「豊臣兄弟!」(NHK)で描かれる戦国武将とその妻の愛。古城探訪家の今泉慎一さんは「今回の大河ドラマでは詳しく描かれないが、明智光秀の三女は信長の命で名門の細川家に嫁ぎ、本能寺の変で逆賊の娘となって夫から遠ざけられ、最期は自害した」という――。

■血で血を洗う戦国時代の純愛
第21回:勝龍寺城(京都府長岡京市)
麒麟がくる』しかり、『どうする家康』しかり。昨今の戦国時代をテーマにした大河ドラマでは、合戦のスペクタクルよりも人間ドラマに重点が置かれているように思える。「豊臣兄弟!」でも小一郎(秀長、仲野太賀)と慶(慈雲院、吉岡里帆)、秀吉(池松壮亮)と寧々(浜辺美波)など、特に夫婦間の場面がたびたび登場する。架空の人物だが、白石聖が演じた直と小一郎の初恋エピソードも話題になった。
ただし、時代は血で血を洗う戦国の世。武家にとっては同盟のための婚姻も日常茶飯事で、現代と異なり恋だの愛だのが入り込む余地はほとんどなかったのではないか。
戦国武将とその妻の間の純愛といえば、浅井長政とお市を思い浮かべる方も多いはず。あくまで初めは政略結婚だったけれど、愛し合い3人の娘にも恵まれ、夫婦仲はとても良好だった。だからこそ、小谷城落城による今生の別れの切なさが際立つ――。
時代は少し下るが、長政とお市と同等、いやそれ以上に相思相愛だったと思わせる戦国武将がいる。それが細川忠興夫妻。妻の「細川ガラシャ」の方が、一般的には知名度があるかもしれない。

■文武両道の武将に嫁いだ美女
細川忠興は名門、細川家の出身。父・細川藤孝の代から信長に従っており、忠興の名も信長の嫡男・信忠から一字を拝領している。15歳の初陣以来、数々の戦場で手柄を立てた猛将として知られる一方で、茶人としても知られ教養も豊かな人物だった。父・藤孝同様に、文武両道の名武将といえる。
一方のガラシャは、明智光秀と妻・煕子(ひろこ)の娘で三女。余談だが、光秀と煕子の夫婦も、戦国時代にはまれな相思相愛カップルだといわれている。煕子は結婚直前に疱瘡(ほうそう)にかかり顔に跡が残ったものの、光秀は気にせず結婚。結婚後も、光秀が煕子の病気平癒の祈祷を行ったり、逆に光秀が重病に臥せた際、煕子が看病を尽くした、などの逸話も残っているほど。
細川ガラシャは、お市の方、京極竜子とともに「戦国三美人」と称されることもある。その悲劇的な生涯からややイメージ先行かもしれないが、美貌の持ち主だったことは間違いないと思われる。
二人が結婚したのは、1578(天正6)年8月のこと。忠興、ガラシャともに15~16歳。
美男美女のカップルが祝言を挙げたのは、のちにガラシャの父・光秀が秀吉との決戦の際に拠点とした、あの城だった。
■新婚時代の住居は山崎の戦いの拠点
1582(天正10)年6月、光秀は本能寺で信長を討ちます。直後に中国大返しを敢行した秀吉と光秀が雌雄を決したのが、山崎の戦いだった。この時、光秀が拠点としたのが勝龍寺城(京都府長岡京市勝竜寺13-1)だ。
二つの川の合流点一帯に位置する勝龍寺城は、川から水を引き入れた水堀を縦横に巡らせた平城。
現在は城域の大半は宅地化しているが、水堀に囲まれた本丸一帯が、かろうじて往時の姿をとどめている。
■なぜ光秀は城から打って出たのか
本丸内部に入ると、方形の曲輪の四方をグルリと土塁が囲んでいるのがよくわかる。水堀、土塁、そしてその上に櫓を設けて守りを固めている。
山崎の戦いでは、光秀はここからさらに南進し陣を構えたため、勝龍寺城自体は決戦の地にはならなかった。縄張図を見る限り、それなりに攻めづらそうな城ではあるが……。「兵力差もあり、籠城してもじわじわ負けに向かうだけ。ならば野戦で打って出よう」と光秀は決断したのだろうか。

結局、野戦で敗れた光秀は勝龍寺城に駆け戻り、そこで最期の夜を過ごした後、城を捨て落ちのびてゆく。その途上で落武者狩りに遭い、あえない最期を遂げたのだ。
■アツすぎる忠興の愛情表現
話を忠興とガラシャに戻そう。勝龍寺城は細川家の居城だった。1571(元亀2)年、忠興の父、藤孝が大改修を行い居城とする。京の南西、大坂方面からの侵入を防ぐ要所として、信長の命を受けて大改修が行われたともいわれている。当時としては最新の建築である天主(天守閣)もあった。
忠興とガラシャがこの城で祝言を挙げたのは、父・藤孝の城だったから。以来、約2年間を二人はこの城で過ごしたという。
忠興とガラシャの相思相愛エピソードとして、江戸時代に広まったものだから真偽は不明だが、最も有名な話がある。それは、庭先で2人が食事をしていた折、「ガラシャと目が合っただけの庭師に忠興が激昂し、刀で斬りつけた」というもの。
いかにも猛将・忠興の熱愛を象徴しているようにも思える。
このエピソードがいつ頃のものかは不明だが、新婚時代を過ごした勝龍寺城では? と想像してしまう。
この話には続きがある。目の前で突然起こった惨劇にガラシャは全く動揺せず、黙々と食事を続けたとか。さらにその時に汚れた着物を数日間、着続けていたそうだ。後世に広まった逸話だが、忠興の「蛇のような女だ」との言葉に「鬼の女房には蛇がお似合いでしょう」と返したというガラシャ。この夫にしてこの妻あり。ともに表現は特異だが、深い愛情にあふれていたことを伝えるかのようなエピソードだ。
■運命の分岐点は本能寺の変
1580(天正8)年、丹後国(現在の京都府北部)の南半分に領地を得た父とともに、忠興は勝龍寺城を去る。そして2年後に本能寺の変。忠興、ガラシャの運命はここから波乱含みとなる。
ガラシャは光秀の娘。藤孝・忠興父子のもとには光秀から援軍要請が来るが、「信長の喪に服す」と称しボイコット。
さらにガラシャを領内の僻地、味土野に幽閉してしまう。結果的には、細川家の読みどおり、光秀が敗れ秀吉の天下に。
細川家は辛くも家名を残し、忠興が当主となる。が、ガラシャは逆賊・光秀の血をひく者として、世間からは白い眼で見られ続けた。その苦悩もあったのだろう。洗礼を受けクリスチャンに。「ガラシャ(Gratia)」とはこの時に得た洗礼名で、本名は「玉」だった。
■別居中にもガラシャは次男を産んだ
では、そんなガラシャと忠興との関係は、というと、紆余曲折はありながらも離縁せず関係は続いた。別居中だったと思われる1583(天正11)年頃には、次男・興秋が生まれている。1584(天正12)年、ガラシャの幽閉は解かれ大阪の屋敷へ。そしてガラシャが洗礼を受けた当時、秀吉によるバテレン追放令が発せられていたが、二人の夫婦関係は続いた。ガラシャは洗礼後の1588(天正16)年、忠興との間に次女・多羅をもうけている。

しかし、二人の別れは突然訪れる。1600(慶長5)年7月17日、徳川家康討伐の兵を挙げた石田三成の軍勢に、大坂の細川屋敷を囲まれガラシャは最期を迎える。人質になるよう要求されたことを拒否した結果だった。クリスチャンのため自害はできず、家臣の手を借りたといわれている。
■忠興は妻を死に追いやった三成を…
その時、夫の忠興は家康が総大将を務める上杉征伐の軍に加わり、東国にいた。「ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というガラシャの辞世の句を、忠興はいつ、どこで知ったのだろうか。
ガラシャが散ってから約2カ月後の9月15日。関ヶ原の戦いで東軍についた忠興は、西軍を率いる石田三成を果敢に攻め、江戸時代に細川家を肥後藩主の大名に押し上げる戦功を挙げることとなる。

----------

今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

----------

(古城探訪家 今泉 慎一)
編集部おすすめ