【作詞家・永六輔さん命日】『上を向いて歩こう』から『黄昏のビギン』まで…聴かれ続ける限り歌は死なない
【作詞家・永六輔さん命日】『上を向いて歩こう』から『黄昏のビギン』まで…聴かれ続ける限り歌は死なない

「人間は二度死ぬ」――永六輔のこの言葉には、肉体の死と人々の記憶から忘れられたとき、2つの意味が込められているが、逆に言うと忘れられなければ二度目の死は訪れないのだ。歌も同じだろう。

永六輔が詞を書き、30年間埋もれていた『黄昏のビギン』がちあきなおみによって蘇ったように、名曲には思わぬ形で息を吹き返す力がある。永六輔さんの命日にその生涯を偲びたい。

忌野清志郎も“献花”

永六輔は常々、「人の死は一度だけではありません」と語っていた。

人は死者と共に生きている。死んだ人たちも、人の記憶の中では生きている。しかし、人は歳月とともに少しずつ、死者のことを忘れていく。

だから時々は亡くなった人の思い出話をすることが必要で、それは供養のひとつだと言っていた。

歌も同じだろう。歌が死ぬのは、誰からも忘れられた時だ。いい歌は時代を越えて生きていく。聴く人も、歌い継ぐ人もいなくなった時、歌は死ぬ。

2016年8月30日に行われた「六輔 永(なが)のお別れの会」には、遺族や生前に親交のあった友人、知人、関係者、そしてラジオのリスナーなどがたくさん参列した。

会場入口には、献花した人たちの名前が掲示されていた。

そこに“忌野清志郎”の名があるのを見て、確かに「みんな生きている」という気持ちになった。

そう、「上を向いて歩こう」が歌い継がれていく限り、これを最初に歌った坂本九の歌声も、次世代に広めた忌野清志郎の歌声も、みんな今でも生きている。

『永六輔の「お話し供養」』(小学館)には、このように書いてある。

最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき。でも、死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続けている。最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき。そう僕は思っています。

『上を向いて歩こう』

20世紀はラジオやテレビといった放送メディアが発展したことや、レコードの製造や再生機の普及などによって、音楽の表現領域とその影響力が大きく拡がった。

そんな時代のパイオニアだったのが、ラジオとテレビの放送作家からスタートし、20代の半ばから30代にかけての10年間、作詞家として活躍した永六輔である。

一貫して市井の生活者の視点を持ち続けた永六輔だったが、才能を発揮し始めたのは中学生の時で、まだ東京が焼け野原だった頃だった。

当時の日本で最も人気のあったNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』に、コントを書いて応募していたハガキが、番組の中心人物で、作詞・作曲を手がける三木鶏郎の目に留まったのだ。

高校生になると、三木が主宰する文芸部にも自由に出入りするようになっていく。そして早稲田大学に入ってからはスタッフとして参加し、たちまちのうちに人気放送作家になっていった。

大学の先輩で、ジャズ界のスターだった中村八大に頼まれた最初の歌作りでは、1959年に第1回日本レコード大賞に輝いた『黒い花びら』と、21世紀になって広く知られるようになった『黄昏のビギン』の原曲が誕生している。

その後は中村八大とのソングライティングによって、『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』『遠くへ行きたい』『帰ろかな』など、それまでの流行歌とは異なるポピュラーソングのヒット曲を誕生させた。

また、三木鶏郎の門下である作曲家のいずみたくとのコンビでも、『見上げてごらん夜の星を』を皮切りに、『いい湯だな』『女ひとり』などを作詞し、現在でも歌い継がれているスタンダード・ソングを数多く残した。

永六輔は日本の音楽史において、日常会話に使われる普通の話し言葉による歌詞で、最初に成功した人である。

当時の作詞家は、日本語の特徴である七五調による文語的な表現から、多かれ少なかれ逃れられないでいた。しかし、永六輔はわかりやすい話し言葉を生かしながらも、「橋」と「箸」のイントネーションの違いなどにも気をつかい、西洋音楽のリズムとメロディに自然な感じでマッチする日本語の歌詞を書いた。

ちあきなおみにカヴァーされた『黄昏のビギン』

1969年を最後に、永六輔が作詞家という肩書を外したのは、自作自演の若い歌手が登場して来る時代を見越していたからだった。それから5年が経って、予想したとおりにシンガー・ソングライターの時代がやって来た。

永六輔は当時、作曲家の中村八大と二人でチャリティーのために「99円コンサート」を開いて、全国行脚することにしていた。それを始めるにあたって中村八大から、これからの社会と時代に向けて、大人のメッセージ・ソングを作ることが提案された。

そこで永六輔は再び、『生きているということは』『生きるものの歌』などの作詞を手がけた。いつかは訪れる死を意識して生を語るという単刀直入な歌が、こうして生まれたのだった。

しかもライヴでの評判が上々だったことから、1974年に40歳にして歌手デビューすることになった。

発売時に東芝EMIが打ち出した宣伝のキャッチコピーは、「五木寛之いわく“まさに説教節! 二十年の歳月をかけて、名人・中村八大が育てあげた手づくりの歌手、永六輔の絶唱!」というものだ。

だが、前評判や気迫が必ずしもヒットと結びつくものではない。6月に発売になった『生きているということは』は、プロモーション活動が熱心に行われたにもかかわらず、残念ながら目標とした数字には届かなかった。

この歌はそれから20数年間、ほとんど忘れられた状態にあったと言ってもいい。ところが2013年の秋になって、NHKの若いディレクターによって発見された。

そして歌にふさわしい声とキャリアを持ったベテラン・シンガーの上條恒彦が、テレビの番組のなかで歌ったところ、視聴者からの反響を受けてCD化されることになった。

永六輔と中村八大のコンビによって作られた数々の歌の中には、『黄昏のビギン』(歌/水原弘)のように、1959年にレコードが発売されてから約30年間も埋もれていたにもかかわらず、ちあきなおみのカヴァーによってあざやかに蘇った名曲もある。

本当に死ぬまでは、どんな歌も生きている。歌を生かすのも殺すのも、聴き手にかかっているのだ。 

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

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