大阪中之島美術館で開幕した「フェルメール 真珠の耳飾りの少女展」(9月27日まで)は「チケットが予約できない」と争奪戦になるほどの人気だ。20日の開会式には愛子さまが出席された。
美術史作家の井上響さんは「一時は忘れられ、価値も下落したフェルメールの絵だが、いまや世界で愛される名画になった」という――。
※本稿は、井上響『ムンクは何を叫んでいるのか?』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■真珠の耳飾りの少女のモデルは誰か
こちらを振り返る少女。潤んだ瞳、わずかに開いた唇、そして耳元で静かに光る真珠。世界で最も有名な肖像画の1つであり、「北方のモナ・リザ」とも呼ばれるこの作品を、見たことがある人は多いだろう。
しかし、この少女が誰なのか、知っている人はどれくらい、いるだろうか。
肖像画というからには、モデルがいるはずだ。フェルメールの娘だろうか。それとも恋人だろうか。あるいは、裕福な商人の令嬢が依頼して描かせたのだろうか。この印象的な眼差しの持ち主は、一体誰なのか。答えを言おう。

■フェルメールにとって理想の少女
彼女は、誰でもない。これは特定の人物を描いた肖像画ではないのだ。
この作品は「トローニー」と呼ばれるジャンルに分類される。トローニーとは、特定の誰かではなく、ある特徴やタイプを持った想像上の人物を描いた絵画のことだ。
異国風の衣装を着た人物や、特定の表情を浮かべた人物など、画家の想像力から生まれた存在をトローニーでは描く。
この絵の少女は、トルコ風のターバンを巻き、大きな真珠の耳飾りをつけている。どちらも当時のオランダでは「異国情緒」を感じさせるモチーフだった。
彼女は実在の誰かではなく、フェルメールが思い描いた、理想の少女なのである。
だからこそ、彼女の眼差しはこれほど神秘的なのかもしれない。現実の誰かではないからこそ、見る者それぞれが、彼女の中に何かを見出すことができる。
ところで、この絵にはフェルメールの超絶技巧が隠されている。少女の耳元で輝く真珠を、よく見てほしい。
拡大すると驚くだろう。この真珠の光は、わずか二筆で描かれているのだ。左上の明るいハイライトと、下側に映る白い襟の反射光。たったそれだけで、フェルメールは真珠の輝きを完璧に表現している。
レオナルド・ダ・ヴィンチであれば、何千もの薄い絵の具の層を重ねて真珠を描いたはずだ。しかしフェルメールは、最小限の筆致で最大限の効果を生み出した。それがこの画家の凄みである。
【参考記事】多くの名画にはあるが「モナ・リザ」にはない…"世界一美しい絵"にダ・ヴィンチが仕掛けた技法トリック
■145年前はたった数万円で落札
これほどの傑作が、かつて二束三文で売られていたことをご存じだろうか。
1881年、この絵が最後にオークションにかけられた時、落札価格は「2ギルダー30セント」だった。現在の日本円にして、数万円である。
なぜそんなことになったのか。当時、この絵は汚れがひどく、フェルメールの作品だと認識されていなかった。

そもそもフェルメール自身が、長い間忘れられた画家だったのだ。
19世紀にフランスの美術評論家トレ=ビュルガーによって「再発見」されるまで、フェルメールの名はほとんど知られていなかった。
回顧展が開かれ、研究が進み、評価が高まり、現在では数百億円の価値があるとも言われている。
誰でもない少女が、世界で最も愛される少女になった。
忘れられた画家が、巨匠と呼ばれるようになった。
この絵の物語は、美術の世界がいかに移ろいやすいかを、物語っている。
■クリムトの「愛の名画」のナゾ
男が女の頬に口づけをする、至福の瞬間。背景は金箔で装飾され、金色の煌(きら)めく空間が演出されている。
男は幾何学模様の衣をまとい、顔は見えない。
女は花冠をつけ、曲線的な模様の服を着て、恍惚とした表情で口づけを受けている。
足元には色とりどりの花が咲き乱れ、蔦が女の足に絡まっている。
美しい。
完璧に美しい。世界中で愛される名画だ。
しかし、よく見ると不穏なことに気づく。
彼らがいる場所がおかしいのである。
なんと、彼らは崖の先で抱き合っているのだ。
なぜクリムトは、愛し合う2人をこんな危険な場所に描いたのか?
■画家には多くの愛人と子がいた
1つの解釈はこうだ。
愛は美しいが、同時に危うい。どんなに深く愛し合っていても、一歩間違えれば奈落の底へ落ちてしまう。崖の縁は、愛の脆さの暗示なのだと。
クリムトの生涯を知れば、この解釈の説得力が増す。彼には多くの愛人がいた。14人の庶子がいたとも言われる。
しかし、生涯独身を貫いた。なぜか?
愛の甘美さを知り尽くしながら、その脆さも知っていたから。だから結婚という「永遠」の約束ができなかったのかもしれない。
■「たとえ崖から落ちても構わない」
しかし、別の解釈も可能だ。
絵画では通常、後方が過去、前方が未来を表す。2人の背後は金色の虚空。つまり、何もない。しかし足元から鑑賞者側に向かって、花畑が広がっている。
つまり、2人の愛は「無」から生まれ、現実世界へと無限に広がっていく。崖は終わりではなく、始まりの場所なのだ。
さらに興味深いのは、女性のポーズだ。彼女は完全に男に身を委ねている。
崖から落ちそうなほど体を傾けているのに、恐れる様子がない。
それは究極の信頼の表現かもしれない。
「あなたとなら、たとえ崖から落ちても構わない」と。
愛は天国でもあり地獄でもある。
永遠でもあり一瞬でもある。
安全でもあり危険でもある。
この絵にはそんな愛の本質が描かれているのかもしれない。
クリムトは1918年に他界した。だからこそ、彼がこの絵に込めた謎の答えは決して分からない。
あなたには、この崖がどう見えるだろうか?

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井上 響(いのうえ・ひびき)

美術史ソムリエ、クリエイター

東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。

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(美術史ソムリエ、クリエイター 井上 響)
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