東南アジアには多くの中国系住民が暮らしている。タイは彼らを自国民として社会に取り込んだが、ベトナムは1970年代後半、各国の非難を浴びながら華僑100万人を国外へ追放した。
両国はなぜ正反対の道を選び、その後、何が起きたのか。『ベトナムにはなぜパンダがいないのか』の著者、川島博之さんが解説する――。(第2回)
※本稿は、川島博之『ベトナムにはなぜパンダがいないのか』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■大きな存在感を放った“ベトナムの華僑”
東南アジア経済を語るうえで、華僑は極めて重要な存在になっている。
ベトナム戦争が終わった1975年の時点で、南ベトナムの首都サイゴンのショロン地区には約100万人の華僑が住んでいた。当時のベトナム人口は現在の半分程度の4500万人だったから、人口100万人を擁する華僑の存在感は大きかった。
だが、ベトナムは、ベトナム戦争が終結した際に華僑を追い出してしまった。華僑は南ベトナム政府と商売をしている者も多かった。その考え方は資本主義的であり、北ベトナムの考えとは違っていた。北ベトナム軍がサイゴンを占領した時に、ショロン地区に住む華僑の約9割が国外に脱出した。
華僑と同様に、南ベトナム政府に協力した人々も追放された。陸路でカンボジアやラオスに逃げた人もいたが、小舟で南シナ海に乗り出した人々もいた。
彼らはボート・ピープルと呼ばれたが、その何割かは船が沈んで命を失った。
このような非人道的な行為を行ったベトナムは、国際社会から強く非難された。北ベトナムが、戦争に敗れた南ベトナムの軍や政府の関係者を追い出したのは理解できなくもないが、なぜ華僑も追放したのであろうか。このことは今後の日本と中国の関係を考えるうえで重要な視点を投げかけている。
■世界に5000~6000万人、半数が東南アジアに
日本では華僑について語られることが少ないので、ここでは華僑について概説してみたい。
「華僑」と呼ばれる人々は、全世界に5000万人から6000万人いると言われ、その約半分が東南アジアに住んでいる。海外に在住する中国人のことを一般に「華僑」と呼ぶが、学術的には、中国の戸籍を保有している者を「華僑」、現地の国籍になった者を「華人」と呼ぶ。ただ、このような区別はあまり意味がない。海外で暮らす中国系の人々を「華僑」と呼んで差し支えないと思う。東南アジアに住む華僑の合計は2300万人にもなり、特にタイやマレーシアに多い。
華僑とは、清朝末期から中華人民共和国が成立した頃までに海外に渡ってきた人々とその子孫である。現在はその子や孫、曾孫の時代になっている。
華僑は2世代目、3世代目になっても中国語を話す。この点において、戦前、米国や南米に渡った日本人移民の末裔とは大きく異なっている。
日本からの移民の子孫は、その多くが日本語を話せない。それはペルーの大統領になったアルベルト・フジモリ氏や、『歴史の終わり』を書いて有名になった米国のフランシス・フクヤマ氏を見ればよく分かる。
中国が清朝末期から中華民国だった頃、タイを除く東南アジア諸国は欧米の植民地だった。当時の東南アジアは人口が希薄であり、現地にあった欧米の企業は、中国から渡ってきた人々を労働力として喜んで雇用した。その噂を聞いて中国から東南アジアに移り住んだ人も多い。
また、東南アジアで商売を行って一旗揚げようと渡ってきた中国人もたくさんいた。1949年以降になると、中国が共産化したために居場所を失い、東南アジアに逃れてきた人たちもいる。
■居場所を失い、中国を追われた人々
華僑は福建省や広東省潮州(ちょうしゅう)の出身者が多い。その中には客家(ハッカ)と呼ばれる人々が含まれている。客家は中国人ではあるが独自の文化を有し、戦乱を逃れて中原(ちゅうげん)から福建省周辺に逃げのびてきた人々とされる。

日本では華僑を、中国政府が外国に派遣した人々と考える向きもあるが、それは間違いである。華僑は中国を追われた人々である。中国では貧しくて生きていけなかった。または共産党に追われて逃げた。そんな人々だ。
古い世代の華僑は本能的に共産党を嫌う。現在でも北京の共産党に従う気にはなれない。だから、華僑を中国共産党の手先と考える必要はない。とはいえ、古い世代は中国語を話し、中国には愛着を持っている。
若い世代は、中国語が苦手な人もいるが、それでも多くが儒教を信じるなど、生活様式は中国的である。しかし、若い世代の華僑の中には、中国が米国と肩を並べるまでの超大国になったために、共産党と良好な関係を築いて上手に商売をしたいと思う人も多い。
東南アジアでは、経済的に成功している華僑が多い。
それは華僑が東南アジアの人々に比べて数字に明るく、商売が上手なためである。金融業に従事している華僑も多い。この辺りは、中世ヨーロッパでユダヤ人が、キリスト教徒が嫌った金融業に従事していたことに似ている。東南アジアの華僑のあり方は、ヨーロッパにおけるユダヤ人に似ているところがある。
■タイで行われた同化政策
ここでタイの華僑について見てみよう。統計では、タイは華僑人口が最も多い国とされる。だが、タイで華僑は目立つ存在ではない。それは1930年代に、華僑に対して強制的な同化政策が行われたためである。
1932年にタイで立憲革命が起こった。革命は成功して、留学経験がある若い軍人や官僚で構成されたピブン・ソンクラーム政権が樹立された。ピブン政権(第1次:1938-44年)は軍事政権的色彩が強く、国粋主義的な政策を行った。それはナチスや日本の軍国主義が台頭した時代であり、フランス留学の経験があるピブン・ソンクラームは、そんな世界の風潮を敏感に感じ取っていた。

ピブン政権は華僑に対して、タイ社会への同化を強く求めた。具体的には華人学校の閉鎖、漢字の使用禁止、華人のタイ風の名前への変更を強制した。タイに中華街を作ることも禁じた。タイにいた華僑は、さほど抵抗することなく同化政策に応じた。
当時の華僑にとっては、生きることの方が重要であり、自分たちを追い出した中国には、それほど未練を持っていなかったのかもしれない。
その結果、現在、タイの華僑が「自分は華僑だ」と名乗るケースは少ない。タイの華僑はその多くがタイ人と混血を繰り返して、タイ社会に同化してしまった。
ただ、タイへの強制的な同化は新たな問題を引き起こした。それは華僑が経済的に成功していたケースが多く、成功した華僑がタイの王族や貴族などの周辺者と姻戚関係を結ぶケースが増えたからである。
■王室の周囲に中華系が増えた
現在のタイの政局を語るうえで欠かせない「黄色シャツ」と「赤シャツ」の対立も、この華僑と王族の関係を知ると理解しやすい。
タイ族のルーツは中国の南部にあるとされる。1000年ほど前まで中国南部に暮らしていた人々が南下して、現在のカンボジア人に連なる人々(クメール人)を追い出して、タイ(スコタイ)を作った。

そんなルーツがあるために、タイ人には中華文明に対する憧れがあった。タイの王様は愛人を持つ場合に、中国から来た女性を選ぶことが多かった。王室の経済が中国との間の朝貢貿易に支えられていたために、政治的・経済的な利益を考えてのことだった。このような理由から王室の周辺に中華系の人々が増えた。
中国の皇帝のカラーもタイ王室のカラーも黄色である。タイ王室が黄色を好む理由は、プミポン前国王(ラーマ9世)が月曜日生まれであり、月曜日の色が黄色であるためとされる。
また、仏教において黄色(またはサフラン色)が高貴な色(僧侶の衣など)として扱われるためでもある。
■同化政策が社会の分断につながった
この数年、黄色シャツと赤シャツの対立は沈静化したようだが、それでもタイ社会には厳然とした黄色シャツと赤シャツの対立構造がある。
黄色シャツは、バンコク周辺に住む富裕な支配階層がその基盤である。一方、赤シャツの構成員は東北の農民が多い。赤シャツはタクシン元首相を支持しているが、タクシンもまた客家系華人である。実は、黄色シャツも赤シャツも、その指導層は中華系にルーツを持っている。
タイでは、華僑が現地人と直接対立しているわけではない。しかし、華僑の同化政策がタイ社会の分断につながってしまった。タイが華僑に対して同化政策を強要したことは、約100年を経てタイに分断をもたらす原因になった。
日本人が気づくことは少ないが、東南アジアに住む人々は肌感覚でこの事実に気がついている。もちろんベトナム人もその経緯をよく知っている。ベトナム人が華僑を警戒し、サイゴンを占領した際に彼らを追い出した理由の一つが、ここにある。

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川島 博之(かわしま・ひろゆき)

ベトナム・ビングループ主席経済顧問

1953年生まれ。1983年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授を経て現職。Martial Research & Management Co. Ltd., Chief Economic Advisor。工学博士。専門は開発経済学。著書に『日本人の知らないベトナムの真実』、『歴史と人口から読み解く東南アジア』(以上扶桑社新書)、『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』『習近平のデジタル文化大革命』(いずれも講談社+α新書)、『「食糧危機」をあおってはいけない』(文藝春秋)、『「作りすぎ」が日本の農業をダメにする』(日本経済新聞出版社)など多数。

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(ベトナム・ビングループ主席経済顧問 川島 博之)
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