錦織圭という奇跡【第41回】
添田豪の視点(1)

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 添田豪が初めて「錦織圭」の名を知ったのは、「天才少年」としての噂だったという。

「圭がまだ、16歳か17歳の頃だったと思います。

インターネットもあまりない時代に、日本のコーチたちが『錦織圭というすごい子がいる』と話をしていた。顔も知らなかったので、アメリカにそういう名の天才少年がいるんだな、という印象だったと思います」

天才少年・錦織圭のフォアハンドは「世界で通用する」 5歳年上...の画像はこちら >>
 添田氏は、現在の国別対抗戦デビスカップ日本代表監督。4歳からテニスを始め、国内のエリートコースを歩んでいた当時の添田氏は、アメリカのIMGアカデミーを拠点とする5歳年下の少年の名を、漠然としたイメージとともに記憶に刻んでいた。

 両者が出会うのは、それから間もなくのことである。添田氏がIMGアカデミーを訪れた際に、練習する機会を得た。

 実際にボールを打ち、肌で感じたインパクトは、「天才少年」のイメージを上回るほどだったという。

「日本の選手でこんなにすごいボールを打つ子がいるんだ......と思って。やっぱり全然、違う。すぐに強くなるだろうな、というのは、初めて打った瞬間に肌で感じましたね」

 具体的には、何がほかの日本人選手とは違ったのか──?

 その問いに添田氏は、20年近く前の日の記憶を呼び覚ますように語る。

「ラリーでボールを受けながら、ボールの伸びや球質の違いを感じていました。もちろん、日本でも球威のあるショットを打つ選手はいる。ただ、圭のボール......特にフォアハンドは、独特な軌道だったんです。

 あんなふうに伸びて、そこから急速に落ちるボールを打つ選手は、その当時の日本にはいなかったですね。『こういうボールを打てる選手は、どこでも勝てるんだろうな』と思った。間違いなく、世界で通用するプレーをしているなと感じました」

 添田氏が、錦織の打つボールに対し「世界で通用する」と感じたのは、当時の彼自身が抱えていた葛藤を浮き彫りにしたからでもあるだろう。

【参考にしないようにしよう】

 添田氏が拠点とした『荏原SSC』は、数々のトップ選手を輩出した日本の名門テニスクラブ。出身選手の多くは、早いリズムで、回転の少ない直線的な高速ショットを左右に打ち分ける。とりわけ添田氏は、美しいフォームから精密機械のように放つ正確無比なストロークで、早くから頭角を現した。

 ただ、世界に出れば、独特のフォームで癖球を打つ選手や、一芸に秀でたタイプもいる。また、ボールの種類か、あるいは湿度や気温などのためか、海外では「日本よりボールが軽く、飛びやすい」と感じることも多かったという。

「だからフラットで打つと、どうしてもボールが飛びすぎてしまう。やはり、スイングスピードを速くして、しっかりスピンをかけないと、コートに収まりにくいと感じていました」

 日本からアジア、そして世界へと戦いのステージを広げるたびに、対戦相手の幅も広がる。その適応に試行錯誤していたからこそ、錦織のテニスに「世界のどこでも通じる」と感じたのだった。

 添田氏が予感したように、その後、錦織は18歳でATPツアー初優勝を果たし、同年に全米オープンで世界4位のダビド・フェレール(スペイン)を破る。それら錦織の活躍に衝撃を受けながらも、添田氏はなかば意識的に「参考にしないようにしよう」と思っていたという。

「やっぱり圭は、特別でしたから」と、添田氏が当時の思いを明かす。

「18歳でツアー優勝し、トップ100に入っている。どう考えても、誰もができることではないし、実際に世界的に見ても、そんな選手はカルロス・アルカラス(スペイン)など一部のトップ選手だけ。そういう意味でも、圭は特別だと認めざるを得ないですから。

 それは人から聞く評価以上に、僕が一緒に練習したなかで感じていたことなんです。だから圭を参考にしたら、おかしなことになると思った。

 正直、認めたくない気持ちもありましたよ。でも、あそこまで断トツにすごいことをやられると、こちらも開き直れるというか、自分は自分の道を行くしかないと考えるしかないですよね」

【なかなか素直に認められない】

 淡々と語る添田氏は、「もちろんそれでも、すごく悔しい思いはいっぱいしましたけど」と、端正な口もとを微かにゆがめる。

「もちろん、そこは自分の捉え方次第なので、いい刺激にしようとは思っていました。だけど、やはり自分も選手なので、当時はなかなか素直に認められないところもあって......。なので、半々くらいですかね、いい刺激と悔しさが」

 添田氏のこれらの言葉の真意を理解するには、当時の日本男子テニス界の背景を知る必要もあるだろう。

 1973年にATPランキングが導入されて以降、日本人男子では坂井利郎氏が同年に世界75位を記録。その後、松岡修造氏が1988年にトップ100入りを果たした。

 しかしそれ以降、日本勢の苦しい戦いが続く。錦織が18歳でトップ100を突破したのが2008年。添田氏がプロ転向した2003年当時、100位は高くそびえる壁だった。

 その当時の日本テニス界の空気感を、添田氏が回想する。

「日本に限れば、トップ100はすごく遠い世界だという雰囲気がありました。やはり修造さん以降、そこに入れた選手はいない。僕の少し上にはすごく強い選手たちがいましたが、彼らですら100を切れなかった。コーチたちからも『とてつもない世界だ』と言われていたので、僕も21~22歳ころまでは、すごく遠いと思いながらやっていました」

 そんな添田氏にとって大きかったのは、台湾の盧彦勳(ルー・イェンスン)のように、同世代で体格的にも近いアジアの選手がトップ100入りを果たしたこと。そうした選手と対戦するなかで、「そんなに遠くないんじゃないか? 周りが言うよりも、自分は(トップ100に)近いんじゃないのか?」と感じるようになれたという。

 果たして添田氏は、2011年にトップ100の壁を突破。翌2012年には、グランドスラムやATPツアーが主戦場となった。

【あまり勝った気がしなかった】

 そして、ふたりの足跡は交錯する。

 添田氏と錦織の初対戦は、2012年7月。

舞台はATPアトランタ大会の準々決勝。結果は、6-2、6-1のスコアで添田氏の勝利だった。この試合後に錦織は、純粋に相手を称賛し、自身の完敗を受け入れている。

 一方で添田氏は、「あまり勝った気がしなかった」と振り返った。

「圭が、すごくやりづらそうにしているのは感じましたから。最初から最後まで、相手の調子が全然上がってこない感じだったんです。

 僕は準々決勝まで勝ち上がり、調子がいいうえに、ノンプレッシャーで向かっていけた。試合前は『どこまでついていけるかな。もしかしたら数少ないチャンスを取れたら勝てるかな』と思っていたんです。対して圭は、最初から最後まで歯車が合わないままだったので、僕としては、『このスコアで勝っていいのかな』という感じだったんです」

 注目された一戦だっただけに、試合後は多くの人から「すごいね」と言われたという。ただ、本人のなかでは、どこか未消化な結末でもあった。だからこそ、彼は言う。

「ジャパンオープンで負けた時のほうが、なんか本当に戦った気持ちになりましたね」と。

 初対戦から約2カ月半後──。東京開催のジャパンオープン1回戦で、添田氏と錦織は再び相まみえる。結果は、6-4、2-6、3-6で添田氏の敗戦。だが内容的には、はるかに「戦っている」との実感を得られたという。

「やっぱり日本での対戦ということもあって、圭の気持ちの入り方が、アトランタの時とは違った感じがしました。もちろんプレッシャーも大きかっただろうけれど、絶対に負けられないという圭の気迫を感じました。

 自分としても、ちゃんと戦えている実感もありました。引いたら絶対に負けると思っていたので、ベースラインから下がらず、早い攻撃で圭の攻撃を防ごうと思ったんです。最初はそのプレーをやりきり、1セット目は取りました。

 ただ、徐々に彼のペースに引き込まれてしまって。ファイナルセットは自分もギアを一段上げましたが、最後は圭のほうが、アイデアがひとつ多かったのかなと思います」

【総合力が高く、穴がない】

 日本のファンたちの前で、互いの力を出しきり、戦えたという清々しさ。

そのうえであらためて感じた、錦織圭の強さの精髄はどこにあったか?

 添田氏が答える。

「あまりひねったことは言えないですが、総合的な能力が高く、穴がないと思います。ほかの選手に比べて弱点がないし、ボレーでもミスが少ない。懐(ふところ)が深く、崩れたように見える体勢でも、けっこうきれいにボレーを打っていました。

 そういうところが、大切な場面で1ポイントの差を分けると思います。トップ選手との戦いになると、ひとつのボレーミスなどがブレイクに直結する。圭はやっぱり、そういったところが少なかったですよね。

 あとは単純に、リターンのミスが少ない。そういうところが、結局は3セットを通して見たとき、勝負を分けたんじゃないかなと思います」

 初めて練習で打ち合ったときに肌で感じた「特別感」と、プロとして対戦した時に実感した世界トップクラスの実力。選手時代には羨望も交えて見た「強い錦織圭」は、やがて両者の関係が『監督と選手』になった時に、これ以上なく頼もしい存在へと変わっていくのだった──。

(つづく)

◆添田豪の視点(2)>>「キャリアの最後に、みんなで一緒に過ごしたかった」


【profile】
添田豪(そえだ・ごう)
1984年9月5日生まれ、神奈川県藤沢市出身。4歳でテニスを始め、藤沢翔陵高時代の2001年に全国高校総体(インターハイ)で単複2冠を達成。2003年にプロ転向し、2008年、2009年に全日本選手権シングルスを連覇した。2012年はチェンナイ、アトランタのATPツアー2大会でベスト4入りし、同年7月に自己最高ATPランキング47位を記録。ロンドン五輪にも出場した。四大大会では全豪オープンとウインブルドンで2回戦に進出し、ATPチャレンジャー大会のシングルスで通算18タイトルを獲得。デビスカップでは日本代表としてシングルス24勝、通算26勝を挙げた。2022年限りで現役を引退し、2023年からデビスカップ日本代表監督を務める。身長178cm。

内田 暁●取材・文 text by Akatsuki Uchida

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