■敗戦は見えていた、それでも止まれない
1945年夏、日本の敗色は覆いようがなかった。海軍の主力艦隊はすでに壊滅し、制空権を失った本土では各都市が空襲で焼かれ、6月には沖縄の組織的戦闘も終わった。8月6日に広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、同日未明にはソ連が対日参戦して満洲へ侵攻を始めた。
それでも日本は、自力では戦争をやめられなかった。
大日本帝国憲法は、天皇が統治権を総攬(そうらん)し、陸海軍を統帥すると定めていた。ただし通常の国務は、国務大臣が方針をまとめて天皇を「輔弼」し、その責任を負う仕組みであり、天皇が対立する政策案の一方を自ら選んで決着させることは異例だった。
しかも軍隊を動かす権限である統帥権は政府から独立し、首相であっても陸海軍の作戦には口を出せなかった。国務と統帥を調整するため、大本営政府連絡会議(1944年8月に最高戦争指導会議に改称)は設けられていた。しかし、政府と統帥部の意見が割れたときに首相が一元的に決着をつける権限は弱く、終戦局面では、その調整機構も行き詰まりを解消できなかった。
天皇が自らの意思で国策を決める「聖断」は、その建前から外れた例外中の例外である。その例外が、8月10日と14日、わずか4日間で二度も繰り返された。
なぜ一度の聖断で戦争を終えられなかったのか。二度の会議は何が同じで、何が違ったのか。最初の決定へ動き出した8月9日から、最終受諾を決めた14日までの経過を史料でたどる。
■「原爆投下」でも審議は動かなかった
9日午前10時30分、最高戦争指導会議が開かれた。いわゆる「6人会議」に出席したのは戦争指導の中枢を担う鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、米内光政海相、そして阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長。午前11時すぎには長崎への原爆投下の報も入ったが、審議に影響した様子はなかったとされる。
意見の割れ方は単純だった。東郷外相と米内海相は、天皇の統治上の地位を変更しないとの了解だけを付す「1条件案」(東郷案)を支持した。一方で阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長はこれに、占領の拒否、自主的な撤兵と武装解除、戦争責任者の自国での処理を加えた「4条件案」を譲らなかった。
鈴木首相は結論をまとめられず、会議は午後1時に散会した。夜の閣議も一致できなかった。「3対3」の対立構図が固まるのは、鈴木首相が東郷案への支持を明言する10日未明の御前会議である。
■両総長に無断で開かれた「御前会議」
10日午前0時3分、天皇は皇居の地下防空施設「御文庫附属庫」に姿を見せた(宮内庁公表資料)。迫水久常書記官長は、参謀総長と軍令部総長の署名を事前に集めておきながら、両総長には無断で開催手続きを進めていた。しかも軍部には、結論を出す場ではないと説明していた。会議の開催自体が、通常の手続きでは実現できない状態だったのである。
御前会議では東郷案に鈴木首相と米内海相が賛成し、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が反対した。午前2時すぎ、鈴木首相が判断を求めると、天皇は1条件での受諾を決断した。その決断の理由を伝える言葉が、『終戦史録』所収「保科善四郎手記」に残る。
「今迄計画と実行とが一致しない」
軍の言う本土決戦の備えは、実行が伴っていないという不信の表明である。九十九里浜の陣地も、新設師団へ渡す兵器も整っていないと天皇は指摘した。軍内部の一次資料も、この批判を裏づける。防衛研究所所蔵「本土決戦関係兵備綴」(請求記号「文庫、宮崎、73」)の5月15日付装備表は摘要欄に「未充足」と記す。
同じ綴りの6月18日付参謀本部第2課作戦班文書も、本土決戦準備がなお十分でない状況を示していた。原画像は防衛研究所のデジタル史料展示で確認できる。
第1回聖断は10日午前3時からの閣議で正式決定された。外務省は10日朝、中立国のスイスとスウェーデンを経由して、連合国へ受諾の申し入れを打電した。国立国会図書館が公開する外務省電報群によると、その申し入れの核心は、天皇の統治の大権を変更する要求は含まれていない。そう「了解」した上でポツダム宣言を受諾する、という点にあった。
■10日の通告は「最終受諾」ではなかった
この申し入れは、条件を付した受諾の意思表示であり、最終受諾ではない。日本側が示した「了解」を連合国がどう扱うか、その回答を待つ段階に入ったのである。
連合国は11日付で回答を発出した。米国務長官の名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。米国務省の外交史料集『米国外交文書』(FRUS)に収録された回答文によると、その骨子は2つ。天皇と日本政府の統治の権限は、降伏の時から連合国最高司令官に対して「subject to」である。
外務省はこの「subject to」を「制限の下にあり」と読んだ。主権は残り、受け入れられるという解釈である。陸軍は同じ一語を「隷属する」と訳し、国体を損なうものだとして連合国への再照会を求めた。外務省の内部文書「バーンズ解答文解釈に付て」(外交史料館所蔵)も、占領中に統治権が制限されるのはやむを得ず、その点を隠さず明示した回答はむしろ誠意の表れと見てよい、と評していた。
同じ英文が、受諾可能な制限にも、国体を否定する隷属にも読まれたのである。訳語の対立は、国立公文書館アジア歴史資料センターの特別展でも確認できる。
■「米軍機が撒いたビラ」に慌てる政府
日本側がこの回答を知ったのは、正式な外交ルートより先だった。外務省は12日午前0時45分、米サンフランシスコ放送の傍受で回答文をつかんだ。正式の電報が本省に届いたのは、同日午後6時40分である。天皇は同日午前、東郷に回答どおり受諾するよう指示した。だが13日の6人会議も閣議もまとまらず、最終回答は14日に持ち越された。
14日午前7時、米軍機がバーンズ回答の翻訳文を刷った伝単(宣伝ビラ)を日本上空へ散布した。木戸幸一内大臣は午前8時30分、このままでは国内が混乱する恐れがあると天皇に上申し、天皇も伝単を読んだ軍部隊によるクーデターを懸念した。政府未公表の受諾交渉を、米軍のビラが先に知らせたのである。
天皇は鈴木首相の願い出を受ける形で、自らの召集による御前会議の開催を決め、全閣僚へ宮中参集を命じた。伝単だけが唯一の原因ではない。閣議の膠着、陸軍内の不穏な動きと重なり、最終決定を急がせた。
■それでも戦争継続を望んだ軍部
14日午前10時20分、御前会議に先立って天皇は杉山元、畑俊六、永野修身の陸海軍3元帥を呼び、終戦の決意を伝えて軍の協力を求めた。軍を最終決定へ従わせる動きは、会議前から始まっていた。
昼前に始まった御前会議で、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3人は、なお連合国への再照会と戦争継続を主張した。
このとき天皇が語った「御言葉」の記録が、防衛研究所所蔵「連合国との折衝関係事項」に残っている。10日の自分の判断は、今に至るも変わらない。連合国の回答も、日本側の申し入れをおおむね受け入れたものと認める。
さらに、このまま時局を収拾しなければ国体を破壊し、民族を絶滅させることになるとして、受諾と詔書の作成を命じた。
14日午後11時、外務省は連合国へ最終受諾を正式に通告した。詔書を発布し、全軍へ戦闘行為の停止を命じる用意がある、という内容である。宮内庁によると、天皇は同日、詔書を2回朗読して録音し、2回目の録音盤が15日正午の玉音放送に使われた。
■聖断の夜、皇居は武力占拠された
それでも、決定に従わない者たちがいた。ポツダム宣言の受諾に反対する陸軍の一部将校が、皇居を武力で占拠したのである。いわゆる宮城事件は、15日早朝までに収束した。
経過は、アジア歴史資料センターの終戦80周年特別展年表と、防衛研究所所蔵の陸軍大佐・稲留勝彦資料が伝えている。天皇が二度目の決断を下してなお、武力で抗う勢力が陸軍内部にいたのである。
二度の御前会議で共通していたことは、政府と統帥部が自分では決められず、天皇の判断で国家意思を確定した点である。冒頭で見たとおり、国立国会図書館が公開する大日本帝国憲法の第55条は、国務大臣が天皇を「輔弼」し、その責任を負うと定める。天皇は形式上、統治権を総攬する立場にあったが、通常は大臣・統帥部がまとめた方針を裁可する運用であり、自ら対立を裁断することは想定されていなかった。
その建前が、最後の4日間で二度も破られた。アジア歴史資料センターも、二度の聖断を「輔弼」制度からの逸脱、すなわち大日本帝国憲法体制の瓦解と位置づけている。
ただ、「二度の聖断」には異なる部分もある。第1回で決めたのは「何を条件に受諾を申し入れるか」であり、両総長の署名を事前に取り付けて会議が開かれた。第2回は、天皇自らが全閣僚を呼び集め、陸軍首脳の抗戦論を最終的に退けるための場だった。
一度目が対外交渉の入り口だったとすれば、二度目は国内の抵抗を抑え込む出口だったのである。
■武力行使をやめたのは「8月15日」ではない
二度目の聖断が下っても、戦争がすぐに終わったわけではない。
アジア歴史資料センター特別展第1章が掲載する陸軍中央の命令書類によると、15日の大陸命(大本営陸軍部の命令)第1381号が命じたのは「積極進攻作戦」の中止だけだった。
陸軍が戦闘行動そのものの停止命令を出したのは16日午後4時の大陸命第1382号で、それでも停戦交渉が成立するまでの、やむを得ない自衛戦闘は認めたままだった。一切の武力行使の全面停止の期限が定まったのは18日の大陸命第1385号で、内地は22日午前0時、外地は25日午前0時以降とされた。
海軍は17日、25日午前0時以降の一切の武力行使停止を命じており、陸海軍の最終的な停止命令がそろったのは18日だった。聖断や玉音放送の瞬間に、全戦線が一斉に止まったわけではないのである。
連合国が戦争の終結としたのは、東京湾で降伏文書に調印した9月2日である(国立国会図書館「降伏文書調印に関する詔書」。だが日本軍が武力行使をやめる期限は、それより前の内地8月22日、外地は8月25日に区切られていた。8月15日でも9月2日でもなく、8月25日が日本軍が武力行使をやめた日なのだ。
熊谷市ホームページ「現代」によると、終戦前夜である8月14日夜の熊谷空襲で266人が死亡した。二度目の聖断が下され、御前会議と閣議で最終受諾が決まった日の夜にも、国内で人命が失われた。
■最後は天皇に頼るほかなかった
一度目の聖断は、連合国へ条件付き受諾を申し入れるために必要だった。二度目は、その回答を受け入れ、陸軍首脳の抗戦論を退けて最終受諾を確定するために必要だった。「二度」という数字こそ、輔弼と統帥の機構が最終局面で自力決定できなくなっていたことの証拠である。
政府も軍も、憲法の建前を踏み越えて、天皇に頼るほかなかった。それが大日本帝国の意思決定の、最後の姿だった。
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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
政治学者
群馬県立女子大学・東京都市大学非常勤講師。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。
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(政治学者 伊藤 隆太)

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