■企業にとって都合がいい「5%賃上げ」の中身
【西田】今回はBNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミストの河野龍太郎さんをゲストにお迎えしました。
【河野】よろしくお願いします。
【安田】ベストセラーになった『日本経済の死角』は非常に刺激的な論考でした。本日はその中で河野さんが書かれている生産性と賃金の関係について、深くお話をお聞きしたいです。
【西田】賃上げと言えば、いまの日本ではインフレや政策金利の上昇が続くなか、春闘の賃上げ率が3年連続で5%超というニュースもありましたね。
【安田】直近ではトヨタ自動車の平均年収も1000万円を超えたと報じられていました。
【西田】そうそう。でも、一見するといい話のように聞こえるこの「賃上げ」、実際のところはどう考えればいいのでしょうか? 河野さん、まずそのあたりのところを教えてもらえますか。
【河野】わかりました。確かに、「春闘の賃上げ率が3年連続で5%を超えた」というのは事実です。
【安田】ということは、5%台の賃上げとメディアは騒ぐけれど、実態としてはせいぜい3%台。
【河野】その通りです。属人ベースでは上がった気になりますよ。しかし、会社全体で見ると異なります。最も賃金の高い人が定年退職で抜け、一方で最も賃金の低い人が新入社員として入ってくるので、賃金は全く増えていない。日本における「賃上げ」の本質を知るためには、まず定期昇給分を抜いて考える必要があるわけです。
【西田】ここ3年ほどは約3%のインフレも続いていますよね。そう考えると、「3年連続で5%の賃上げ」から2%を引くと……実質賃金の伸び率はほぼゼロということになりますね。
【河野】はい。
【安田】企業側の視点に立つことが多いエコノミストの方からそうした指摘がなされるのは、被雇用者として働く我々にとっても心強いです。
【河野】ありがとうございます。で、ここからが本題ですが、1998年からのデータを見ると、実は日本における時間あたりの生産性は3割上がっているんですよ。
【西田】生産性が低いから日本では賃金が上がらない、という声も多いですよね。でも、実はそうではない?
【河野】はい。ところが、生産性が上がっているにもかかわらず、実質賃金はいま言ったように横ばいどころか、近年の円安インフレを勘案すると1%強は下がってしまっているわけです。
【西田】「賃上げ」と言って喜んでいる場合ではないじゃないですか。
【安田】多くの人は「毎年2%ぐらい賃金が上がってきたから、自分が生産性を上げた分は反映されている」と思いがちですが、実はそれが全くの錯覚だということですね。
【河野】しかも「3割」というのは経済全体の平均です。
【西田】ないですね……。
【河野】50歳から54歳の部長クラスの賃金は、25年前と名目で比べても変わらないか、多くの場合はちょっと減っているくらいです。40歳から44歳の課長クラスの賃金の推移も同様に25年前と比べて低い。これは賃金カーブからも明らかです。
【西田】会社員には厳しい現実ですね。
■我慢してきた従業員より株主を見るようになった
企業は毎年、過去最高益を更新するようになりましたが、従業員に賃上げで報いる選択をしなかった(河野)
【河野】ただ、私はその構造も歴史を振り返れば、最初のうちは仕方のない部分もあったと思っているんですよ。
【安田】というと?
【河野】今の生産性と賃上げの関係を読み解くうえで、欠かせない歴史的な経緯が2つあります。一つは90年代のバブルの崩壊後、不良債権問題をきっかけに銀行危機が起こったことです。もともと日本企業が長期雇用制を維持できていた大きな理由は、メインバンクが運転資金だけでなく、不況期にも追加融資などで経営を支援してきたからでした。
【安田】なるほど。これがアメリカなら、不況になれば倒産を避けるためにすぐにレイオフをしますからね。
【河野】ところが、90年代終わりの銀行危機によって、そのメインバンク制が崩壊してしまった。そして、ここからが重要な点なのですが、そのとき企業経営者は長期雇用をそれでも維持するために、人件費をカットして利益を増やし、利益剰余金を積み上げるという選択をしたんです。90年代の終わり頃に120兆円ほどだった企業の利益剰余金は、2010年代の初めには300兆円まで積み上がっています。
【西田】なぜ、せっかくの余剰金を賃上げに使おうという声が盛り上がらなかったんでしょうか?
【河野】「長期雇用を維持するために社長も頑張っているんだから、俺たちも我慢しないといけない」と社員が納得していたからでしょう。最初はそれでよかった、とも言えた。ただ、アベノミクスがスタートした頃から問題が起き始めました。企業は毎年、過去最高益を更新するようになりましたが、ずっと我慢を強いてきた従業員に、そのとき賃上げで報いるという選択をしなかったんです。
【西田】ひどい話だ!
【河野】それどころか、300兆円まで積み上がった利益剰余金――いまでは600兆円を超えているのですが――を見て、政府は「株主還元ができていない」と言い始めたんですよ。以降、企業は従業員ではなく、株主のほうを見て経営をするようになった。ボタンの掛け違いが起こってしまったんです。
【安田】いまに繋がる話ですね。
【河野】さらにもう一つ、重要なポイントがあります。
【安田】企業があらゆる業務をアウトソースし始めて、賃金水準の低い労働市場が新たにできあがってしまった、と。
【河野】非正規雇用の方々は十分な社会保障も持てていません。それが、いまの日本の状況です。
【西田】労働組合の研究では、組合が正社員の長期雇用を優先し、自ら賃上げを主張しない代わりに雇用の維持を求める交渉をした、とも指摘されますね。
【河野】それもまさに地続きの話でしょう。日本の労働組合は基本的に長期雇用制に属する労働者の集まりですから、いちばんの関心事は長期雇用制の維持でした。長期雇用を維持してくれるのであれば、生産性が上がって企業が儲かっても、ベースアップが凍結されるのはやむをえない。そうした企業にとっても都合のいい考え方は、つい最近まで主流だったと感じています。
【安田】とはいえ企業側と労働組合の利害が一致して賃金が抑制されると、労働市場の構造を歪ませることにもなりそうです。ここ数年のグローバルなインフレによって、その歪みがもたらす弊害が企業経営者にも認識されるようになってきているんでしょうね。
■人件費が安いせいで設備投資が進まない日本
【河野】そうですね。それからもう一つ、ダイナミックな労働市場の動きとしては、10年代半ばから少子高齢化が深刻化し、労働力が圧倒的に不足するようになったという問題も外せません。というのも、多くの人が不思議に思うのは、労働需給がタイトなら賃金はもっと上がるはずではないか、ということだと思います。でも、実際に起こっているのは、日本全体で賃金が低いために、かえって労働需要が生まれているという状況だと考えられます。日本では大企業が賃金を長く抑制してきたため、中小企業も低い賃金で許されてきてしまった。
【安田】大企業のトヨタの賃金がこれくらいなら、中小企業の我が社はそれより低くても当然だろう、みたいな。
【河野】そうすると、本来なら機械化すべき仕事も、人を雇ったほうが安いから、いつまでも人海戦術でやってしまう。生産性に見合う賃金を「均衡賃金」と呼ぶとすると、実際の賃金がそれより低いために、過大な労働需要が起こってしまっている、というのがいまの私の認識です。
【安田】実質賃金が上がらないことの長期的な弊害ですね。安く人を使うほうが新しい技術や資本を導入するより有利だから、機械化が進まない。すると長期的には生産性も上がりにくくなる。日本経済全体がジリ貧で、なかなか抜け出せない構造に陥ってしまっている。
【西田】そこから脱するには賃上げが必要になる。よく「賃上げを続けたら中小企業は耐えられるのか」という懸念も聞きますが、それはいかがですか。
【河野】それは議論の方向性がおそらく間違っているんですよ。レピュテーションのある大企業とは異なり、本来、中小企業は賃金をきちんと払わないと人が来ないはずなんです。
【西田】生産性が3割上がっている。それなのに、実質賃金が上がってこなかった。「失われた30年」で何が起きていたのか、よくわかりました。あらためて、あえて基本的なことを聞きますが、「生産性を上げる」と聞くと、いままで100できていた仕事が同じ労働投入量で130できるようになるとイメージします。でも、いま議論されている「生産性」という概念は、どうもそういうことだけではないですよね?
【河野】1人で100個作っていたものが130個作れるようになって、生産性は3割上がった。これは確かに正しい。ただ問題は、政府が「生産性が上がらないから賃金も上がらない。みんな頑張って生産性を上げよう」と企業に発破をかけたとき、企業経営の現場がそれをどう捉えるかなんです。
【安田】利益を100稼ぐために80かかっていた人件費を50に減らしても、売り上げが維持されていれば利益は130に増えます。「生産性を上げよう」という話は、簡単に「人件費カット」という話にすり替わってしまう。
【河野】ええ。そして、もう一つ大事なのは、「日本の非製造業は生産性が低い」と言われると、まるで従業員の働きぶりが悪いように聞こえますが、実際はそうではないことです。それが「消費者余剰」の問題です。
【安田】消費者余剰の話は以前もこの連載でしましたね。例えば、消費者が1万円払ってもいいと思っているサービスに6000円の値付けがされていると、消費者は4000円分、得したように感じる。この「お買い得感」のことを消費者余剰と言います。
【河野】はい。で、この消費者余剰の数字はGDPには含まれていません。GDPの数字として表れるのは企業の利益だけだからです。ところが、「外国人観光客も増えたし、これからは1万円で売ろう」と企業が言い出せばどうなるか。企業の利益が増えてGDPも増える。同じ労働投入量に対して売り上げが増えているので、生産性も上がっている。でも、消費者のお買い得感はなくなりますよね。つまり、生産性を決めているのは我々の働きぶりではなく、実は経営層が決定する価格、プライシングにも依存しているということを押さえておかなければなりません。
【西田】腹落ち感がありますね。では、ここであえて二人に問いたい。日本の生産性が上がっていることはわかったけれど、実際に賃上げはどうすれば起こりうると思いますか?
【安田】うーん……。身も蓋もない話ですが、特効薬になるようなアイデアはないと私は思います。これだけ長期間、実質賃金が上がってこなかった構造はなかなかに強固ですよ。大きな政策的介入など、ターニングポイントになるようなビッグイベントなしに、労働分配率が突然上がっていくことはもはや考え難いな、というところでしょうか。
【西田】いつもポジティブな安田さんにしては珍しく悲観的ですね(笑)。河野さんはいかがでしょう。
【河野】できるかどうかは未知数ですが、ほかの国では生産性が上がれば、実質賃金も幾ばくかは上がるのが普通です。その背景にあるのが、「レント」をステークホルダーできちんと分けるという考え方なんです。
■従業員も利益を受け取る慣行を復活させるべき
賃上げを主張して怒るべき労働者が、企業のことを慮り過ぎているところもありそうです(西田)
【安田】レントというのは、企業が取ったリスク以上に利益が出た場合に発生する超過リターンのことですね。
【河野】ええ。特にヨーロッパではレントが発生したら、株主と従業員でちゃんと分けましょう、という「レントシェアリング」の慣行が成り立っています。日本も1990年代前半まではそれがあったのですが、バブル崩壊後の停滞のなかで、いつの間にか生産性や付加価値が増えても、増えた分をすべて株主が持っていくようになってしまった。よって、日本が確立し直す必要があるのは、超過リターンを株主と従業員が分け合うという社会慣行ではないでしょうか。復活させるには本当に山あり谷ありだと思いますが、結局はそこに尽きると思うんですね。
【安田】この「生産性」と「賃上げ」の問題はいまの円安とも深く関係していることを、河野さんはBNPパリバのレポートで指摘していますよね。
【河野】そうなんです。いまの円安の原因は、日本銀行の利上げの遅れだけではありません。企業が生産性に見合った賃上げをしてこなかった結果、賃金も物価も上がらず、相対賃金・相対物価の低下に合わせて、円の実力そのものが下がり続けたことも要因です。だから、生み出した付加価値をきちんと従業員に分配して賃上げを実現することは、実は円安への対策にもなりうるんですよ。
【西田】本来は「賃上げ」を主張して怒るべき労働者が、何となく経営者目線で働くようになって、企業のことを慮り過ぎているところもありそうですね。
【河野】その視点は鋭いと思います。企業経営とは本来、株主だけでなく、従業員、取引先、地域社会、すべてのステークホルダーの利益を増進するものです。ところが、いまの日本では経営者だけではなく、中間管理職や普通の従業員までもが「株主利益の最大化のために自分は働かないといけない」と、すっかり株主至上主義を内面化してしまっているように見えます。
【西田】だとすれば、僕たちがまずやるべきことははっきりしていますね。経営者視点や株主視点を勝手に内面化して会社を慮るのをやめること。生産性が3割上がった分の利益は、本来、従業員にも分けられるべきものだったわけですから、会社員はもっと堂々と「給料を上げろ」と声をあげるべきだ!
【河野】はい。すべてはそこから始まる、と言っても過言ではありません。
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年9月18日号)の一部を再編集したものです。
----------
西田 亮介(にしだ・りょうすけ)
日本大学危機管理学部教授/東京科学大学特任教授
1983年京都生まれ。博士(政策・メディア)。専門は社会学。著書に『メディアと自民党』(角川新書、2016年度社会情報学会優秀文献賞)、『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)、『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください 17歳からの民主主義とメディアの授業』(日本実業出版社)ほか多数。
----------
----------
安田 洋祐(やすだ・ようすけ)
政策研究大学院大学教授
1980年生まれ。専門はゲーム理論・産業組織論・マーケットデザイン。東京大学経済学部卒業。米国プリンストン大学へ留学して2007年にPh.D.を取得。政策研究大学院大学助教授、リスボン大学客員研究員、大阪大学大学院経済学研究科教授などを経て、25年10月より現職。著書に『そのビジネス課題、最新の経済学で「すでに解決」しています。』(日経BP・共著)、監訳書に『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』(東洋経済新報社)など。
----------
----------
河野 龍太郎(こうの・りゅうたろう)
BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト
東京大学先端科学技術研究センター客員教授。1987年、横浜国立大学経済学部卒業。住友銀行、大和投資顧問、第一生命経済研究所を経て2000年より現職。23年より東京大学先端科学技術研究センター上級客員研究員を兼務、25年より同大客員教授。日経ヴェリタス「債券・為替アナリストエコノミスト人気調査」で、2024年までに11回の首位に選出。著書に『成長の臨界』、『グローバルインフレーションの深層』(ともに慶應義塾大学出版会)、『日本経済の死角』(筑摩書房)など。
----------
(日本大学危機管理学部教授/東京科学大学特任教授 西田 亮介、政策研究大学院大学教授 安田 洋祐、BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミスト 河野 龍太郎 構成=稲泉 連 撮影=宇佐美雅浩)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
