「僕でいいなら父親にしてください」。タイでの性別適合手術直後、妻が妊娠していることがわかった。
遺伝子上の父親は妻が以前交際していたノーマル男性だ。血のつながりはなかったが、無条件で受け入れた。ただその後、体調が崩れ、生活保護を受給することに。さまざまな苦難に負けずに生きぬく家族3人をノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが取材した――。(後編/全2回)
前編のあらすじ】西日本在住の熊部悟朗さん(仮名・50代)は、物心ついたとき、すでに両親は離婚していた。スナックで働く母親に引き取られたが、母親1人で育てることができず、祖父母の家で育てられた。すでに3歳時に「性別違和」を感じていた熊部さんは小学校に上がると、男の子と遊ぶ方が楽しかった。小5の時に母親が再婚すると、母親と再婚相手と小3の娘と4人で暮らすことになった。初めは良かったが、母親はだんだん熊部さんや妹に暴力を振るったり、精神的に支配したりするようになった――。
■子どもに無心を繰り返す親
短大を卒業した熊部悟朗さん(仮名・50代)は、一人暮らしを許された。「やっとDV母から離れられる」と思ったが、母親は金の無心をするようになった。
「家賃を滞納していて『明日までに30万円準備しないと出て行かないといけなくなる』とか、『給料日まで2、3万貸してくれん?』といった電話は毎月のようにありました。
約束の期日に返ってこない、連絡もこちらからするまでないなんて毎度のことでした。弟をダシにされることも多かったので、僕は常にどこかから借金をしては母にそれを貸している状態でした」
そして熊部さん23歳の時。務める工場の職員から実家に「お宅のお嬢さんと同僚の○○さん(女性)がものすごく仲がよろしいのはご存じですか?」という匿名電話が入ったことで、問い詰められた熊部さんは両親に「性同一性障害」であることを打ち明けた。
「妹にはすでに20歳の頃には言ってあったし、母はとっくに疑っていたようで、驚きませんでした。継父はボーイッシュだと思っていたけれど、そこまでとは思っていなかったようで、少し混乱していました。弟には『あの子はあなたのことが大好きだから、ショックを受けるから』と母から口止めされていたのですが、妹が『弟だけ知らないのはおかしい』と、弟が23歳の時にアウティングしていました。弟は、特にショックも嫌悪感もなく、普通だったようです」
母親の傍若無人ぶりにうんざりしていた熊部さんは実家から距離を置いたが、金の無心は続いた。
「弟も悪さをすればもちろん叩かれていましたが、教育的範疇に収まるものでした。僕や妹がそれ以上の虐待を受け、金の無心をされていたことや、弟の生活や教育に必要なお金は僕たちだけでなく親戚中から借りまくっていたことは、弟は知りません。まっすぐ育ち、ちゃんとした職について、親にも優しく、結婚して子どもにも恵まれた弟は、知らなくていいことだとは思っています。きっともう僕にはできない親孝行を、弟がしてあげればいいと思っています」
そして35歳の時に人生の大きなターニングポイントを迎えた。派遣の仕事を始めた先で、のちに妻となる女性に出会ったのだ。

■妻は僕との交際に抵抗感がなかった
妻は熊部さんより11歳若かった。2人は8年の交際期間を経て、熊部さん42歳、妻31歳で入籍しているが、そこに至るまでの道は平坦ではなかった。
「彼女はノーマルの人ですが、僕との交際への抵抗は、全くなかったそうです」
ただ、熊部さんの猛アプローチにより出会って半年後に交際を始めた2人だが、6年後、あえてお互いに距離を置き、考える期間を設けた。
2年ほどの間、妻はノーマルの男性と付き合い、熊部さんは性別適合手術を受ける準備をしていた。身体的に男性に近づける決断をしたのだ。
「長く同棲している間、いろんなことがありました。妻も、僕のような人間と結婚するのが本当に大丈夫か悩んだ時期もあったはずですし、出産の事も考えたに違いありません。だから話し合って、『しばらく好きに過ごしてみよう』となったのです。それでも妻は、『別れてきた。あなたの大事な瞬間に立ち会う』と戻ってきてくれました」
手術を受けるためにタイへ向かう日、妻は同行してくれた。
■タイでの性別適合手術
「タイにはおよそ2週間滞在しました。帰国後も療養は必要なので、たまった有給休暇を使ってトータル1カ月休みました。
僕の場合は、途中で面倒ごとが起こるのは避けたかったので、日本のガイドラインに沿って進めました。
カウンセリングで性同一性障害の診断を受けた後、大学病院で体の検査を受けた上で男性ホルモン注射を打ち始め、ホルモン剤の影響やメンタルの変化を慎重に観察し、1年以上の期間を経て手術を受けました。子宮・卵巣を取れば女性ホルモンがほぼ作られません。なので生涯にわたって男性ホルモン投与が必要になります。その後は、ホルモン剤を長期間打てないと体調が少し悪い気がしますが、定期的に打っていれば問題ありません」
ちなみに、タイへの渡航費用やチケットの手配、送迎、入院、手術、術後抜糸までのホテル滞在費、近隣への観光の付き添い、動く先々での同行通訳、妻の同行代などがパックになって、100万円ほど支払ったという。定期的なホルモン治療は自費診療で、1回あたり2650円とのことだ。
■帰国後に妻の妊娠がわかった
タイ滞在中、妻はずっと体調が悪そうだった。帰国後に婦人科を受診すると、妊娠していることがわかった。
「あなたが良ければあなたと育てたい。嫌だと言われたらシングルで育てる」
そう妻に告げられた熊部さんは、少しも悩まずにこう答えた。
「嫌なわけない! 僕でいいなら父親にしてください」
遺伝子上の父親が熊部さんではない。おそらく、葛藤があったと想像できるが、なぜ無条件で受け入れることができたのか。
当時のことを振り返り、熊部さんは語る。
「僕は、自分で妊娠出産でもしない限り自分の子を持つことは無理です。かと言って父親にはなりたくても母親にはなりたくないので、はなから自分の遺伝子は諦めていました。
僕と結婚することで彼女が子どもを産みたいと思う気持ちを諦めさせる気持ちは毛頭なく、彼女の子なら全然愛せるので、もし今回のパターンのようになってなくても、いずれ子を持ちたいと考えていました。なので言い方はアレですが、“棚ぼた的に子どもがついてきた”感じです。
葛藤があったとすれば、僕みたいなのが父親で、子どもに不利益を与えることになったらどうしようかと思ったことぐらいです。まだ8週くらいの頃に父親になれたので、一緒に大きくなっていくお腹を見て、出産にも立ち会いました。胸を張って僕の子だと思っています」
妻の両親は、知人に“トランス男性”がいたことで、交際には寛大だった。しかし結婚となると義母は反対だったが、妻の妊娠が発覚すると、「シングルで育てるよりは」と渋々受け入れてくれた。
熊部さんの両親は、継父は無関心だったが、母親は猛反対だった。
「交際中は、娘の友だちだと思っていたのか、母は妻のことを可愛がってくれていました。でも結婚となると、『娘が娘じゃなくなっただけでも受け入れがたいのに、娘に奥さんと子どもまでいるなんて考えられない』と言われました」
■脳出血の後遺症
そうやって入籍してからの7年間は夫婦にとって最高に幸せな時期だった。

ところが、2023年の4月1日。50歳となった熊部さんの身体に異変が起こった。右半身に今までにはない痺れを感じたのだ。翌朝も痺れが残ったため、病院を受診すると、まさかの脳出血。即入院となり、NCUで絶対安静の日々が続いた。
そして12日後、退院。
当時、熊部さんは派遣社員としてコールセンターで働き始めたばかり。派遣会社の担当者は、復帰後の時短勤務などの調整を進めてくれた。
しかし熊部さんには焦りがあった。前年から息子が小学校に上がったのだが、不登校になってしまったため、妻は仕事を辞め、息子に付き添っていたのだ。
「我が家は僕の一馬力で、生活は綱渡り状態でした。当時暮らしていた部屋は立地が良い分、家賃が高め。
お互い働いていたから払えましたが、今から引っ越すにもお金がかかる。『とりあえず息子の様子を見ながら、頑張ってみよう!』そんな矢先の僕の脳出血でした」
ところが現実は残酷だった。熊部さんの右手の痺れは、引くどころか日に日に明確になっていく。電話をかけてくる顧客と話しながらタイピングしたり、システムを操作するコールセンターの仕事がこなせるとは思えず、復帰の延期を決断。その後、痺れは痛みへと変わり、復職は断念せざるを得なかった。
熊部さんは妻と相談し、妻が働きに出て、熊部さんが家に残ることにした。
「夫なのに、父親なのに。何ひとつできていない」
そんな不甲斐なさに心が押しつぶされそうになっていた熊部さんを救ったのは、妻の言葉だった。
「病気なんだから、いつ誰にだって起こることだよ。大黒柱は男じゃないといけないなんて、誰が決めたの? あなたはあなたができることをして、ゆっくり療養して、それからまた始めたらいいんだよ」
そうして熊部さんは、大きな決断を下した。
■生活保護の窓口で丸裸にされた
熊部さんは妻と共に、生活保護の相談に向かった。
「福祉センターへ向かったものの、“社会のお荷物”という生活保護のネガティブなイメージが重くのしかかりました。僕は麻痺がなかったため、身体障害者手帳も障害年金も難しく“制度の隙間”に落ちてしまった。そのため僕が家族を路頭に迷わせないために選べる、唯一の公的支援が生活保護でした」
福祉センターの生活課に通された熊部さんは、“丸裸”にされる思いがした。
「最初は説明を聞きに言ったつもりが、気づくと申請することになっていました。財布の中の小銭、通帳やPayPayなどの電子マネーの残高、万が一のために掛けていた生命保険も『解約返戻金があるなら解約してください』と言われ、すべて手放しました」
車は原則として所有は認められないが、熊部さんは原付しか持っていなかった。妻の通勤と熊部さんの通院のために、原付の所有は認められた。
「持ち物も資産もプライバシーも、一枚ずつ剥ぎ取られていくような感覚でした。とはいえ、尋問を受けているような感じではなく、親切に対応していただきました。地域や担当の人によっては当たり外れがあるようですが、うちは熱心に話を聞いてくれて、何を言ってもご自身の裁量で上に説明ができる力量の方に当たったことは幸いでした」
妻との同棲期間中から住んでいた部屋は、家賃上限(住宅扶助)を超えていたため、引っ越しも促された。
熊部さんの両親は高齢で低収入であることから、扶養照会は免れた。受給は4月26日に開始。およそ2週間の調査を経て、妻の収入を差し引いた11万~13万円の生活保護の支給が決まったとき、熊部さんの胸に去来したのは「安堵」だった。
「『これで来月も家族にご飯を食べさせてあげられる』と、ほっとしました。世間のイメージやちっぽけなプライド。そんなものを守るよりも、目の前で笑っている息子と、必死に支えてくれる妻の日常を守ることの方が、よっぽど大事じゃないかと思いました。『大黒柱』という言葉に縛られ、自分を追い詰めていたのは、僕自身だったのかもしれません」
■物価高騰と生活保護
病気の知らせを聞き、心配で連絡をくれた友人たちにも、生活保護のことを隠さずに報告すると、一様に「元気に働いていた時に払ってきた税金。生活保護は国民が受けることのできる権利だから恥じる事はない。堂々と受けて、また働けるようになればいい」と言ってくれた。
「しかし(生活保護受給してからの)生活は楽なものではありません。2カ月に一度の家庭訪問があり、毎月の収入報告は欠かせません。最低限の暮らしができる金額が、世帯構成で決められ、その中から収入などを差し引いた分が保護費として支給されます。労働で得た収入はいくらか規定の額が控除されます。なので働いた分はちゃんと手元に残る金額があるようにできています。その控除部分などを貯めて生活の再建に使うわけですが、その貯蓄も上限があり、ちゃんと申告しなければなりません。しかしこの物価高騰の折、控除額を貯める生活など、できたものではないのが現実ではあります……」
息子の児童手当も収入として扱われ、年に一度は通帳のチェックもある。熊部さんには病気による「就労不能」が認められているが、妻には「就労指導」がある。少しでも家計を助けたい熊部さんは、薬で痛みを誤魔化しながらできる範囲でアルバイトをし、きちんと申告している。
「ひと様の大事な税金から助けてもらっているのだから、当たり前ではありますが、社会の厳しいルールの中で正しく受給しています。だからこそ、僕は不思議でならないのです。世の中に蔓延する『不正受給』のニュース。これだけ細かく調べられ、すべてを管理されている中で、一体どうやって不正なんてできるのか。ルールを破る一部の不誠実な人たちのせいで、どうしても受給せざるを得ない人間が、まるで悪人のような目で見られる。真面目に報告し、正しく受給している人間にとって、それは本当に迷惑で悲しいことです」
熊部さんは、幼少期に何でも押し付けてきた母親の影響のせいか、トランス男性ゆえに「男性・夫・父親はこうあるべき」という考え方に縛られているのか、1人で背負い込みすぎるきらいがあった。だが、心から熊部さんを心配し、寄り添ってくれる妻や友人たちの存在が、母親から受けた呪縛を少しずつ解いていった。
■息子が自閉症と軽い知的障害の診断
現在、息子は発達外来で自閉症スペクトラムと軽い知的障害の診断を受け、支援学級に進級し、親子三人で自立に向けて頑張っている。
「今も僕は右半身の痛みと付き合っています。でも、心療内科の先生が主治医となり、心と体の両面からケアを始めたことで、少しずつ気持ちに余裕が生まれました。不登校になった息子に僕が勉強を教えることで、学校を休むことへの罪悪感も少しずつ小さくなりました。
息子のつらさや頑張りを丸ごと全部受け止めようとしていましたが、『父ちゃんだってつらい日もあるのさ。用事がある日もあるのさ』とこちらの事情も伝えるようにしています。(血のつながりはないが)『父ちゃんと学校行きたい』と言われると、『愛されちゃってるわー!』とうれしくなります」
■生活保護から再スタート
筆者はこれまで9人の生活保護経験者の事例を紹介してきたが、どの人も生活保護の存在に救われ、一度は詰みかけた人生の「再スタート」が切れた。
「生活保護」は、利用したことがない人にとっては、自分とは無関係の遠い世界のもののように感じられる。筆者も、一度利用したら2度と戻れないのではないかという恐怖を感じていた。しかし実際に利用し、卒業した人は存在する。自分とは無関係の遠い世界のもののように感じるのは、その実態を捉え切れていないからに他ならない。
賃金は上がらず、物価が異常に高騰する昨今、生活が困窮する人の増加が予想される。
生活保護とはどんなものなのか。どんな人が利用し、どんな生活をして、どんな人が卒業し、再び社会に戻っていくのか。
生活保護の実態を明確にすることで、生活保護に対する批判や恐怖を減らし、救われる人や機会を増やしていきたい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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