■勝家の敗北につながった“利家の離反”
天正11(1583)年4月22日、秀吉は越前国府中(福井県越前市)に至り、前田利家、徳山秀現(とくのやまひであき)、不破直光(ふわなおみつ)らが降参した。一つひとつ攻め殺すべきだったが、勝家を討つことを先決としたので赦免した。
羽柴秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いの軍記物『柴田合戦記』の一節だ。前田利家、徳山秀現、不破直光(または勝光ともいう)ら柴田勝家軍の諸将が、相次いで秀吉に降伏した様子を伝えている。上記は書き下し文で、原文は下記である。
廿二日 至越前府中 前田又左衛門尉 徳山五兵衛尉 不破河内守等 城致降参 一々雖可攻殺 先為可打果勝家赦免之
前田利家の戦線離脱は、柴田勝家の敗北につながる大きな要因のひとつになったといわれている。
もっとも『柴田合戦記』は秀吉の文官だった大村由己(おおむらゆうこ)が著しているため、秀吉に都合の良い内容を書き連ねる傾向が強い。それでも似た内容を書き残した文献が、他にもある。例えば前田家の家臣・村井重頼の覚書などだ。
堀秀政が利家に秀吉との和議を斡旋したところ、利家は娘の摩阿(まあ)姫が勝家の居城・北ノ庄城に人質として留め置かれていたため、難色を示した。だが、姫の侍女の機転によって城を脱出したとの報告を聞き、秀吉に降ることを承諾した――と記されている。
利家が秀吉の軍門に下った経緯は、真偽が定かとは言えないまでも複数の文献が書き残しているのである。
■ギリギリまで悩んでの決断だった
4月20日に戦端が開かれた賤ヶ岳の戦いは、柴田勢の劣勢が明らかになると離脱者が相次ぎ、21日には総崩れとなった。『柴田合戦記』が利家の降伏を22日と書いているのを見ると、利家は21日に戦線を離れ、翌日に白旗をあげたことになるのだろう。
ただし『本藩歴譜』(金沢市史所収)は離脱を「撤収」としており、また江戸後期になって成立した『越登賀三州志』は、前田譜代の家臣たちが「撤収」の殿(しんがり)を務め、討ち死にしたとも記している。
これを信じるなら、利家は多くの将兵が戦死するリスクにさらされながら撤退し、かつ人質となった娘の安否も気遣い、柴田・羽柴のどちらに与するか、ギリギリまで決断できずにいたと見ることもできる。
■降伏か、裏切りか、仕方なかったのか
また『越登賀三州志』は、この撤収中に起きた柴田勝家と利家のやりとりを記載している。それによると――。
「我れ府中城にあって敵を防がん」と利家が進言すると、「もはや我が運は尽きた。これより北ノ庄に帰り自刃する。貴下のこれまでの義至れり。秀吉に隷(れい)し給え(従うが良い)」
つまり「もうワシのことは放っておいて、秀吉のもとへ行け」と、勝家はいったというのだ。
おそらくこれは、勝家を見限ったことをカムフラージュするための創作だろう。
一方で4月23日、利家は勝家とお市の方が籠る北ノ庄城を囲む羽柴軍の先鋒となったと、『川角太閤記』は記す。
『川角太閤記』も“秀吉びいき”の文献で信ぴょう性に欠けるが、降伏した者を前衛に配するのは当時の軍掟としてあり得るから、この記載に関しては完全な創作ともいえない微妙な印象を抱かせる。
要するに賤ヶ岳の戦いにおける前田利家の動向は、
・「降伏なのか」
・「裏切りなのか」
・「裏切るのもやむを得なかったのか」
・「北ノ庄城攻撃の先鋒となった真偽」
等々さまざまな疑問があるものの、真相がはっきりせず、わかっているのは最終的に勝家を滅ぼすのに加担した――ということである。
■裏切りは仕組まれていた?
利家は賤ヶ岳の戦い以前から、秀吉の調略を受けていたという説もある。策を弄するのが得意だった秀吉だけにあり得るだろうが、これもはっきりした証拠は残っていない。
「調略はあった説」は、勝家が和平交渉の使者として、利家を秀吉のもとへ派遣したことを根拠としている。『前田家譜』によると、利家と秀吉が個人的に懇意だったことから、使者の役目を託されたという。
この交渉は、冬に入ると雪深い越前から動けなくなることを懸念した勝家が、天正10年秋頃に画策したらしい。
だが勝家のそうした懸念を、秀吉はとっくに見抜いていた。そこで、表向きはいったん和平に応じ、同時にその場で利家を味方に引き入れるよう、巧みに説得してしまったのではないか――と、「調略はあった説」は、このような推理に基づいている。
利家の馬廻衆だった人物の覚書にも天正10年秋、出陣準備を進めていた利家が突然中止したと記されており、この時期に何らかの交渉があったことをうかがわせる。
■養子縁組が示す、羽柴と前田の親密さ
実際、利家には寝返りを疑われてもやむを得ない事情があった。前述の『前田家譜』が書き残した「秀吉と利家の個人的なつながり」が、その事情に該当する。
具体的にいうと、羽柴・前田の両家は養子縁組していた。
利家の娘・豪が幼少の頃、当時はまだ子がいなかった秀吉・寧々夫妻の養女となった逸話は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれていたので、ご存知の方も多いだろう。
また、大河ドラマには登場していないが、秀吉は女児をもうひとり、利家から譲り受けていたという(『加賀藩史料』)。名は菊姫。利家と側室のあいだに誕生し、生まれてすぐ秀吉の養女となったと伝わっている(菊姫は天正12年に死去)。
羽柴と前田が、養子縁組を通じて親密だったのはまちがいない。こうした点をバックボーンに、賤ヶ岳で利家が秀吉の味方となるのは事前に密約があったという、通説が流布されるようになったわけだ。
■利家は勝家の“家臣”ではない
利家はまた、柴田勝家との関係も深かった。「豊臣兄弟!」でも勝家を「親父殿」と呼んでいる。この呼称は利家の言行録『亜相公御夜話(あしょうこうおんやわ)』に見られるらしく、大河ドラマはこの文献をもとにしているのだろう。
「親父殿」と親しく呼ぶ間柄から、利家を勝家に従属する家臣のように考えている方もいるようだが、これが事実と異なるのは、多くの歴史研究者が指摘している。利家は天正9(1581)年、信長から直接、能登一国を与えられており、織田北国方面軍の司令官・勝家が軍事行動を起こす際は指揮下に入るケースもあっただけ――つまり勝家の臣下にあるわけではない。
それが、正確なふたりの関係だ。適切な言葉でたとえるのは難しいが、「協力」「連合」といった間柄だろう。
一方、秀吉とのつながりは、前述の通り私的なもの――。
前田利家の立ち位置は、このように完全に勝家寄りでもない、そうかといって秀吉寄りともいえない、中間的かつ曖昧だった。逆にいえば、それゆえに土壇場までどちらに付くか態度を明確にできず、それがギリギリまで尾を引き、4月22日頃の戦況不利を見てようやく秀吉の軍勢に下った――それが実態だったのではないだろうか。
■「一歩誤れば家が滅ぶ選択」に成功した
秀吉をとるか、勝家に従うか――この選択は、一歩誤れば家を滅ぼす重大な問題だった。利家が寸前まで決められず、悩みに悩んだのも無理はない。
だが、結果として利家は勝ち組を選ぶのに成功した。非情ではあるが、的確に情勢を判断し、家が生き残る最善の道を選択した。
それはこの後の前田が領地を拡大し、繁栄したことからも明らかだ。
その後、利家は秀吉にとって欠くべからざる盟友となっていくのだが、賤ヶ岳の終戦直後は元柴田方だっただけに、慎重に秀吉へ対応していた姿勢がうかがえる。例えば天正11~13(1583~1585)年頃、利家が能登の寺院の高僧に宛てた書状に、こう書かれているという。
「秀吉様から御用があるという趣旨の手紙をもらったので、急きょ会うことになった。うまくいくように、どうぞ神仏へのご祈祷をお願い申し上げる」(高爪神社所蔵・前田利家直筆書状)
秀吉と会うので仏のご加護を頼むとは、何とも殊勝だ。利家は秀吉と会見するのに身の危険を感じ、かつ信頼を勝ち取るのに、神頼みするほど必死だったのだろう。
■秀吉が利用しようとした利家の高い能力
一方の秀吉は、利家の能力に一目置いていたと思われる。その能力とは――。
・戦いの機動性/利家が本能寺で信長死す(天正10年6月2日)の報を知ったのは、6月4日と見られている(『北陸七国志』)。このとき越中の海老江村(富山県射水市)で上杉と対峙していた利家は、水路と陸地の夜間行軍を併用し、翌5日には素早く七尾城に帰還。次の戦いに備えていた。
・意見が異なった際の調整力/前述のように柴田勝家をトップとした北国方面軍は「協力」「連合」であり、必ずしも一枚岩とはいえず、内部で意見の相違が顕在化したこともあった。
・前田家の地位/利家の嫡男・利長は天正9(1581)年、信長の娘・永姫と結婚していた。馬廻衆出身に過ぎなかった前田と織田の縁組は、利家の能力が認められた証しだったといえる。
前田のこうした堅実な力には秀吉も着目していたはずだ。すなわち利家は、秀吉にとって極めて利用価値の高い男だったといえるのではないだろうか。
■結果を出して信頼を積み重ねた
そうした力を持っていたゆえに秀吉は利家を重用し、徳川家康とのあいだに小牧・長久手の戦いが起きた(天正12/1584年)ときには、北陸の備えを利家に任せた。東海道・東山道の最大勢力・家康との戦いに集中するには、北を守る利家は不可欠な存在だった。
実際、小牧・長久手では利家の隣国・越中(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)が、家康に呼応して秀吉に背いているが、利家は成政を破っている(末森城の戦い)。
この結果、秀吉から信頼を得て、嫡男の利長が越中三郡(富山県砺波(となみ)・射水(いみず)など)を領し、前田家は能登・加賀・越中を手中に収めることになる。利長の分を合わせると、石高は天正13(1585)年の時点で約76万石に達し、のちの加賀百万石の礎を築く。
大河ドラマなどでは、利家と秀吉の信頼関係は旧友同士の友情によって成り立っていたように描かれる。確かにそうした一面もあったかもしれない。しかし、世は戦国時代だ。友情や養子縁組といった縁故より、忠誠と成果が求められる。秀吉の求めに応じ利家は忠義と功績を示し、秀吉はそれを高く評価した。
だからこそ晩年には五大老のひとりとして豊臣秀頼後見を任じた。さらに利家の死後、前田は徳川家康の天下となってもしぶとく生き残り、江戸時代を通じ最大の外様大名として君臨する。
その発展へと至る分岐点となったのが、賤ヶ岳の戦いにおける選択だったといえるだろう。
賤ヶ岳の利家の決断を「裏切り」と呼ぶのか、それとも「家を守るための冷徹かつ現実的な選択」と見るか――評価は分かれる。だが、ここでの一瞬の判断が、前田家のその後を大きく左右したのはまちがいない。
参考図書
・河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版、2025年)
・草刈貴裕訳・著『現代語で読む豊臣秀吉軍記[天正記]』(戎光祥出版、2026年)
・岩沢愿彦(よしひこ)『新装版 人物叢書 前田利家』(吉川弘文館、1988年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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