2000人が従事したという大規模鉱山の「群馬鉄山」

 群馬県を走るJR東日本の吾妻線には、かつて支線が存在しました。長野原草津口駅から北へ延び、1971(昭和46)年に廃止された「太子(おおし)支線」です。

その終点「旧太子駅」はエモい風景が広がることで注目が集まっていますが、その旧太子駅の奥に、吾妻線や太子支線を敷設する理由となった「鉱山」が存在し、現在は特徴的な公園となっていることをご存知でしょうか。

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 日本を代表する温泉地、草津温泉や万座温泉へのアクセス路線としても使われるJR東日本の吾妻線。「八ッ場(やんば)ダム」建設に伴い、一部がダム湖の底に沈む岩島~長野原草津口間11.8kmが2014年10月に新線に切り替えられ、旧線が廃止されました。その廃止区間を活用して、2020年7月から自転車型トロッコで線路を走れるアトラクション「アガッタン」の営業も始まり、行楽シーズンを中心に賑わいを見せています。

 吾妻線の太子支線はこれとは別の廃線です。「旧太子駅」跡に広がる、コンクリートでできた神殿のような「ホッパー棟」跡も、近年“映えスポット”として大きな注目を集めています。

 この太子駅の北北西約8kmには、かつて褐鉄鉱の鉱床(群馬鉄山)が存在していました。この鉱山から産出される鉄鉱石を京浜地区へ輸送するために建設されたのが、渋川~長野原(現:長野原草津口)間42.4kmを結ぶ長野原線と、長野原~太子駅5.7kmの太子支線です。突貫工事により1945(昭和20)年1月に開業した同区間が、吾妻線のルーツといえます。

 群馬鉄山は、第二次世界大戦の戦局悪化で輸入鉄鉱石が不足したことを受け、1943(昭和18)年から日本鋼管により開発が始まった露天掘りの鉱山です。鉱山があることは戦前から知られており、平安・鎌倉時代には色彩がよい赤色部分を「ベンガラ(弁柄)」として京の都まで運んでいたそうです。

 しかし鉱山の開山および鉄道が開通した頃の日本は、度重なる米軍の空襲を受けてすでに敗色濃厚という状況で、思うような輸送もできないまま終戦を迎えたといいます。

 敗戦により事業は停止したものの、終戦後は採掘を再開。月産2万tを産出して釜石鉱山に次ぐ国内2位の規模を有し、最盛期には2000人以上が従事した群馬鉄山で採掘された鉄鉱石は、3本の索道(ゴンドラリフト)で太子駅まで運ばれ、同駅のホッパーによって貨車に積み込まれていました。現在も残る旧太子駅の巨大な遺構は、まさにその時使用されていた名残です。

まるでプチ鉄道博物館と化した「吾妻線のルーツ」

 開業時の長野原線は省線(鉄道省)の貨物専用線で、太子支線は日本鋼管(現:JFEスチール)の専用線だったため旅客輸送は行っていませんでしたが、長野原線は開業初年から順次、旅客営業区間を全線に拡大。その後、1949(昭和24)年の国鉄(日本国有鉄道)発足に伴い、国鉄長野原線となりました。

関東最奥部の「廃駅」その更に奥の鉱山跡が「世界でも類を見ない」場所だった! 観光路線の“本当のルーツ”
太子駅を一躍有名にした、ホッパー棟跡の“エモい景色”(遠藤イヅル撮影)

 一方の太子支線は、1952(昭和27)年に日本鋼管から国鉄に移管され、さらに1954(昭和29)年6月からは、旧六合(くに)村(現:中之条町)の沿線住民が待ち望んだ旅客営業も開始しています。

 しかし約300万tもの鉄鉱石を算出して戦後の鉄鋼業復興に貢献した群馬鉄山も、資源枯渇・鉱床の老化などにより1965(昭和40)年に閉山(閉山年はその翌年という資料も)。太子支線も翌年に貨物営業を休止。利用客も減少したため、1970(昭和45)年の休止を経て1971(昭和46)年には廃止されました。

 なお長野原線は1967(昭和42)年に電化を果たしましたが、太子支線は廃止まで非電化のままだったため、廃線時にはキハ17系などの気動車(ディーゼルカー)が活躍していました。しかし運行本数はわずか1日5往復のみでした。

 廃止後もホームの石積みやホッパー基部など一部施設が残っていたため、中之条町は2013年から旧太子駅の観光資源化を図るべく総事業費1億4000万円を用意。

埋まっていた遺構を掘り起こし、ホッパー棟を外から見学できるよう修復したほか、レールの敷設・ホーム・駅舎の復元が順次行われました。2021年には、「旧太子駅ホッパー棟」が登録有形文化財に登録されています。

 さらに構内には、大井川鐵道井川線で使用されていた有蓋車のワフ0形「ワフ2」「ワフ3」、ト100形「ト111」、元国鉄のワラ1形「ワラ1」、車掌車ヨ6000形「ヨ6720」、無蓋車トラ45000形「トラ51862」、元東武鉄道→茨城交通の無蓋車トラ1形「トラ115」、元静岡鉄道の無蓋車ト1形「ト1」、三井三池鉄道からは保線モーターカー、無蓋車「ハト37」「ハト152」といった貴重な車両も年を追うごとに集結。今や一大車両保存施設に発展しています。

鉄山跡は「コケが鉄鉱石に変化する」場所に

 群馬鉄山は閉山後、日本鋼管が管理していましたが、2012年に中之条町に無償譲渡され、現在は国指定天然記念物指定およびラムサール条約湿地群にも登録された「チャツボミゴケ公園」として整備されています。

関東最奥部の「廃駅」その更に奥の鉱山跡が「世界でも類を見ない」場所だった! 観光路線の“本当のルーツ”
穴地獄駐車場から穴地獄までは約300m。気軽なハイキングコースだ(遠藤イヅル撮影)

 チャツボミゴケはウロコゴケ目ツボミゴケ科に属する苔の一種。漢字では「茶蕾苔」と表記し、学名は「ユンゲルマンニア・ブルカニコーラ(Jungermannia vulcanicola)」といいます。

 なぜ鉄鉱山の跡で苔が?と思うかもしれません。このチャツボミゴケは世界中の苔類約1万8000種類の中でも最も耐酸性があり、強酸性の温泉水という過酷な環境に生育する苔で、しかもその中で長い時間をかけて鉄鉱石に変わっていく(!)という性質を持っているといいます。そのためチャツボミゴケに鉄酸化バクテリア、珪藻ほか多様な生態系が関与することで、現在も鉄鉱の生成(鉄沈殿)が行われています。つまりここの鉄鉱石は、もとチャツボミゴケなのです。生命の不思議さには驚くほかありません。

 このようにチャツボミゴケが鉄鉱石になるのは、生物が自身の身体の内外に鉱物、つまり無機化合物を作り出す「バイオミネラリゼーション(生体鉱物化)」という作用によるもの。サンゴや真珠、珪藻土なども、この作用で作られます。

 チャツボミゴケ公園は群馬鉄山の最奥部、かつて「穴地獄」と称された場所に位置します。動物が落ちると出られずに、命を失うことから命名されたとのことです。

 穴地獄は露天掘りによってできた窪みで、その面積は約2000平方メートル。23~28度ほどの温度でph2.8前後という強酸性の温泉が8か所から湧き出ています。穴地獄では1万年以上前からチャツボミゴケが存在していたとされ、チャツボミゴケの群生地としては世界でも類を見ないほどの規模を誇ります。

 穴地獄という物騒な名前ですが、実際に現地に行ってみると緑色の苔が岩場を覆う、不思議でとても美しい風景が広がっています。この柔らかそうな苔が、鉄鉱に変化するなんて信じられません。

チャツボミゴケ公園へのアクセス

 チャツボミゴケ公園へのアクセスは、基本的にクルマが必須です。東京方面から行く場合、関越道・渋川伊香保ICで約1時間45分。温泉街の草津・湯畑からは約30分で行くことができます。

自家用車がない場合は、草津温泉バスターミナルからタクシーで向かうと良いでしょう。

 チャツボミゴケ公園の第一駐車場に着いたらクルマをいったん停め、公園事務所で受付を行います。第一駐車場が混んでいる場合は、第二駐車場も利用できます。入園料は800円(小学生以下・障害者手帳をお持ちの方は無料。中之条町民は300円)です。

 受付を済ませたら再びクルマに戻り、穴地獄駐車場まで1km移動します。道幅が狭いのですれ違いには注意が必要です。穴地獄駐車場から穴地獄までは約300m歩きます。なお受付から穴地獄まで歩く場合は約30分かかります。トイレは事務所裏のみなので、あらかじめ済ませておきましょう。事務所内には地元産の野菜や山菜、特産品、飲み物やビニール傘なども販売しています。

 観光地として有名になった旧太子駅だけでなく、今や知られざる存在となった群馬鉄山、そしてその跡に整備されたチャツボミゴケ公園もぜひセットで回ってみてください。

戦後の歴史を辿るとともに、ちょっとしたハイキングルートを歩くことで気持ちもリフレッシュできるはずです。その際は、歩きやすい服装とスニーカーで行くことをオススメします。

【え…!】「廃駅のルーツの鉱山跡」まるであの世のような光景(地図/写真)

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