日本は石油を確保するため、南方へ戦線を広げた。ところが、その石油を本土へ運ぶ民間輸送船の護衛は後回しにされた。
ルポライターの昼間たかしさんは「第1海上護衛隊の護衛対象は商船約1000隻だったのに、護衛艦はわずか18隻だった。戦争末期には、船団を大型化しても米軍の攻撃を防げず、輸送船は次々と海に沈んだ」という。補給を軽視した日本軍のもと、民間輸送船と船員たちはどのような運命をたどったのか――。
■「広大な占領地」と「貧弱な海上輸送」の矛盾
なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか。大きな一因は、補給の軽視にあった。
日本が太平洋戦争に踏み切った大きな理由は資源だった。米国の経済封鎖によって石油の輸入が途絶え、南方の油田地帯を確保するために開戦を決意した。石油がなければ艦船は動かず、航空機は飛べず、戦争は続けられないからだ。
緒戦では、日本軍は勝利を重ね、南方の資源地帯を相次いで占領した。石油を確保するという目的は、ひとまず達成したかに見えた。
しかし、戦線の拡大によって、南方の占領地と本土を結ぶシーレーンは長大になった。米軍の反攻が始まると、潜水艦や航空機によって商船が次々と沈められ、資源を本土へ運ぶ補給網は急速に細っていった。
日本は石油地帯を占領しておきながら、そこで採れた石油を運ぶ船を守れなくなったのである。
海軍は艦隊決戦を優先し、海上輸送の防衛に十分な人員や艦艇、航空戦力を振り向けてこなかった。その結果は、数字にも表れている。
太平洋戦争開戦前、日本は約600万総トンの船腹を保有する世界第3位の海運国だった。ところが、終戦時には150万トンまで減少した。日本殉職船員顕彰会によれば、戦争に参加した船員に占める戦没者の割合は推計43%に達し、陸軍の約20%、海軍の16%を大きく上回った。つまり、民間船員が、軍人を上回る割合で命を失った戦争でもあった。
南方占領地には、石油も生ゴムも鉄鉱石も存在した。本土に届かなければ意味がない。商船の損失が膨らむなか、海軍が資源輸送を維持するために進めたのが、護送船団の大規模化だった。
だが日本には、その船団も、航路も十分に守れる態勢がなかった。
■商船1000隻に、護衛艦はわずか18隻
開戦前、海軍が算出した商船の損失予測は年間80万トンだった。
この数字は第一次大戦における英軍の実績を参考にしたものだった。
しかし英軍の船団護衛制度は当時の日本より遥かに整備され、護衛も厳重だった。その違いを十分に考慮せず、英国の実績を日本に当てはめた予測には、そもそも無理があった(岩重多四郎「『ミ号』船団史~海上護衛戦の実態を探る~」『戦争と平和:大阪国際平和研究所紀要』11)。
1942年4月、占領した南西方面の海上交通を守るため、第1海上護衛隊が編成された。しかし護衛対象となる商船は1000隻あまり。護衛艦はわずか18隻だった。しかも徴用貨物船を改装した特設砲艦や旧式駆逐艦が中心だった。1個船団に護衛艦1隻の態勢さえ継続できず、無護衛のまま航行する船団が全体の3割にも及んだ。
海軍の損失予測は1942年末には早くも崩れ、1943年9月の時点で総保有量が550万トンを切った。民需船は必要値を2割下回っていた(前掲)。
そうしたなかで、南方から日本本土への石油輸送を担う重要な航路となったのが、ヒ号船団とミ号船団だった。
ヒ号船団は1943年7月、原則としてシンガポール(昭南)と門司を結んだ。
大型・高速のタンカーなど比較的優秀な船が優先して投入された(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年)。
ミ号船団は1944年4月に設けられたボルネオ島北部の産油地ミリと日本本土を結ぶルートで、比較的低速で、雑多な船も加わった。
■護衛不足を補う「大船団方式」の限界
大船団方式の論理はこうだ。潜水艦は一度に攻撃できる船の数には限界がある。ならば船を一つの船団に集約し、護衛艦も集中させれば、個々の商船が攻撃を受ける確率は下げられる。悪化していた損害率も下げられる。
1944年4月頃から海上護衛総司令部は大船団主義を推進し、ヒ号船団やミ号船団では護衛艦を含め15隻から30隻以上の大型船団が組まれるようになった。
船団の大型化それ自体には合理性があるように見えるが、その効果を発揮させるだけの護衛艦や航空支援が足りず、本格的な導入も遅かった。そもそもの発想がおかしい。商船を「守る」のではなく「沈められる数を減らす」ことを目的としている。損耗を前提とした確率論的な管理であり、補給路を「守り抜く」という発想は最初からなかったのだ。
そして、1944年10月のレイテ沖海戦で連合艦隊主力が壊滅し、日本はフィリピン方面の制海・制空権を急速に失っていった。
さらに米空母機動部隊が南シナ海へ進出すると、大船団方式の欠陥は致命的になった。護衛艦を集中させただけでは、船団を大規模な航空攻撃から守れず、意味がなくなってしまった。
戦局の悪化とともに、ヒ号船団の構成も変わっていった。
本来、ヒ号船団は高速の優秀なタンカーで編成されるはずだった。しかし、優秀な船は次々と撃沈され、補充する新造船もない。1944年11月にはミ号船団そのものが廃止され、その生き残りの低速タンカーまでヒ号船団に組み込まれた。名称は同じでも、当初の姿は失われていた。
その末期の姿を象徴するのが、1945年1月のヒ86船団だった。輸送船10隻のうち、タンカーは4隻だけで、貨物船のほか、533総トンの冷凍船や600総トンの東京都の屎尿運搬船まで加わっていた。船団速力はわずか8ノットだった。
ヒ86船団に1番船として加わった「さんるいす丸」は、1928年竣工。開戦時すでに13年を経ていた。
これが「主力ルートの1番船」として南シナ海を北上していた。
それが末期の実態だった。
■輸送船10隻を待っていた壊滅的な攻撃
そのヒ86船団の軌跡を追ってみよう。
ヒ86船団は1944年12月30日、昭南(シンガポール)を出港した。輸送船10隻、護衛艦6隻の計16隻。石油・生ゴムなどの南方戦略物資を積んでいた。旗艦は「香椎」で、澁谷紫郎少将が座乗した。
船団は1月4日、サンジャック(現ベトナム・ブンタウ)に入港。1月9日12時30分、再び出港して北上を開始した。潜水艦を避けるため、陸岸から2キロの浅瀬を這うように進む接岸航行を行い、バンフォン湾やキノン湾に夜泊をしながら日本本土を目指した。
その1番船が、さんるいす丸だった。
重要な資源を運ぶ船団でありながら、護衛はあまりにも貧弱であった。
旗艦「香椎」は、日本海軍が練習航海用として建造した艦である。1944年3月には、海上護衛総司令部の直属となり、大規模な改装を受けていた。魚雷発射管を撤去し、高角砲や機銃、対空レーダー、爆雷投射機などを追加。ただし潜水艦への対処を目的としたもので、多数の空母艦載機を迎撃できるほどの備えではなかった。
その香椎を旗艦とした第101戦隊は、日本海軍が初めて船団護衛を主任務として編成した戦隊だった。船団を守るのは香椎と海防艦5隻だけだった。潜水艦にも、ましてや米空母機動部隊による大規模な航空攻撃を防ぎ切れる戦力ではなかった。
その結果は、1番船だったさんるいす丸の戦闘概報に残されている。
■「敵機動部隊、附近ニ在ルモノノ如シ」
1月12日9時頃、北緯13度6分・東経109度21分の海域で、B-24型3機が船団の右後方に現れた。船団は航空戦闘配置を命じて監視したが、敵機は攻撃せず、雲中へと姿を消した。
10時頃、旗艦「香椎」から警報が届く。
「敵機動部隊、附近ニ在ルモノノ如シ」
緊張が走る中、再び雲間に敵機が現れた。護衛艦と僚船が一斉に砲火を浴びせると、敵機は恐れをなしたのか雲中から爆撃を行ったが、船団から遠く離れた海岸線近くに着弾させて再び姿を消した。
しかし、本当の地獄はここからだった。
11時50分頃、後方から十数機の敵機が襲いかかった。船団は一斉に対空砲門を開き、激しい迎撃戦に突入。敵機は波状攻撃を行った。視界がわずか百数十メートルに遮られる猛煙と爆風の中、船団は隊形を保つことさえ難しくなっていった。
16時頃には、旗艦の香椎をはじめ、船団のほとんどが撃沈されるか炎上していた。海上に残されたのは、さんるいす丸と海防艦2隻のみとなった。
戦闘概報は、その状況を次のように記している。
■弾薬が尽き、積み荷の油が炎上した
斯クシテ本日拾六時頃汽ニ號艦以下係纜船ノ殆ンドガ沈沒又ハ開脊炎上我ハ本船ト海防艦貳隻ノミトナリ敵ノ集中攻撃ハ其ノ後愈々其ノ度ヲ増ス、全弾薬ヲ打盡シ機銃ハ破壊サレ使用ニ耐エザル状態トナリ、船体ハ數多ノ彈藥並近彈及無數ノ機銃彈ヲ受ケ積油所々破裂炎上シ船内通信及照明、電路ハ一切截断サレ……(軍艦香椎会編集委員会編『留魂:軍艦香椎』松村延樹、1993年)
筆者による大意:こうして本日(12日)16時頃には、第2号艦をはじめとする連なって航行していた船のほとんどが沈没するか、あるいは破裂・炎上してしまい、残ったのは本船(さんるいす丸)と海防艦2隻のみとなってしまった。
敵の集中攻撃はその後ますます激しさを増し、(我が方は)すべての弾薬を使い果たし、機銃も破壊されて使用に耐えない状態となった。船体は数多くの直撃弾や至近弾、そして無数の機銃掃射を受け、積み込んでいた油が至る所で破裂して炎上。船内の通信や照明、電気配線はすべて切断されてしまった……

まさに地獄絵図であった。一方的に機銃掃射と爆撃を受け続ける中、積み荷の原油と重油が次々と誘爆する。甲板は火炎地獄と化し、周囲の海面にも燃え広がった油が浮かぶ。通信も照明も絶たれた船内で、弾薬が尽きるまで対空砲を撃ち続けた乗組員たちが見ていたのは、炎と煙に包まれた南シナ海である。沈まずにいること自体が、すでに奇跡だった。
それでも船員たちは船を見捨てなかった。
孤立したさんるいす丸は、「船体ノミナラズモ救助スル考ヲ以テ」つまり、船だけでなく人も生かすために、自ら浅瀬へ乗り上げ擱座した。しかし、動きを止めた船にはさらに猛烈な攻撃が加えられた。17時頃、後部油槽に直撃弾2発を受け、大爆発が起きた。
万策が尽きた船長は総員退避を命じた。その船長も機銃弾で命を落とした。混乱の中、生存者たちは何とか陸地にたどり着くが、振り返ると、船全体が凄まじい炎に包まれていた。
ヒ86船団の16隻のうち、沈没を免れたのは海防艦の鵜来、大東、第二十七号海防艦のみだった。本来守るべき輸送船10隻は全滅した。
■生還者を襲った「二度目の撃沈」
生き残った者にはさらなる地獄が待っていた。同じ船団で沈没した輸送船・辰鳩丸の乗組員の手記には、こんなことが書かれている。
サイゴン郊外の遭難船員収容所に隔離収容された推定四百余の船員は、潰滅した船団にあって幸運な生存者であった。しかし、その大部分の者は、二十年四月初め、阿波丸に便乗し、日本に帰還中台湾海峡で撃沈され、全員帰らぬ人となった(軍艦香椎会編集委員会編『留魂:軍艦香椎』松村延樹、1993年)。

阿波丸は捕虜への慰問品を運ぶため、連合国側からも安全な航行を保証された「緑十字船」だった。しかし1945年4月1日、台湾海峡で米潜水艦クイーンフィッシュに撃沈された。米軍側の誤認による攻撃だったとされている。
ヒ86船団を生き延びながら、日本へ帰る途中で再び船を沈められ、命を落とした船員が少なくなかったのである。
■最後に残ったのは「特攻精神」だった
ヒ86船団が壊滅した後も、日本は南方からの資源輸送を諦めなかった。大本営が打ち出したのが、燃料と重要物資を緊急輸送する「南号作戦」だった。
しかし、南シナ海にはすでに米空母機動部隊が進出している。フィリピンの航空基地が整備されれば、もはや輸送は完全に途絶する。その前に、船をかきあつめて強行突破で資源を内地に運べ! というのがこの作戦である。もはや、作戦ですらない。
当時の海防艦乗員は、こう回想している。
強行突破輸送といっても全く従来と同じ船団輸送方式で、殊更に新しい手段がある訳でもなく、ただ生還は期し難いよ、特攻精神だよというために大層な作戦名を付けたようで、実質的な効果はなかったようだ。しかし大本営の発令だけに陸海軍挙げての掩護という意味では効用があったと思われる(『嗚呼海防艦三宅』海防艦三宅戦友会、1985年)。

この回想が示しているのは、南号作戦に従来とは異なる有効な護衛手段があったわけではない、ということだ。
大仰な作戦名をつけた結果、陸海軍は官僚的な縦割りを横断して作戦を実施できた点では効果があった。なにか成果があったかと考えれば「ほとんど沈没したけど、作戦を実施できたことに意義がある」くらいしかいえない……それがこの作戦の実態であった。制海・制空権を失った海域を強行突破する危険は変わらなかった。
南号作戦は1945年3月16日、大本営海軍部によって中止命令が出された。以後、日本と南方を結ぶ資源航路は事実上途絶えた。
日本は石油を確保するために南方へ進出し、油田地帯を占領した。しかし戦争末期には、その石油を日本本土へ運ぶことができなくなった。油田を確保しても、運ぶ力を失えば資源は戦力にならない。軍が「特攻精神」を謳い、補給路の防衛を後回しにした代償だった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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