信長の死後行われた「清須会議」には、織田政権下の宿老である秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が参加した。歴史評論家の香原斗志さんは「大事な会議なのに、古参で、かつ実績のある滝川一益は間に合わなかった。
これにより、彼の運命は大きく変わってしまった」という――。
■「清須会議」に出席した4人の武将への違和感
明智光秀(要潤)が討たれて2週間ほど経った天正10年(1582)6月27日、織田政権のあらたな枠組みを決め、信長(小栗旬)と信忠(小関裕太)父子、および光秀亡き後の領地を再配分するために、清洲城(愛知県清須市)で清須会議が開かれた。その模様がNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第30回「清須会議」(8月9日放送)で描かれる。
この時点では、信長の後継者であった信忠の嫡男、三法師が織田家の後継者になる、ということは決まっていた。しかし、天正8年(1580)に生まれたばかりでまだ数え3歳にすぎない。当然ながら成人するまでのあいだ、だれかが名代(家督の代行者)を務めるしかない。それには、信長の次男の信雄(山脇辰哉)か三男の信孝(結木滉星)のどちらかが就くのが順当なところだった。
ところが、信忠の同母弟で、嫡系に準じる立場であることを強調する信雄と、光秀討伐軍の総大将を務めた功績を主張する信孝が、ともに一歩も譲らない。兄弟が争っている現実がある以上、どちらを名代にしても、しこりが残って後日、紛争が起きかねない。そこで信雄と信孝を名代にせず、織田家の宿老(古参の重臣)たちによる合議で政権を運営することになった。
第30回「清須会議」では、会議の前日に羽柴秀吉(池松壮亮)が、信雄と信孝は抜きにして、秀吉のほか柴田勝家(山口馬木也)、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀井新太)の4人による話し合いで政権を運営してはどうか、と提案する。で、実際、そのように決まるのだが、それまでの織田家の体制を考えると、この4人の顔ぶれには違和感を禁じ得ないのである。

■完全に無視された滝川一益の功績
秀吉と勝家、それに長秀まではいい。織田家の宿老としてもう1人を加えるなら文句なく、「豊臣兄弟!」では猪塚健太が演じる滝川一益のはずである。ところが一益の名はどこにもなく、織田家の宿老というよりは中堅どころの家臣だった池田恒興が加わっている。
本能寺の変と光秀の滅亡で、領主が失われた所領の再配分に関しても、滝川一益は無視されている。所領は4人の宿老が談合して、次のように配分された。
織田信雄には尾張(愛知県西部)。信孝には美濃(岐阜県南部と愛知県の一部)。秀吉には山城(京都府南部)と丹波(京都市中部、北部と兵庫県東北部)、河内(大阪府東部)の東部。柴田勝家には近江の長浜領(滋賀県北部)。丹羽長秀には近江の高島郡と志賀郡(滋賀県高島市と大津市)。池田恒興には摂津(大阪府北部、中部と兵庫県南東部)の大阪市周辺。そのほか、三法師の傅役(ふやく)とされた堀秀政に近江の中郡(滋賀県近江八幡市や東近江市)が割り振られた。

一見して、明智光秀掃討の功労者とされた秀吉が、大きく勢力を伸ばしているが、それはともかくとして、滝川一益は所領の配分においても、完全に無視されているのである。
■武田勝頼を自害に追い込んだのに
永禄3年(1560)の桶狭間合戦以前には信長に仕えていたと考えられる滝川一益は、同10年(1567)と11年の伊勢(三重県中北部)への侵攻で頭角を現し、同12年には伊勢の5郡を本拠とした。かなり早い時期に一定の所領をあたえられており、信長がいかに一益を重んじていたかがわかる。
その後、朝倉義景を滅ぼした一乗谷合戦、伊勢長島一向一揆の鎮圧、長篠合戦、越前一向一揆の攻略、紀州征伐、第二次木津川口合戦、有岡城合戦……と、信長の主要な戦いには軒並み参陣し、重要な役割を果たしてきた。ただし、伊勢方面に加えて、とくに東日本に強みがあったことが、一益にとっては不運だったといえる。
一益は織田政権において関東、とりわけ北条氏との取次を一手に引き受けていた。関東一帯ばかりか、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も含めた東国全体をとりまとめ、越後(新潟県)の上杉家をはじめとする、織田家に敵対する勢力に対抗する役割を負っていた。そして実績も挙げていた。
本能寺の変まで3カ月に満たない天正10年(1582)3月11日、武田勝頼を天目山麓に追い込んで自害させたのも一益だった。武田氏の旧領が織田家の家臣に分与された際は、上野(群馬県)一国のほか信濃の小県郡と佐久郡(長野県東部)を得ている。
だが、結果をみれば、ここで実績を上げたために足を引っ張られてしまった。
■秀吉が一益へ送った怖い手紙
本能寺の変から5日後の6月7日、信長の死を知らされた一益が、上京する意志を述べたことは各種史料が伝えている。
だが、現実には、上京は簡単ではなかった。信長没後の東国が、周辺の領主たちの草刈り場になってしまったからだ。
とくに北条氏政は、信長の死後も協調関係を保つ旨を書状で一益に伝えながら、舌の根が乾かぬうちに、一益の所領の上野にどんどん侵攻してきた。とくに6月16日から19日にかけ、神流川の戦いで北条方に惨敗した影響は一益にとって大きく、やむなく本来の拠点である伊勢へと敗走しようとするが、各地で抵抗に遭って思うように進むことができなかった。結論をいえば、27日の清須会議に間に合わなかったのである。
とはいえ、6月21日にはすでに信濃にいて、清須会議の翌日の28日には美濃に入っている。信長のために尽くしてきた宿老の一益を、2、3日くらい待ってあげられなかったのかと思う。だが、待ちたくなかったのだろう。清須会議の前日に秀吉が一益に宛てた手紙が見つかっていて、そこには次のようなことが書かれていた。
毛利と和睦後、明智光秀を破ったこと。その後、光秀は山科で百姓に討たれて首は溝に捨てられていたこと。光秀の居城の坂本城を攻め、娘婿は城に火をつけて焼け死んだこと。
光秀の家老の斎藤利三を処刑したこと。光秀についた阿閉一族を皆殺しにしたこと……。どう読んでも、いまさら一益には出る幕がないと伝えているようにしか思えない。
■中堅武将だったのに出世した池田恒興
要するに、清須会議を主導した秀吉にとっては、織田家の宿老の数は少ないほうがいいので、一益は体よく葬られたとみるのが妥当だろう。一益が近くまで来ているのを知りながら、あえて待たずに会議を開いた、ということではないだろうか。
その結果、一益は織田政権の体制を決める4人の一角を占められなかったばかりか、所領の再配分にあずかることさえできなかった。ただでさえ関東を失ったので、織田家と光秀の所領を再分配してほしいと要求したが、秀吉らはいったん決めた所領の配分が変わるのを嫌がって拒否。以後、織田家における一益の立場は、急速に弱まってしまう。関東にいた不運が半分。もう半分は、秀吉にしてやられたということだろう。
一方、唐突に宿老の仲間入りした池田恒興は、秀吉にとって外すことができない事情があった。近年、発見された秀吉の書状によれば、秀吉は光秀の軍を破った山崎合戦に間に合っていなかった。
代わりに光秀と戦ったのが池田恒興らで、恒興は光秀討伐の功労者であるとともに、秀吉にとっては、自分に光秀討伐の功績をもたらしてくれた恩人でもあった。
だから、織田家家臣として中堅だった恒興が、いきなり宿老4人の1人になり、代わりに元来が実力者の一益が外されてしまった、と考えられる。
■浮き彫りになる秀吉の狡猾さ
その後、事態は周知のとおり、織田信雄を担いだ秀吉と、それに不満な信孝を支援する勝家との争いに発展する。力を失って伊勢に戻った一益は、当然ながら勝家方にくみした。そして天正11年(1583)正月、伊勢で挙兵し、居城の長島城(三重県桑名市)に織田信雄や蒲生氏郷の軍をしばらく引きつけておくことに成功している。
だが、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は北庄城(福井市)で自害し、織田信孝も岐阜城(岐阜市)を攻められ、自害に追い込まれた。一益の孤軍奮闘になったのち、7月に降伏してすべての所領を没収され、剃髪している。
天正12年(1584)に信雄と徳川家康が秀吉と戦った小牧・長久手合戦が起きると、今度は秀吉方について復活を試みたが、家康に蟹江城(愛知県蟹江町)を包囲されて敗戦し、ふたたびすべての所領を失っている。
その後は表舞台から姿を消し、2年後に死去。いろいろと不運が重なった生涯だったが、そこに巧みにつけ込む秀吉の狡猾さもまた、一益をとおして浮き彫りになる。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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