■タイ・マレーシア国境付近にいた二人の日本人
1945年8月15日、日本が敗戦した。
多くの人はこの日をもって太平洋戦争が終わったと考えている。しかしそれは、あくまでも政府の降伏である。アジアから太平洋まで広く展開していた日本人の一人ひとりにとって、政府の降伏は戦争の終わりを意味しなかった。
フィリピン・ルバング島のジャングルで約30年間戦い続け、1974年に帰還した小野田寛郎。グアム島の密林に28年間潜み続けた横井庄一。彼らは終戦を知らずに戦い続けた悲劇の英雄として語られている。
だが、これは例外的な話ではない。
敗戦後もジャングルに消えた日本人は、もっとたくさんいた。そしてその中には、終戦を知ったうえで、それでも銃を置かなかった者たちがいた。
戦争が終わったことは知っていた。それでも彼らは戦い続けることに、自分の人生を懸ける意味を見いだしたのだ。
日本全土がバブル景気に沸いていた1989年4月、タイから届いた外信が一躍注目を集めた。タイ・マレーシア国境に二人の日本人が生存しているというのだ。第一報を報じた「朝日新聞」は、こう報じている。
タイ・マレーシア国境のタイ軍当局者が3日明らかにしたところによると、タイ南部のマレーシア国境で、旧日本兵二人が、ゲリラ組織のマラヤ共産党(CPM)に加わり、今も国境地帯に生存しているという。
同当局者によると、この情報は、87年4月にタイ軍に投降したCPMの元書記、チャン・チュン・ミン氏(当時62)がタイ軍に語ったもので、タイ側はCPMと接触、事実確認を続けている。(「朝日新聞」1989年4月3日付東京夕刊)
■「踏みにじったマラヤが、英国に返還されるのが許せなかった」
じきにこの二人は、熊本県玉名郡出身の田中清明(当時77)と神奈川県鎌倉市出身の橋本恵之(当時71)だと判明した。5月には、現地を訪問した田中の従兄弟と橋本の弟がCPMの支配区で二人に面会。二日間かけて山や谷を越えて面会場所に現れた二人はゲリラの戦闘服のままで涙ぐんで再会を喜び合った。敗戦時に既婚者であった田中は、従兄弟が持参したビデオテープで51歳になった長女の成長を喜び、まだ生きていた妻に「会える時まで待っていて」と頭を下げたという。(「読売新聞」1989年5月25日付朝刊)
そして、1990年1月、ついに帰国の途についた二人は、バンコクで日本の報道陣を前に記者会見。
「日本が第二次世界大戦中に踏みにじったマラヤが植民地として英国に返還されるのがどうしても許せなかった」
「許せなかった」その言葉の意味を理解するには、二人がマラヤの地で何を見ていたかを知らなければならない。
■「日本の敗戦」を告げたのはゲリラ
二人が戦後も戦い続ける道を歩んだのは、運命のいたずらともいうべきものだった。田中は、1912年生まれ。小学校を卒業後、タクシー会社の修理係として働いており、終戦時には妻との間に二男一女があった。橋本は1918年生まれで中学校卒業後に税務署に勤務していた。
まったく接点のない二人が出会うきっかけは、英領マラヤ(現在のマレーシア)に建設された日系企業・日南製鉄(ケダ州)に入社したことだった。田中は、タクシー会社の後に勤めた三井鉱山の上司から「今の給料の4倍から5倍は貰える」と勧められて、橋本は視力が弱く徴兵されなかったところ、紹介してくれる人がいてというものだった。
この日南製鉄は、東南アジアに占領地を広げた日本軍の肝いりでできた企業の一つ。法人として許可されたのは1943年のこと。現地で田中は溶鉱炉の建設、橋本は経理を担当していたが、敗戦時にはまだ操業も始まっていなかった。
二人は勤め始めて、一年足らずで敗戦を迎えることになるが、製鉄所は人里から離れていたためか、みんな二週間後まで敗戦を知らずに仕事を続けていた。
そんな彼らに、日本の敗戦を告げたのはジャングルから姿を現したゲリラであった。『週刊現代』1990年1月6・13日号には、当時勤務していた社員の証言が掲載されている。
「終戦を知ったのは、マラヤ共産党のゲリラのスカウトからです。ゲリラは『日本は戦争に負けた。日本は新型爆弾(原爆)で跡形もなく吹っ飛んでなくなってしまった。私達と一緒に戦おう。カネもあげるし、女も抱ける!』と、ドルの束を見せながら、ゲリラの勧誘をしたんです」
■日本軍と戦った組織に合流
突然の敗戦を告げられて、ヤケになって空に向けてピストルを撃つものもいたり、どうしようもない雰囲気の中で、8人が手を挙げた。田中によれば、会社にあったライフル112丁と弾薬2000発を持って、トラックでゲリラに合流。既にあちこちで勧誘を受けて参加した在留日本人や元日本兵など、全部で100人あまりがいたという。
そもそもマラヤ共産党(CPM)とはどんな組織だったのか。
1930年、英領マラヤで華人系を中心に結成されたCPMは、太平洋戦争中は「マラヤ人民抗日軍」を組織して日本軍と戦った。皮肉なことに、これが田中や橋本の雇用の後押しをした日本軍と戦った組織である。
戦後、一時期はマラヤ全土を掌握する勢いだったCPMはイギリス軍が戻ってくると折り合わず、やがて反英武装闘争を激化させる。
その後、1957年、マラヤ連邦がイギリスから独立を達成すると、CPMは岐路に立つ。彼らの最終目標はあくまで共産主義国家の樹立であり、独立はゴールではなかった。CPMからすれば「イギリスの傀儡政権が独立しただけ」である。武装闘争は続いた。
さらに民族問題が対立を深めた。CPMはほぼ華人系の組織だった。独立後の政府はマレー人優遇政策を取っており、華人系のCPMへの警戒感は独立後も消えることがなかった。こうして、CPMはタイ・マレーシア国境地帯のジャングルに潜んで、1989年の和平まで闘争を続けることになる。
■「マラヤの独立」を助ける
そんな組織に、共産主義者でもない二人が加わったのはなぜか。
もっとも大きな理由は、勧誘に現れたゲリラから教えられた原爆のことであった。メディアの取材に応じた二人は、参加した経緯を、こう語っている。
【田中氏】肌の色が同じということもあって、マラヤの独立を助けてやろうという気持ちがありました。それから日本に原爆が落とされたということも大きかった。あのことで、白人の敵に降参しない、投降しないという決心になりました。
【橋本氏】原爆のことを聞いて、どうしてもマラヤ独立を成功させなければならないと思いました。マラヤの独立というのが世界の平和につながると私たちは考えたんです。(『週刊現代』1990年1月27日号)
こうして、参加した日本人たち。この間まで抗日闘争をしていたというのに、ゲリラたちは日本人を快く受け入れたという。田中は、このことをこう語っている。
「なにしろ、日本はマラヤを侵略したんですからね。日本人がマラヤに来てやったことはいいことではありません。でも、私たちが、彼らと一緒に独立戦争を戦うことで、日本人にも、こういう人間がいるんだな、と思い直してくれたとは思います」(『週刊現代』1990年1月27日号)
■苦しすぎるゲリラ戦「ネズミも食べましたよ」
もちろん、ジャングルに潜んでのゲリラ戦は生やさしいものではなかった。とりわけ食料には困難を来す時期もあった。
そんな苦しい戦いの中で、参加した日本人たちは次々と斃(たお)れていった。二人は共に戦った日本人たちのことをよく記憶しており、ある者は戦死、ある者は病死したと名前を挙げて語っている。
驚くのは、外務省は早い時期からこうした日本人たちの存在を知り、死亡の情報を得た際には遺族に死亡通知を送っていたことだ。しかし、そうした戦い続けた人々に対する国家の扱いは冷淡だった。
『週刊ポスト』1990年1月26日号には、1956年に戦死したと外務省から通知を受けた、元日本兵の家族を訪ねて、話を聞いている。
「戦死じゃなくて、共産軍に加わって死んだのだから、靖国神社にも護国寺にも入れて貰えませんでした。軍人として5年以上もお国のために尽くしたのに。同じ理由で恩給も扶助料もまったく貰えませんでした。死んだ母親は『これでは犬死にやった』とがっかりしていました」
■「ニュース」も「おしん」も届いていたジャングル
仲間を失い、望郷の念が募っても二人はジャングルから去ることをよしとしなかった。その理由を二人は、帰国のためには敵であるマレーシア政府に投降しなくてはならず、それは「日本人の信義を失うような気がした」からだと語っている。
そんなジャングルでの生活だが、意外にも日本の情報は豊富だった。短波放送で日本のニュースは容易に聞くことはできたし、『おしん』は中国語版のビデオも手に入った。だから、当初から接触した日本の報道陣に対しては、青函トンネルや瀬戸大橋のことも語り、さらに大相撲の大乃国についてまで話し始めている。
現地のゲリラたちは、二人を最後は英雄として送り出した。その後、祖国での余生は、静かなものだった。妻子のあった田中に対して、身よりが弟しか残っていなかった橋本は、弟の家に近い千葉県の市営住宅に入居した。軍属だったため軍人恩給もなく生活保護を受けていた(「朝日新聞」1995年12月23日付千葉版)。それでも日課の太極拳を欠かさないゲリラ時代からのスタイルのまま暮らし、1997年に死去。
妻子と共に神戸市に居を構えた田中のほうも波瀾万丈で、1995年の震災の時は家の天井が崩れて妻と共に半日閉じ込められたが「私たちは大丈夫」とゲリラ時代のような冷静さを見せたという。2000年に死去。
■「自分自身の戦争」を戦い抜いた男たち
考えてみれば、二人は一度も「誰か」のために戦ったわけではない。
日本軍のためではなかった。日本という国家のためでもなかった。マラヤ共産党のイデオロギーのためでさえ、本当はなかったのかもしれない。
田中と橋本が最後まで手放さなかったのは、ただ一つ――自分が納得できるまで戦うという、それだけのことだった。
国家は降伏する。組織は瓦解する。イデオロギーは変質する。しかし個人の意志だけは、本人が諦めない限り、誰にも奪えない。
二人はそのことを、45年間のジャングル生活で証明してみせた。
英雄譚でも、悲劇でも、反省でもない。これは、自分自身の戦争を最後まで戦い抜いた男たちの話である。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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