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