■軍略の天才・石原莞爾という男の本性
昭和の陸軍に、上司の東条英機を「東条上等兵!」と呼んではばからなかった将校がいた。石原莞爾。満州事変を仕掛けた男である。
本来ならば、軍人生命が終わりかねない振る舞いだが石原には、誰も文句を言えない「実績」があった。
1931年、関東軍参謀として板垣征四郎らと満州事変を計画・主導。手持ちの限られた兵力から一気に行動を広げ、満州占領と翌年の満州国成立への道を切り開いた。一部の研究者から「日本外交史上の『スター』」とまで評される「軍略の天才」である。
ところが、天才であるが故だろうか。石原の人生はどうにも矛盾だらけだ。満州事変を起こした張本人が、6年後に日中戦争が始まると参謀本部作戦部長という要職にありながら「不拡大」を叫び、戦争を止めようと走り回った。太平洋戦争の直前には予備役に追われ、戦後には、日中戦争を解決しないまま対米開戦に突入したことを「許し難い失策」と断じている。
侵略の先駆者なのか、平和の先駆者なのか。いまだに評価の定まらない。石原莞爾とは何者だったのか。
■独自の戦争論の根底にある宗教観
石原の行動を解く鍵は「世界最終戦争論」だろう。彼が1920年代から温めていた巨大な仮説だ。
戦争史を徹底的に研究した石原は、こう予測した――西洋文明の中心は、欧州大戦のあとアメリカに移る。次に来るのは日米がぶつかる「人類最後の大戦争」で、それは飛行機による殲滅戦になる――。この予測は1940年に『世界最終戦論』として刊行され、ベストセラーになる。そして、その翌年に現実の日米開戦を迎えたことで、後世に「予言的」とも評されることになった。もっとも本人の想定では、最終戦争は数十年も先の話だったので予言が当たったとは厳密には言えないのだが。
興味深いのは、石原のこの構想の土台に日蓮の予言への信仰があることだ。
戦略思想史が専門の石津朋之によれば、石原への法華経と日蓮の影響は「明白かつ決定的」だったという。
ドイツ留学中には現地の青年に日蓮主義を説いて回り、質問されて答えに詰まると「君の学問がまだ足りないから熱心に勉強したまえ」と逆に説教したという逸話まで残っている。冷徹な戦略分析と、終末論めいた宗教的確信が平気で同居したのが石原の思想を独特だが難解にしている。
■満州は目的ではなく手段である
反米感情も筋金入りだった。石原がドイツに留学していた1922~25年、海の向こうのアメリカでは、日本人移民の土地所有を禁じる排日土地法が各州へ広がりつつあった。そんな折、ベルリンの映画館で「排日宣伝ノフィルム」を見せられた石原は、満座の中でアメリカを罵倒する。あとで自分でも「少々大人気ナカリシ」と書き残すほどで、書簡には「小生有色人種トシテ内心大ニ平ナラズ」の一文もあった。
ドイツ滞在中、アメリカ人の大尉から「日本への帰りにアメリカへ寄るのか」と聞かれたときの返しが、里見岸雄の回想に残っている。「ナイン(否)。自分がアメリカへ行くのは、占領軍司令官としてだけだ」。
少しわき道にそれたが、ここからが本題だ。
満州事変は、この最終戦争から「逆算」された一手だった。
アメリカの桁違いの工業力を相手に総力戦を戦うには、日本には資源も生産力も足りない。それならば満州を押さえ、来るべき決戦の「基地」にする。石原にとって中国大陸とは、日米最終戦争に必要な資源・物資を得るための基地でしかなかった。満州は目的ではない。手段だったのだ。
日中戦争への反対も、同じ理屈で読み解ける。ソ連への備えを固め、国力を蓄えるべきときに中国と全面戦争を始めたら、肝心の決戦準備が吹き飛んでしまう。石原の構想には最低10年の平和が必要だった。
つまり石原の「不拡大」は平和主義ではなかった。ただ「今はその時じゃない」という、合理的な選択だった。
■満州事変から始まった「病理」
では、その満州事変はどう実行されたのか。
1931年9月18日の夜、中国東北部にある奉天郊外・柳条湖(りゅうじょうこ)で満鉄線が爆破される。
ところが、である。関東軍は錦州へ進撃・爆撃し、朝鮮軍司令官の林銑十郎にいたっては独断で国境を越えて増援に向かった。政府の決定を、現地の軍が堂々と無視する。のちの日本を蝕んでいく病理が、ここで「成功体験」になってしまったのだ。
ちなみに、稀代の軍略家といわれる石原だが、実戦経験はほとんどない。この事変で自ら部隊を指揮した大興近郊の戦闘が、錦州爆撃を除けば軍人生活で唯一の実戦だった。
そして6年後。日中戦争で「不拡大」を叫ぶ石原自身が、今度は暴走を止められない側に回る。直属の部下である作戦課長・武藤章ら拡大派を抑えきれなくなる。
「私はあなたが満州事変で大活躍されました時分……あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で実行しているものです」
自分がつくった前例に、自分が敗れたのである。
■「五族協和」の下にある冷たい戦略
石原は理想主義者でもあった。
若き日の石原は、辛亥革命の報に喜びで震えたというほど、中国に入れ込んでいた。満州国の建国では日中平等の「民族協和」を掲げ、日本の政治機関はできるだけ小さくして、政治は現地の協和会に任せろと主張した。東アジアの民族が対等に手を組む「東亜聯盟」の思想は、朝鮮や中国にも信奉者を生んでいる。侵略者のイメージとは、ずいぶん違う。
ただし、後年の研究者の目は厳しい。石原研究の古典を書いたアメリカの歴史家マーク・ピーティによれば、石原にとって「民族協和」は、近づく世界最終戦争の「武器庫のなかの一つの武器」にすぎなかったとしている。アジアとの提携も民族解放も、決戦準備への支持を集める手段だったと位置づけている。実際、1929年に石原が起案した「関東軍満蒙領有計画」には、満州の「軍政」統治が描かれている。当初の狙いは、独立国どころか「領有」だった。
高い理想と冷たい戦略。この2つを混ぜたまま突き進んだところに、石原の独特さと危うさがある。
■天才軍略家は、なぜ挫折したのか
石原の構想は、結局ことごとく崩れたが、その崩れ方が現代の組織で働く人間には学びが少なくない。
まず、計画そのものが非現実的だった。総力戦に備えた「重要産業五年計画要綱」などの経済計画は、方向性こそ正しかったが必要な資源も人も、当時の日本ではどう逆立ちしても調達できない天文学的な数字が並んでいた。ビジョンがどれほど壮大でも、実行計画が破綻していれば絵に描いた餅である。
しかも石原は、その構想を根づかせないまま現場を去っている。満州国の建国が固まりきらないうちに東京へ転任となり、理想の実現を現地の協和会に託した。その後の満州では、関東軍や日本人官僚が政治を実質的に操る「内面指導」が強まっていく。
1937年、参謀副長として満洲に戻った石原が見たのは、かつて同志と夢みた民族協和、王道楽土とは全く裏返しの満州であり、出稼ぎ官僚や悪徳商人たちの「絶好の狩り場」になっていた。
関東軍参謀長の東条の一声で政治はどうにでも変わり、満州は利権集団に食い物にされていたのだ。石原は内面指導の停止を訴えたが、献策は東条にことごとく退けられる。かつて「上等兵」と呼んだ相手からの、意趣返しだったのかもしれない。
■天皇も理解できなかった本心
また、多民族共学を掲げた「アジア大学」構想も、できあがった建国大学では帝国大学の模倣に変わってしまう。石原は開学前から中止を求め、「完全に失敗である」と言い切った。
とどめは、組織を動かす力の欠如だった。一緒に満州事変を起こした部下の片倉衷は、石原を「非常に頭のいい天才的な人」と認めたうえで、こう評価している。「アイディアの人、哲学の人であるけれども政治家じゃない」。参謀本部で構想を説いても理解されず、石原は孤立を深めていった。
理解しなかったのは、組織だけではない。
昭和天皇は戦後の『独白録』で、石原をこう評している。「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない」。無理もない話ではある。軍の統制を破って満州事変を起こした張本人が、陸軍青年将校のクーデター未遂だった2・26事件(1936年)では、一転して反乱軍の即時鎮圧を主張した。秩序を壊した男が、秩序を守る側に回る。天皇ならずとも、つかみどころがない。
■「軍略の天才」が現代人に突き付ける教訓
戦後、東条英機はA級戦犯として絞首刑になったが満州事変の首謀者である石原は、A級戦犯として起訴されていない。なぜ外れたのか。
病気のためか、検察側の被告選定の事情か、それとも開戦前に予備役へ追われ、東条と対立し続けたからか。理由は今も、諸説あって定まらない。
病身の石原のため、東京裁判は1947年5月、郷里に近い山形県酒田で出張尋問を行った。そこでの石原は「18日夜10時過ぎ、奉天北大営西側において、暴虐なる支那軍隊は満鉄線を破壊し」と、あくまで中国側の仕業だという建前を繰り返し、「関東軍将兵が……事変を引き起こすが如き計画を謀議したことはすこしもありませんでした」と謀略を否定した。
その一方で、機先を制して関東軍の全力を奉天付近に集め、一撃で敵の息の根を止める作戦方針を立て、「教育、訓練、輸送等諸般の準備」を整えていたと、準備の周到さだけは誇らしげに語っている。この法廷での石原を「自己弁護に終始」と評する研究者は少なくない。
晩年は山形の西山に入植し、農村共同体づくりに没頭した。敗戦後は「最終戦争が東亜と欧米の間で行われるという予想は甚だしい自惚れであり、誤りだった」と、自説の核心をあっさり修正している。一方、日蓮への信仰と東亜聯盟の理想だけは最後まで手放さなかった。1949年、死去。波乱ずくめの60年だった。
構想は天才、実行は落第。石原莞爾の生涯は、この一言に尽きる。
どれほど鋭い読みも、現実に落とし込む計画がなく、あとに続く人へ根づかせず、組織を動かせなければ、暴走と挫折に終わる。大きな絵を描ける人ほど、この罠にはまりやすい。80年前の陸軍の話でありながら、どこの組織にも当てはまる話ではないだろうか。石原の生涯が突きつけてくるのは、時代を超えた教訓だ。
主要参考文献(孫引きを含む)
浜口裕子「石原莞爾の対中国観を追う――満洲事変から東亜聯盟への軌跡」『政治・経済・法律研究』第21巻第1号、2018年
石津朋之「総力戦、モダニズム、日米最終戦争――石原莞爾の戦争観と国家・軍事戦略思想」防衛研究所『平成15年度戦争史研究国際フォーラム報告書』所収
中尾訓生「石原の東亜連盟論とアイデンティティ」『山口経済学雑誌』第47巻第4号、1999年
伊藤嘉啓「ドイツにおける石原莞爾(その二)」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第45号、1997年
李昱「理想と現実の乖離――石原莞爾と満洲国『建国大学』」『愛知論叢』第119号、2025年
マーク・R・ピーティ『「日米対決」と石原莞爾』たまいらぼ社、1993年
佐治芳彦『石原莞爾・蘇る戦略家の思想(下)』日本文芸社、1984年
伊藤隆『片倉衷氏談話速記録』日本近代史料研究会、1982-83年
今村均『今村均回顧録』芙蓉書房、寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』文藝春秋、1991年
石原莞爾述『世界最終戦論』立命館出版部、1940年、角田順編『石原莞爾資料(増補)――国防論策篇』原書房、1971年
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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)

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