ラブホに潜むカップル、37年間帰郷しなかった男性… 映画『蒸発』に世界が「他人事でない」と共感した理由
ドイツ人のアンドレアス・ハートマン監督と日本人の森あらた監督が共同制作したドキュメンタリー映画『蒸発』。3月に“日本解禁”となった同作は、「誰にも告げずに社会から姿を消す」という現象を追いながら、国境を越えた人間の普遍的な衝動を映し出し、世界中で大きな反響を呼んだ。

さらに本作では、出演者保護のために用いられた、AIによる映像加工も話題となった。
本記事では両監督に、撮影の動機や、被写体との出会いを通じて揺さぶられた内なる感情について聞いた。(聞き手:岩田いく実)

撮影のきっかけは友人の「秘密」だった

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『蒸発』©2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM

「蒸発」という言葉を最初に耳にした外国人の多くは、その意味をすぐには理解できないという。
日本では突然、家族にも職場にも告げずに姿を消す人が後を絶たない。借金、家庭内の問題、職場のプレッシャー……その理由は様々だが、彼らは文字通り水分が「蒸発」するように社会から消え去る。この現象と、ドイツ出身のハートマン監督が初めて向き合ったのは2018年の春のことだった。
ハートマン監督:「蒸発という現象をリサーチするために日本に滞在していたとき、日本の友人たちに久しぶりに連絡を取りました。このテーマに取り組んでいるという話をしていたら、友人の一人が、自分の父親とおじが蒸発したと教えてくれたんです」
数年来の付き合いがある友人から、初めて打ち明けられた出来事。驚いたハートマン監督がさらに周囲に耳を傾けると、別の友人もまた蒸発にまつわる経験を持っていた。
ハートマン監督:「自分が思っていた以上に、蒸発は身近な問題なんだと知りました。決して遠い社会問題ではなく、実際に自分の周りで起きていることなんだと。だからこそ、この映画を作りたいと思ったのです」
そこからハートマン監督は、日本在住の映画監督・森あらた氏に声をかけ、共同制作へと動き出す。ただし、日本を18年前に離れてヨーロッパで暮らす森監督にとって、当初このプロジェクトは「自分とは関係のない話」だった。

「ハートマンから蒸発について映画を撮りたいと言われたとき、正直、自分には関係のないテーマだと思っていました」と、森監督は振り返る。しかし撮影が進むにつれて、その距離感は急速に縮まった。

ラブホテルに隠れるカップルと「もう一つの人生」

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『蒸発』©2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM

撮影に協力してくれる人を探すことは、容易ではなかった。蒸発者は定義からして「見つかりたくない」存在だからだ。両監督が気づいたのは、自分たちが「国際的なチーム」であることが、被写体に安心感を与えたかもしれないという点だ。
ハートマン監督:「私はドイツ人で、森さんは日本人だがヨーロッパに住んでいる。日本社会の中の人間ではないということが、彼らに話しやすさを感じさせたのではないかと思います。まるでセラピーのようだったのではないでしょうか。距離がある者同士だからこそ、今まで誰にも話したことのないことを打ち明けてくれた方もいました」
撮影を通じて出会ったのは、夜逃げ屋を営む女性、ラブホテルに匿(かくま)われながら生活する逃亡中のカップル、大阪・西成で日雇い労働や空き缶集めをしながら生き延びる男性、蒸発した子を探す母、そして37年間故郷に帰らなかった男性……それぞれが複雑な事情を抱えた人々だった。
森監督にとって特に印象深かったのは、ラブホテルで生活するカップルとの時間だった。
森監督:「彼らは私と年齢も近くて、なんというか、もう一つの自分の人生を見ているような感覚がありました。一歩間違えていたら、自分もああなっていたかもしれないと」
2人で外出することもできず、建物の中に居続けなければならない生活。その息の詰まるような現実を目の当たりにしながら、森監督は撮影者としての「心の距離」を保つことの難しさも感じていた。

森監督:「ドキュメンタリーを撮るときは、ある程度の距離を持っていないと、影響されすぎて撮影ができなくなってしまう。それは意識していました。でも彼らと一緒にいる時間の中で気づいたんです。自分自身も、気がついたら今まさに蒸発している最中なんじゃないかと。蒸発というのは、実は誰にでも起こりうることで、ある意味とても普遍的な行為なんだと」
18年前に日本を離れ、ヨーロッパで人生を歩んできた自分自身の軌跡が、蒸発者たちの姿と重なった。

出演者保護のためAI活用、「正しい使い方」として反響も

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『蒸発』©2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM

本作では出演者の保護を目的にAIによる加工が行われており、画期的なアイデアだと好評だ。
森監督:「顔をぼかすだけでは感情が直接伝わらないので、AIによるディープフェイク技術を使いました。AIを映画の中でどう使うべきかという倫理的な議論が盛んな今、『AIの正しい使い方』の先行例として反響の声をいただきました。これは正直、予想外でした」
多くの出演者がAIを通して生々しい表情を見せる。そんな劇中において森監督がこの映画で最も印象に残っているシーンとして挙げるのは終盤に登場する「夜逃げ屋」を営む女性が夕暮れの浜辺で自らの体験を語る場面だ。
森監督:「3か月にわたるメインの撮影期間の終わりに撮影したシーンです。夜逃げ屋さんというのもまた、蒸発者と同じように隠れ続けなければならない存在でしたから、なかなか心をひらいてくれなかった。でも、あの浜辺の夕暮れの雰囲気も相まってか、少しだけ心をひらいてくれたと感じました」
カメラの向こうで声をかけていたのは森監督自身。
その言葉を聞きながら、監督はこのシーンがこの映画の核心になるだろうと直感した。
森監督:「彼女は『自分はまた、いつか蒸発するかもしれない』という複雑な心境を吐露してくれました。その言葉が本当に心に刺さりました。蒸発というのは終わることのない、ずっと繰り返されていくことなのかもしれません」
劇中では、ある人物が蒸発という出来事を乗り越えて帰るシーンも撮影された。
森監督:「帰ることができる人もいました。ただし、浦島太郎みたいに、元通りの現実には戻れません。蒸発から年月が経過した後の現実が待っている。でも、そこからまた新しい人生が始まったんじゃないかと」

世界中で「蒸発」が反響を呼んでいる理由

ラブホに潜むカップル、37年間帰郷しなかった男性… 映画『蒸発』に世界が「他人事でない」と共感した理由

『蒸発』©2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM

日本公開後、上映会場では多くの観客が直接話しかけてくれた、と両監督は言う。親族が蒸発した、自分自身も似た経験をした……そんな個人的な体験を打ち明けてくる声が相次いだ。
ハートマン監督:「実は、海外上映後の反響も日本での反響と似ていました。ある国の映画祭では、上映後の質疑応答で、観客の一人が『自分自身も家族から蒸発した』と涙ながらに告白する場面がありました。実は日本固有の出来事ではなく、世界中で、いろんな人々が蒸発という行為を経験していると気づきました」
森監督:「南半球から北半球まで、どこで上映しても反応はとても似ていて驚きました。
逃げ出したいという衝動は、実はどこの国の人間にも通じる感覚なんだと思います」
逃げることは、弱さではないかもしれない。社会の重圧に押しつぶされそうになりながら、誰にも告げずに姿を消すことを選んだ人々。蒸発とは消えることではなく、新たな自分の人生を見つけることなのかもしれない。
選択を裁くことなく、ただ静かにそれぞれの人生に伴走するようにして映し出したこのドキュメンタリー映画は「人間が生きることの切実さ」を切りとっている。
■映画『蒸発』
下高井戸シネマ(東京都世田谷区、7月3日(金)まで)などで上映中
配給:アギィ ©2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM
■プロフィール
アンドレアス・ハートマン:ベルリンを拠点に活動する映画監督・プロデューサーであり、制作会社OssaFilmの創設者。「コンラート・ヴォルフ」映画・テレビ大学を卒業後、ベルリン芸術大学でマイスターシューラーとして学ぶ。
これまでにTOKAS、ヴィラ鴨川、DAADによるミャンマーおよびベトナムでのレジデンスなど、数多くのアーティスト・イン・レジデンスに参加。ベルリナーレ・タレンツおよびサンダンス・インスティチュートの卒業生。ゲルト・ルーゲ助成を受け、ドイツテレビアワードのグリム賞にノミネートされる。
監督・プロデュース作品は、ヴェネツィア国際映画祭、釜山国際映画祭など、世界各地の国際映画祭で上映されている。長編第3作『自由人』は、第22回釜山国際映画祭にて釜山シネフィルアワードを受賞。
森あらた:ベルリンと東京を拠点に活動する映画監督・映像編集者・アーティスト。
学習院大学日本文学日本語学科、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ美術大学ファインアート科を卒業。新進気鋭の若手映像作家に贈られるヴィム・ヴェンダース奨学金を受賞する。
2021年中国の新シルクロード沿いの都市を舞台にした架空の映像旅行記、実験的ドキュメンタリー作品『ア・ミリオン』を制作。建築写真家ラウリアン・ギニトイウとともに“another:”を共同設立し、ビャルケ・インゲルス、OMA、塩田千春といった建築家やアーティストと映像を通してコラボレーションを行う。ヴェネツィア建築ビエンナーレにも作品を出展。またイランなど危険地帯に赴きNHKスペシャルの難民・運び屋取材を敢行。
WOWOWとIPCの共同プロジェクト、パラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」では、国際エミー賞にノミネートされる。
岩田いく実:損害保険会社、法テラス、一般民事系法律事務所に勤務後、ライターに転身。パラリーガル経験を活かし、年間60人を超える弁護士・税理士を取材。相続や離婚、不動産売却、債務整理、損害保険などのテーマを中心に執筆。第一法規『弁護士のメンタルヘルスケアの心得』で記事執筆、自主出版に『ルポ豊田商事』がある。


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