■清須会議にいなかった滝川一益
いよいよ後半戦に突入したNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。8月9日放送の第30回「清須会議」では、勝家(山口馬木也)、長秀(池田鉄洋)、秀吉(池松壮亮)、恒興(堀井新太)の4人が、亡き信長の後継と遺領を巡って火花を散らす。物語はいよいよ後半最初の山場、賤ヶ岳の戦いへと動き出している。
だが、この清須の座敷に、本来もう一人いてもおかしくない男がいたことに気づいた視聴者はどれだけいるだろうか。
滝川一益(猪塚健太)である。
長島攻め、長篠、甲州征伐と、信長の主要な合戦をほぼ皆勤してきた宿老中の宿老。武田が滅んだ直後には、その論功行賞で上野一国と信濃二郡を与えられ、関東方面の総責任者にまで抜擢されている。序列でいえば柴田勝家に次ぐ、織田家臣団のナンバー2と言っていい男だ。
その一益は、天下の行方を決める会議の場にいなかった……。
これは、単なる欠席ではすまなかった。
なぜ、一益はそんな大事な会議を欠席してしまったのか?
■“関東管領”と称された織田家の重臣
考えてみれば、滝川一益という武将は役割の大きさに比べて妙に影が薄い。
織田政権での一益の重要性を示すのは、甲州征伐後の配置である。
1582年、武田家が滅亡した後、武田旧領の甲斐・信濃・上野には織田家の諸将が配置されたが、この中で一益は上野国厩橋城(現・群馬県前橋市)に派遣されている。菊地浩之『織田家臣団の謎』(KADOKAWA、2018年)によれば「俗に関東管領と称された」という。
菊地によれば、一益は1550年代前半にはすでに信長に仕えていたとされる古参の家臣である。菊地は、池田恒興の従兄弟という説もあるとしたうえで、父祖伝来の譜代である「勝幡譜代」に属すると考えられるともしている。武田攻めにあたっては副将格で参戦しており、厩橋城に入るにあたっては上野一国に加えて信濃小県・佐久の二郡も与えられた。この際、武田氏旧臣も配下に組み込まれており、その中には真田昌幸の名も見える(谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、2010年)。
新たな領地、しかも容易に恭順するとは思えない武田旧臣の支配も任されているあたり、織田家中でも五本の指に入る重臣だったことは間違いないだろう。
■本能寺“後”にたどった転落の道
しかし、この信頼が、本能寺の変の後は裏目に出た。間に合わなかったとはいえ、柴田勝家は光秀を討つべく動いていた。徳川家康も、伊賀越えで帰還した後はすぐに兵を集めて出陣している。だが一益は、間に合わなかった。しかも、清須会議にすら間に合わなかった……。
その後は、転落の一途である。賤ヶ岳の戦いでは勝家に与して降伏し、所領を没収。その後は蟄居していたが、茶人や関東の諸大名との人脈があったことから秀吉に呼び戻された。しかし、ここでも復活することはできなかった。
小牧・長久手の戦いでは秀吉に与し、蟹江城(愛知県)を調略することに成功する。ところが、家康と信雄の反撃で城を奪還され敗走することになってしまった。
その後、秀吉との約定により、自身は3000石、次男の一時は1万2000石を得たとされるが、嫡男の一忠は敗戦の責を負って追放されることに。家名が残ったとはいえ、織田政権の重臣としては、かなり零落した末路だったといえるだろう。その後、一時の家系が旗本として江戸時代に続いたのが、唯一の慰めというべきか。
■着任を祝う使者を送られるほど
いったい、なんでこんな悲惨な結果に終わってしまったのか。
答えは単純だ。一益が、有能すぎたのである。
伊藤一美「上野国における滝川一益の位置について」(『戦国史研究』20号、1990年)は、一益が畿内の茶人仲間に宛てた手紙などをもとに、その支配の実情を分析している。伊藤はここで、一益の上野着任が周囲からどう見られていたかを記している。
金上盛満書状には「貴殿上州御在国之儀珍重候」と言われ、東北大名の芦名惣領家盛隆の使者さえもこれを祝い「御祝儀」を一益に届けている。少なくとも滝川一益の上野国駐留は外から見ればかなりの権威をもったものであったことなのである。そして、何よりも一益が入ることで「然者今度東国御統一之儀」が完成すると見られていたことも事実なのであった。
会津の芦名氏という、上野からすればかなり遠方の東北大名までもが、一益の着任をわざわざ祝う使者を送ってきている。
ところが、当の一益はこの任務がまったくの重荷になっていた。伊藤は「当時すでに五十八才を迎えていた一益にとってはかなりの仕事であったのではないか」としている。
■対外的な脅威、対内的な不信
年齢もさることながら、一益が実際に抱えていた仕事の中身を考えると、これはもう「かなりの仕事」どころの話ではない。
相手が後北条氏だけなら、まだいい。歴戦の一益なら、外部の敵に対処する経験は十分にある。
だが、一益の手元にいたのは、後北条氏に対峙するための味方であるはずの上野国衆たちだ。そしてその大半が、つい先月まで武田を主君と仰いでいた連中である。昨日まで「武田様、武田様」と言っていた者たちが、主家滅亡と同時に「はい、次からは織田様でよろしく」と鞍替えしてきているのだ。忠誠心などあってないようなもの、いや、正確に言えば、忠誠の対象を切り替えることそのものに、彼らはまったく躊躇がない。今日は一益に頭を下げていても、明日、北条が優勢と見れば、また平然と旗を替えるだろう……。
対外的な脅威と対内的な不信、この二正面を同時に抱えることは、かなりの重荷であった。
伊藤がここで取り上げる茶人仲間に宛てた手紙(群馬県史資料篇7-三一八号)では、その心情がありありと浮かんでいる。
なにしろ、一益は武田征伐の褒美として信長から「小なすび」の茶入れを所望しようと思っていたのに、意に反して「遠国」に派遣されてしまい、茶の湯を楽しむこともできなくなってしまったと嘆いているのである。そして、手紙では「存知より候ハぬ地獄へおちおち候(思いもよらない地獄へ落ちたようだ)」とまでいっている。
信長としては、信頼できる重臣として一益を東国へ下向させたはずなのに、当の本人は完全に心が折れていたのである。
■一益に課せられた“東国全体の再編”
改めて考えてみると、秀吉や勝家に比べても任務は重い。先に一益が「関東管領」として扱われたことに触れたが、これは後世の軍記物で見られる記述。ほかにも後世には「東国御奉行」など様々な呼称が用いられているが共通しているのは、一益が東国をすべて織田の支配下に組み込む任務を背負っていたことだ。
谷口克広は、その任務は、関東の領主を織田のもとに組織化すること、友好関係にあった後北条氏を服属関係にすること、東北の諸大名も服属させることだったとしており、柴裕之もこの説を追認している(「織田政権の関東仕置―滝川一益の政治的役割を通じて―」『白山史学』第三七号)。そして、この壮大な事業を進めるために一益が与力として組み込んだのが、先に触れた武田旧臣たちだったのである。
これは、秀吉の播磨攻めよりも難儀な仕事ではないか。
秀吉には、信長本隊という後ろ盾があった。畿内という安定した後方があった。
一益には、そのいずれもない。後方支援の期待できない最前線に単身放り込まれ、しかも味方として組み上げるべき手駒そのものが、つい先月まで武田の旗の下にいた「元敵」なのだ。国衆を組織化し、後北条を服属させ、東北大名まで従える。秀吉の任務が一国の攻略だとすれば、一益に課せられたのは東国全体の再編である。
■本拠へ戻ったとき、清須では会議が終わっていた
その準備が始まった瞬間に本能寺の変が起こってしまった。案の定、南から北条氏が国境へと殺到する。6月18日から19日にかけて、神流川で北条勢を迎え撃つも、大敗を喫した。
もう、こうなると支配は崩壊である。いや、持ち堪えていても武田旧臣たちがどう転ぶかわからない。上野を放棄した一益は、碓氷峠から木曽路を抜け、命からがら本拠・伊勢長島へと逃げ帰る。そのとき、清須では既に会議が終わっていた。
状況だけみると、一益が老いて能力を失った武将のようにみえる。それは違う。圧倒的に条件が悪すぎた。一益は、精一杯迎え撃ち、そして負けている。つまり、これは一益個人の力量の問題ではない。誰がこの持ち場に置かれても、同じ結末をたどった可能性が高い。むしろ、支配基盤を築こうとして送り込まれているあたり、並の武将であるはずがない。
ただ、一益の権威の失墜は、東国の所領を失い会議に間に合わなかったからではない。柴裕之『シリーズ・実像に迫る017 清須会議―秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版、2018年)によれば、そもそも秀吉は書状で一益に対後北条氏戦と勢力圏維持に専念することを求めており、会議への参加を想定していなかったとしている。
つまり、一益の本当のしくじりは、会議に間に合わなかったことではなく、帰還後の後処理にあったとみることができる。
■清須会議では“優先度の低い存在”になっていたか
まず、東国の勢力圏を失ったのは、決して一益一人の責任ではない。ところが、この責任の所在がきちんと検証された形跡はない。秀吉であれ勝家であれ、あの状況を挽回するのは難しかっただろう。それでも一益だけが、完全に「戦犯」の烙印を押されてしまった。
しかも、酷いのはここからだ。秀吉は書状で、一益に後北条氏との戦いと勢力圏の維持を求めていた。ところが清須会議の所領分配では、その一益の取り分が議題にすら上がらなかった。結果、上野国を失った一益の手元に残ったのは、もともとの所領である北伊勢五郡のみとなった。
もっとも、柴によれば、このことを丹羽長秀から聞いた秀吉は、織田家の蔵入地から一益への加増を強く説いたとされる。だが、実際にはなんの対応もなされなかった。
推測するに、清須会議の時点で、秀吉にとって一益はもはや優先順位の低い相手になっていたのではないか。神流川で大敗し、東国の所領を失った一益には、勝家・長秀・恒興のような発言力が残っていなかった。加増を実現するには、他の宿老の取り分を削るか、蔵入地という織田家の共有財産に手を付けるかしかない。どちらも、まだ地位を固めきれていなかった秀吉にとっては、あえて火中の栗を拾ってまで、力を失った一益に義理立てする理由にはならなかったはずだ。
■負けたのではなく、使い捨てられた
つまり、「専念せよ」という要求も、「加増を説く」という言葉もおそらく本気だった。ただし、それを実行に移すだけの政治的コストを、秀吉は払う気がなかった。口約束と現実、その落差こそが、清須会議という場の本質だったのかもしれない。
一益は、負けたのではない。使い捨てられたのである。言われた通りに動き、言われた通りの結果を出し、そして言われた通りには報われなかった。清須会議とは、律儀に持ち場を守った者が最も損をする会議だったのだ。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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