小説家・司馬遼太郎は戦車兵として太平洋戦争を経験し、22歳で敗戦を迎えた。しかし、自身も経験したこの戦争については生涯、小説にしなかった。
一体なぜか。新聞記者時代から司馬に兄事していたジャーナリスト青木彰さんの著書『司馬遼太郎と三つの戦争 戊辰・日露・太平洋』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
■「僕にはもう小説は書けん」
ご承知のように、司馬さんはノモンハン事件についても太平洋戦争についても、『坂の上の雲』のような小説は書いていません。
ただ、小説以外のエッセー、対談などで、ふたつの戦争については多くのことを書き残しています。
私も司馬さんから直接話を聞いたことがあります。彼がノモンハン事件をテーマに小説を書こうと、当時の陸軍関係者に話を聞いたり、事件の資料を集めて読んでいたことは知っていました。ぜひ小説に書き残しておいてほしいといったところ、彼はいいました。
「僕にはもう小説は書けん。書いたら死ぬわ」
真顔でした。彼にとって小説を書くということは、文字通り、生命を削る作業なのだと思い知りました。もしまだ彼が『坂の上の雲』を書いたときのように若ければ、書いていたのかもしれません。
もうひとつ、司馬さんはいいました。

「ノモンハン事件であれ、太平洋戦争であれ、統帥権(とうすいけん)に触れると、昭和天皇について書かなければならない。それはまだ無理だ」
■敗戦に打ちのめされた22歳の夏
もちろん、当時は昭和天皇はご存命でしたし、司馬さんは昭和天皇に対して敬意というか、好意を持ってもいました。その昭和天皇を、小説の中で重要な登場人物とするのはしのびなかったのかもしれません。
しかし「まだ無理だ」という言葉の意味は、歴史小説として描くにはあまりにも生々しく、歴史として成熟していない、そういうことだったと思います。
そうはいっても私は残念でなりません。
司馬さんの歴史小説家としての活動、日本・日本人を描こうという意欲は、ノモンハン・太平洋戦争という愚劣な日本人の戦争を描いて初めて完結したのではないか。
なによりも、司馬遼太郎という偉大な作家の執筆活動の原点は、彼自身が自ら語っているように、「二十二歳の自分への手紙」でした。つまり、昭和20年8月、敗戦によって打ちのめされた司馬さんが抱いた疑問、
「なぜ日本はこんなダメな国になったのか、本当の日本・日本人はこんなダメなものとは違うのではないか、違うはずだ」
という疑問に答えるため、彼の歴史小説は始まった。22歳の自分に手紙を書くように書いた作品群は、本当の日本・日本人探しの旅の成果でした。
■実体験に基づく小説を書いてほしかった
だとしたら、彼の作家活動は、彼がダメだと痛感した日本・日本人の時代を描くことが宿命だったのではないか。彼の小説群には、他の作家たちが戦後、自らの体験などを踏まえて書いたような、日本の愚かさ、日本の悲惨さを描いた小説はありません。エッセーや論文や、講演や対談はあったにせよ、私は小説を読みたかった。

日露戦争あるいは明治日本を子規・秋山兄弟を主人公にして描いた『坂の上の雲』のように、ノモンハンや太平洋戦争を書いた小説を読み、その時代の日本を読者として受け止めてみたかったわけです。みなさんも、同じような気持ちを持っておられるのではないでしょうか。
とはいえ、小説はありません。
エッセー、講演その他で、昭和初期から敗戦までの20年間の日本を司馬さんがどうとらえていたのか、考えるしかありません。
■「何のために死ぬのか」考えた日々
彼は昭和18年9月、学生の徴兵猶予停止が決まったニュースを聞いたときのことを「足跡 自伝的断章集成」で書いています。『司馬遼太郎全集32』の年譜に付いている、インタビューというか、司馬さんのひとり語りですね。
「おもわず『しめたっ』といったら、親父が変な顔をして、『おまえ、兵隊が好きか』って実にバカにしていった。もとより兵隊は大嫌いなんですけど、それより学校のほうがいやでたまらなかったからなんです。
ところが、いざ兵隊にゆくとなると、『国家』というものに対してどうにもならぬ懐疑心がわいてきた。『国家』には果たして人民に『死』を命ずる権利があるのか、あるとすれば誰が与えたのか、何のために死なねばならないのか……。死そのものについても頭が変になるほど考えて、『歎異鈔(たんにしょう)』を読むかと思えば(中略)結局、自分は何のために死ぬのか、全然わからなかったのですが、終戦直前のころ、内地に帰ってきて、栃木県佐野の町角に遊んでいる子供たちを見て、『ああ、この子らを守るために死ぬのかな』などと思ったりして(後略)」
司馬遼太郎は明るい男でした。
どんなときにも希望を失わない青年だったろう、と後年の司馬さんを知る者としては、想像します。
しかし、時代に押しつぶされそうになっている青年の一人でもありました。
満州から新潟に戻り、群馬県の相馬ヶ原に向かう途中、客車に乗ったときのことを、司馬さんは「私の関東地図」で書いています。
■「ただの鉄」で戦わされた絶望感
「二年ぶりで、集団の革と汗くさい仲間から離れた。汽車の座席という忘れていたものにすわって、私は旅をする人のような気分になっていた。
(これで、コウモリ傘がさせればいつ死んでもいい)
と、思ったりした。そのことと畳の上で寝たいということとが、私にとって空想的な願望になっていた」
現実はどうだったでしょうか。司馬さんは戦車隊下級士官でした。
ノモンハンの対ソ戦の惨敗にもかかわらず、わが国の戦車はきわめて劣弱でした。司馬さんの部隊に新たに配備された中戦車にいたっては、装甲板がヤスリでこすると傷がつく「ただの鉄」でした。実戦での戦闘能力はおそらくなかったでしょう。絶望感が、後年の司馬さんにこう書かせています。
「私にとって戦車という機械は昭和十年代の日本国そのものであった」
佐野の町角で遊ぶ子供たちを見て、この子たちのためなら死ねるかな、と司馬さんが思ったところで、それは理想主義者の夢想だったのかもしれません。

■戦後の人生は「余生」のようなもの
大本営から派遣された将校は、北関東に駐留していた司馬さんらの戦車隊が南下するさい、北上する避難民のために進路を妨害された場合、
「轢っ殺してゆけ」
とだけいった。
「日本国民を守るために存在する軍隊が、戦争遂行のために日本国民を殺してもかまわない」と考えるのが、この時代の「戦争」でした。非情さを知ることで、青年司馬遼太郎の屈折は深まったのではないでしょうか。
彼が昭和39年7月に行った「死について考えたこと」という講演の記録が残っています。その中に彼が尊敬していた海音寺潮五郎さんと生死の問題について話をしたことが紹介されています。
司馬さんはこういいます。
「『僕はいつ死んだって構わないんです。いますぐこの瞬間に死んでも構わないと、ときどき考えます。そういう癖があって、なんとなく死んでも大丈夫な感じがあるんです』
すると海音寺さんは、
『それはノイローゼでしょう』
と言う。
『ノイローゼではなくて癖なんです。いまの瞬間死んでも家のことはできているし、悲しくもない。死ぬことをよく考えるんですよ。
一カ月に十二、三回も考えます。だから大丈夫です』
と言いますと、海音寺さん、
『そうですかね』
それから海音寺さんは話題を変えられました」
私には司馬さんの死に対する考えが全部ではないがわかる気がします。戦後の人生について、司馬さんは「余生」という言葉を使ったことがあります。いつもいつもそう思っていたわけではないでしょうが、私もその言葉に共感できる思いはあります。
■陸軍ではなく、海軍を好んだ理由
さて、戦争体験からのもうひとつの彼の屈折は、自ら体験した陸軍がどうもあまり好きではなく、海軍好きだったことです。
司馬さんの海軍好きは『坂の上の雲』を書くにあたり、元海軍大佐の正木生虎(いくとら)さんから話を聞いたことで濃厚になります。正木さんのお父さんは日露戦争に参加し、のちに海軍中将となった正木義太(よしもと)提督です。父子二代のエリートネービーから、海軍軍人のよさを感じてくれたことは、海軍軍人の一人だった私にとってうれしいことです。
しかし、所詮は「隣の芝生」なのです。
司馬さんは私に対して、海軍のことをやたらにほめ、かつ羨しがりました。私は海軍といえども軍隊であり、軍隊は結局、官僚主義のカタマリだと思っています。しかし、私が、海軍も陸軍も同じだといっても司馬さんは聞き入れてくれません。

「阿川弘之さんや大阪大総長をやられた山村雄一さんも、海軍を懐かしみ、海軍仲間の集まりがあるとみな集まって、海軍時代の話をして楽しんでいるじゃないか。陸軍にとられた連中はそうじゃない」
というんです。これは誤解を招くかもしれませんから慎重に申し上げますが、陸軍の人だって戦時中を懐かしむ人はいます。
司馬さんだってかつての上司や部下たちと毎年のように、集まりも持っていました。
ただ、司馬さんの屈折はそういう次元の話ではありませんね。自分の所属していた陸軍が、文明から遠いところにあると感じたことが大きいのではないでしょうか。
■海へのあこがれが投影された主人公たち
たとえば、海軍士官は「スマートたれ」として、教育を受けます。
たしかに、私たちはそう教えられました。私たちの時代にはこういわれたのです。
「スマートで、目先が利いて几帳面(きちょうめん)、負けじ魂、これぞ船乗り」
この話を聞いたときの司馬さんの喜びようは大変でした。
「そうだよ、それが文明だよ。普遍的な人間のあり方だよ」
と。
司馬さんは『坂の上の雲』以外にも、『竜馬がゆく』の坂本龍馬や『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛といった、海の魅力に取りつかれた男を主人公にした作品を残しています。海へのあこがれはたしかにあったでしょうが、龍馬も嘉兵衛も文明の人でした。
司馬さんによれば、海軍は「文明」であり、陸軍は「文化」だということになります。文化は普遍性がなくても、あるいはそのなさゆえに存在します。土着性が濃厚になる。司馬さんが陸軍に対して厳しかったのは、普遍性のなさに尽きるのではないでしょうか。
■学校をさぼり、本を読み漁った少年時代
彼が戦車隊でなく、海軍を選んでいたら、彼の人生、彼の作品はどうなっていただろうと考えると面白いですね。私はもっと厳しく海軍を書いただろうと思います。
もっとも、彼がいざ学徒出陣で兵隊に行くことになったとき、海軍を選ばず陸軍を選んだのは、こんな理由だと語っています。
「私は少年のころ、見渡すかぎり草がつづいているという風景がすきで、海などは好まず、海底に沈んでいる死体よりも陸地で腐乱している死体を望んだ」
モンゴル語を学んでいた青年です。
おそらく死ぬなら満州の荒野という思いがあったのではないでしょうか。
私は司馬さんがどうして満州にあこがれたのかと思うことがあります。たしかに満州は時代の流行でもありましたが、司馬さんの場合、少年時代の屈折が大きかったのかなあと漠然と思います。現実逃避といえば言いすぎですが、司馬さんは学校というものに、あまりフィットしなかったようですね。
小学4年生のとき、慕っていた先生が、水泳訓練中に教え子が水死した責任をとって辞職したことから、司馬さんは学校嫌いになったようです。学校ではまったく勉強せず、ついには授業をさぼってしまう。いまでいえば「落ちこぼれ」だったんでしょう。しかし彼は、その時間もっぱら自宅近くの市立図書館に通って本を読みます。ついには図書館で読みたい本を読みつくし、しまいには釣りの本まで読んだそうです。この辺がただの落ちこぼれではもちろんありません。
■「陸軍嫌い」と「学校嫌い」は同じ理由
挫折は次の段階でいっそう大きくなります。旧制高校の受験失敗ですね。彼は数学が苦手だったらしく、不合格になります。
受験に失敗して友達にどうするのかと聞かれた司馬さんは、
「俺か、俺はな、馬賊(ばぞく)になったるねん」
と、やけっぱちのように答えています。
「弱そうな馬賊やなあ」
といわれたそうですが。
大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)の蒙古語科に入り、アジア、とりわけモンゴルに対する関心がいっそう強まり、のちに『ペルシャの幻術師』『戈壁(ゴビ)の匈奴(きょうど)』などを生み出します。小説家として歩み出すことになるのですが、私にはやはり不思議な思いがあります。
あれほどの頭脳の持ち主には会ったことがないのに、どうして学校の勉強くらいこなすことができなかったのか。
私は陸軍が嫌いになったのと、理由は同じだった気がします。学校というところに、司馬少年は魅力を感じなかった。本来普遍性を教えるべき学校に、あまり普遍性を感じなかったのではないか。ふつうの秀才は、その辺に鈍感ですね。感受性が鋭すぎたんだと思います。それともこれは、ほめすぎでしょうか。

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青木 彰(あおき・あきら)

ジャーナリスト、筑波大学名誉教授

1926年、東京生まれ。東京大学文学部教育学科卒。49年に産経新聞社入社、教養部長、社会部長、論説委員、大阪・東京両本社編集局長、フジ新聞社社長などを経て、1978年から筑波大学現代語・現代文化学系教授。1990年、東京情報大学教授。東京新聞客員、朝日新聞紙面審議会会長代理、NHK経営委員、司馬遼太郎記念財団常務理事などを歴任。2003年12月逝去。

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(ジャーナリスト、筑波大学名誉教授 青木 彰)
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