真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は、どんな人物だったのか。ライターの栗下直也さんは「太平洋戦争反対派だったが、やるとなれば自分の信じる最善の作戦以外は認めない人物だった。
それゆえ最悪の化学反応を起こし、日本は太平洋戦争で悲劇的な結末を迎えた」という――。
■開戦の火蓋を切ったのは、開戦に反対した男だった
1941年12月8日、日本時間の午前3時19分。ハワイ・オアフ島上空で、第一次攻撃隊を率いる淵田美津雄中佐が「全軍突撃せよ」を発信させた。3時22分、続く打電は「トラトラトラ」――われ奇襲に成功せり。まもなく、米太平洋艦隊の本拠地に爆弾の雨が降りはじめる。
日米戦争の口火を切ったこの作戦を構想し、反対を押し切って実現させた男こそ、連合艦隊司令長官・山本五十六だった。
アメリカ駐在の経験からその国力を知り尽くし、誰よりも日米開戦に反対していた。それでも軍人の義務として勝ち目の薄い戦争の先頭に立たされ、最後はニューギニアの東に浮かぶブーゲンビル島上空で散った。
これが広く知られる山本像だろう。このイメージの半分は本当であるが資料を突き合わせていくと、もう半分に通説とはずいぶん違う山本の顔も見えてくる。今回は「反対したのに突き進んだワケ」を通説に都合の悪いファクトも含めて見ていきたい。
まず、山本の戦争反対が本物だったことは押さえておこう。

海軍次官時代の山本は、米内光政海相・井上成美軍務局長と組み、対米戦争につながりかねない日独伊との軍事同盟強化に「徹頭徹尾」反対した。
右翼から「国賊」と罵られ、暗殺の噂が流れるなかでも説を曲げず、1939年8月、身を案じた米内によって連合艦隊司令長官へ転出させられたほどである。連合艦隊司令長官になるまでの山本が、徹底した日米戦争回避論者だったことは間違いない。
■長期戦に「勝てる」とは言っていないが…
山本が艦隊に去ったあと、翌1940年9月、海軍を取り巻く環境は大きく変わる。及川古志郎海相は、同盟反対を貫けば近衛内閣を潰した責任を海軍が負うことになると説き、伏見宮軍令部総長の「ここまで来たら仕方がないね」という一言もあって、海軍は三国同盟の容認へ傾く。
開戦の見通しを問われたときの答えも有名だ。1940年、近衛文麿首相に日米戦争の見込みを問われた山本は、こう答えている。
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」
威勢のいい前半だけが独り歩きしがちな言葉だが、山本は長期戦には確信が持てないと最初からはっきり述べている。この時間感覚の背景には海軍の厳しい燃料事情があったとされている。
一部の研究者によれば、山本は米本土への攻撃を約束したことも、東太平洋へ打って出る構えを見せたこともなかった。少なくとも長期戦に「勝てる」とは、一度も言っていない。

ここまでは、通説どおりだが、問題は、ここからである。
■真珠湾攻撃をゴリ押ししたワケ
ここから先は、防衛庁戦史室の史料や関係者の証言で裏付けられた事実になる。通説の側も否定していない。英雄譚では、あまり強調されてこなかったというだけである。
1941年1月初め、日米関係が緊張を深めるなか、山本は及川海相への私的書簡で真珠湾奇襲を提案する。敵艦隊を近海で迎え撃つという日露戦争以来の伝統戦略「邀撃(ようげき)作戦」を、根本からひっくり返す提案だった。
1月下旬には側近に非公式に具体案の作成を命じ、4月に計画を軍令部へ手渡す。だが審議されず放置された。8月、山本は側近を軍令部に送り込んで採用を迫る。
そして9月24日、軍令部に通告が届く。山本長官は「職を賭して」もこの作戦を決行する決意である――10月19日にも再び「職を賭ける」と伝え、空母6隻の全力投入が認められなければ連合艦隊司令長官を辞めると迫った。
永野修身軍令部総長は2度とも「それほどまでに固い決意なら」と折れている。
現場の機動部隊からも異議が出て、大西瀧治郎・草鹿龍之介の両参謀長が翻意を促しに来たが、山本は逆に説き伏せた。「真珠湾攻撃は僕の固い信念である」「僕の計画を実現するよう努力してくれたまえ」と肩を叩いたという。
当時の軍令部員たちの回想も残っている。「海軍には大戦略がなかった」。だから「山本さんのただ一押し、御一存で戦争が進んだ」。総長も次長も参謀も「山本に頭が上がらなかった」。
■天皇の意向を無視した
もうひとつ、日付を見比べてほしい。9月6日の御前会議で天皇は「外交を優先せよ」との意向を示し、10月には東条内閣に「白紙還元の御諚」が下った。山本が軍令部に承認を迫った9月24日と10月19日は、それぞれの直後にあたる。
これらの事実をどう評価するかは、論者によって分かれる。近年は、山本を単なる「開戦反対の悲劇の提督」とはみなさず、その開戦責任を問い直す研究も出ている。その一人である京都産業大学の松川克彦の評は手厳しい。

1カ月足らずの間に3度、山本は「硬軟取り混ぜて恫喝した」。天皇の意向は、山本の「耳にはいらなかった」――。
一方、通説の側は同じ事実を「開戦は国家が決めたこと。やるなら勝ち目のある作戦はこれしかない、という軍人としての結論だった」と読む。事実は一つであり、割れているのは、解釈だ。ただ、どちらの読みを採るにせよ、主君の一言で一度は立ち止まった東条英機との対照は、際立っている。
■閣僚さえ知らなかった奇襲
山本の計画がどれほど「密室」で進んだかを示す場面がある。
開戦のほぼ1カ月前、1941年11月1日から翌未明まで続いた大本営政府連絡会議で賀屋興宣蔵相が、永野軍令部総長に食い下がった。アメリカ艦隊は、本当に日本へ攻めてくるのか。永野は「五分五分と思え」と突っぱねる。それでも賀屋は引かない。「米国が戦争をしかけて来る公算は少ないと判断する」。

このやり取りからも、閣僚である賀屋がこのとき1カ月後に奇襲するのは日本だということを知らなかったことが推測される。松川によれば、このとき海軍の作戦当事者の間ではすでに12月8日を想定した真珠湾攻撃の準備が進み、その日程は連合艦隊にも伝えられていた(開戦を最終確定する「新高山登レ一二〇八」の発信は12月2日である)。国家の命運を懸けた作戦が、閣僚の知らないところで既成事実になりつつあったのだ。
では、山本を突き動かした信念は何だったのか。及川海相宛の書簡で、山本自身が狙いを2つ挙げている。
ひとつは、奇襲でアメリカ国民の士気を「救うべからざる程度に沮喪(そそう)させ」る。もうひとつは、太平洋艦隊を撃滅して、日本本土への空襲――「帝都其ノ他ノ大都市ヲ焼尽スルノ策」――を防ぐ。
■すがったのは「はず」という楽観論
結果はどうだったか。士気の沮喪は、起きなかった。それどころか真珠湾は、アメリカの国論を一つにまとめてしまった。しかも日本側の対米最終覚書――交渉打ち切りを告げる文書――は、ワシントンの大使館での解読・文書作成の遅れから、攻撃開始の約1時間後にようやくハル国務長官へ手渡された。「真珠湾を忘れるな」の合言葉が、アメリカ国民を一気に結束させた。
そして、もうひとつの本土への空襲も、最終的には防げなかった。
ここから先は松川の評価だ。「『大都市焼尽』の口実を作ったのは、むしろ山本である」とまで書き、この「信念」を、第一次大戦でドイツを行き詰まらせたシュリーフェン・プランになぞらえる。
開戦と同時に全力でベルギーを突っ切ってフランスを速攻で倒し、そのあと東のロシアに向き直る――ドイツ参謀本部が磨き上げた「必勝の初手」である。ただしその成立条件は、「ベルギー軍の抵抗は軽微な、はず」「ロシアの動員は遅い、はず」という楽観だった。前提がひとつ崩れると計画全体が行き詰まり、次の手がない。緒戦の鮮やかな一撃に国運を賭け、外れたときの備えがない。真珠湾も同じ構造だったのではないか。
手厳しいが、2つの狙いがどちらも外れたという結果を見れば、根拠のない批判とも言えない。
ただし、これが唯一の評価でないことも付け加えておくべきだろう。作戦単体で見れば真珠湾攻撃は「極小の損害で最大の成果」を挙げ、米太平洋艦隊主力の撃破と南方作戦への介入阻止という当初目的は達成している。あの日の「戦い」としては歴史的な大勝利だが、その後の「戦争」全体で見れば、勝てない相手を本気で怒らせただけの取り返しのつかない一手。戦術的大成功、戦略的大失敗との評価が正しいのかもしれない。
■山本五十六の評価がいまだ定まらないワケ
1943年4月、山本は前線視察の途上で暗号を解読され、ブーゲンビル島上空で撃墜されて戦死する。山本五十六は何に殉じたのだろうか。職業人としての完璧主義と呼ぶべきものではないか。
戦争そのものには反対する。だが、やるとなったら、自分の信じる最善の作戦以外は認めない。この「反対派でありながら最強の実行者」という組み合わせが、最悪の化学反応を起こしたのだろう。
山本が本気で磨き上げた作戦があったからこそ、「山本案を実行しさえすれば、勝てないまでも有利に戦えるはず」という空気が軍令部にも陸軍にも政府にも広がり、開戦のハードルはむしろ下がっていった。東条英機が開戦直前の軍事参議官会議で「米艦隊主力の撃滅と対日戦意の喪失が図れれば、必ずしも長期戦になるとは限らない」と山本の代弁者のように語ったのは、その象徴である。
「反対意見の持ち主に実行を任せれば、ブレーキになってくれる」
組織でよく聞く知恵だ。だが実行者が超一流で、しかも職業的良心にかけて全力を尽くす人間だったとき、反対者はブレーキではなく、最強のエンジンに変わってしまう。
「反対していた」は免罪符にならない。開戦にいちばん反対した男が、開戦の火蓋を切った。80年以上たった今も山本五十六の評価が定まらないのは、結局この一点に尽きるのではないか。

主要参考文献(孫引きを含む)

松川克彦「日米戦争勃発と山本五十六に関する一考察」『京都産業大学論集 社会科学系列』第31号、2014年、249-272頁

枦山剛「Isoroku Yamamoto's military strategy in the outbreak of the Pacific War」『鳥羽商船高等専門学校紀要』第44号、2022年、60-74頁

判澤純太「東條英機と米内光政(下)」『新潟工科大学研究紀要』第21号、2017年、47-70頁

村上勇介「真珠湾攻撃とペルー――リベラ公使による警告の神話」『イベロアメリカ研究』第46巻特集号、2024年度、43-48頁

深井人詩「書誌調査『真珠湾』の大洋丸」『早稲田大学図書館紀要』第38号、1993年、37-47頁

防衛庁防衛研修所戦史室編『ハワイ作戦』(戦史叢書)朝雲新聞社、1967年、同『大本営海軍部・聯合艦隊1――開戦まで』(戦史叢書)朝雲新聞社、1975年

近衛文麿『平和への努力――近衛文麿手記』日本電報通信社、1946年

相澤淳『山本五十六――アメリカの敵となった男』(中公選書)中央公論新社、2023年

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栗下 直也(くりした・なおや)

ライター

1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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