1980年代から90年代にかけ、圧倒的な強さでプロ野球界を席捲した黄金期の西武ライオンズ。常勝軍団を類まれなリーダーシップで牽引したのが石毛宏典だ。

 そもそも石毛は、いつからチームリーダーと呼ばれるようになったのか。その原点を探るべく、名将・広岡達朗が監督に就任したプロ2年目のことを振り返ってもらった。

「西武黄金期」を牽引した石毛宏典が「リーダー」と呼ばれること...の画像はこちら >>

広岡監督が就任したプロ2年目

 プロ1年目に新人王を獲得。さらなる飛躍を目指して臨んだ2年目に、石毛の野球人生最大とも言える転機が訪れる。

「広岡さんが監督に就任したんです。私の身のこなしなどを見て動きが硬いと思ったんでしょう。『お前が石毛か。それでよく新人王が獲れたな』と言われました。そこからですよね、ご指導が始まったのは。野球を長く続けられるように。もっと上手くなれるように。あるいは、他人に指導できる技術を身につけられるように。本当にいろいろなご指導を受けましたし、時には合気道の道場に通うこともありました」

 広岡は思想家・中村天風の『心身統一法』に感銘を受け、野球人生に活用。
石毛にもその神髄を学ばせるため、中村に師事していた藤平光一が運営する合気道の道場に通わせた。藤平は『心身統一合氣道』の創始者でもあった。

「『秋季キャンプに参加しなくていいから、道着を買って合気道を習いに行け』と広岡監督に言われ、同期入団の広橋公寿と一緒に新宿にある道場に通いました。ある意味では特別扱いですよね。本当は野球の練習をして技術を高めなければいけないのに、合気道を通じて身のこなしを覚えてこいということでしたので。

 野球と合気道は関係ないように感じますが、生かせることもありました。合気道では、おへそから指3本分下の位置を『丹田(たんでん)』と呼び、気力が集まる箇所とされています。力を入れることができない箇所なのですが、そこに意識を集中することで身のこなしのバランスがよくなるんです」

まとめ役になることを期待されていた?

 広岡の指導は多岐に渡ったが、本質はシンプルだったという。

「『未熟者は練習すれば上手くなる』というのが広岡監督の考え方です。つまり、『石毛はまだまだ未熟だから、練習をさせなければいけない』ということだったのかなと。正論と言えば正論ですよね。指導を受けた結果、上手くなって成績が上がり、給料が上がる。ほかの選手たちもみんな上手くなっていき、大きな故障をすることがなくなり、長く野球ができるようになるわけです。
レギュラーが故障せず、シーズンを通して試合に出続けるチームは必然的に強くなりますよね」

 広岡が石毛に求めたのは技術のレベルアップにとどまらない。チームリーダーになれる素質があると感じたのか、毎試合前、石毛が皆の前でスピーチする時間を設けていたという。

「試合前にベンチ前で円陣を組み、声出しをやるじゃないですか。昔はベンチ裏でやっていたんです。シートノックが終わった後にベンチ裏へ行き、まずはコーチから作戦に関する指示があり、その後に広岡監督から一言があり、最後に自分がスピーチすることになっていたんです。話をするにしても材料が必要ですし、毎回ネタ探しには苦労していました。

 広岡監督が自分に対してどういう見方をしていたのかはわかりませんが、当時のチーム状況的にまとめ役が必要だったような気がします。田淵幸一さん、山崎裕之さん、大田卓司さん、東尾修さん、土井正博さんらベテランがいましたが、いわば“寄せ集め”のチームでしたからね。

 自分はプロ入りして間もなかったですが、早い段階からショートのレギュラーを張っていたので、今後チームをまとめていく人間を作らなければならないとなった時に白羽の矢が立ったんだと思います。寄せ集められた選手の“接着剤”みたいな役割を求められていたんじゃないですか。一番の看板選手であり、年長者でもあった田淵さんがまとめていた感じもあったのですが、中長期を見据えたチーム作りとなれば、年齢的にも自分がちょうどよかったのかもしれません」

チームリーダーとして常勝軍団を牽引

 広岡の西武監督就任1年目は見事に前期優勝(1982年のパ・リーグは前後期制)を果たし、プレーオフでも後期優勝の日本ハムファイターズに勝利。中日ドラゴンズと相まみえた日本シリーズでも勝利し、西武ライオンズとして初の日本一に輝いた。以降、広岡の指導と石毛の歩みとともに、西武の黄金期が形づくられていく。


「自分がプロ2年目の時にリーグ優勝を経験することができ、日本一にもなれました。3年目(1983年)からパ・リーグは前後期制が廃止され、1シーズン制度へ移行しましたが、その年も優勝し、日本シリーズでは巨人に4勝3敗で勝ちました。4年目(1984年)は阪急が優勝しましたが、5年目(1985年)は再び優勝できました。阪神との日本シリーズでは敗れてしまったんですけどね」

 1986年から指揮を執った森祇晶監督のもとでは、9年間で8度の優勝(6度の日本一)を果たし、石毛自身は計11度の優勝(8度の日本一)を達成している。石毛が西武に在籍した期間が、そのまま西武の黄金期に当てはまる。単に在籍していたわけではない。常に主力として、攻守の要として、そしてチームリーダーとして常勝軍団を牽引した。

「恵まれた野球人生ですよね。オールスターゲームに14年連続で出場させてもらうこともできましたし。自分の成績が悪いシーズンもあったのですが、ファンの方々に『ショートは石毛だろう』みたいな感じで思っていただいていたのかもしれませんしね。本当にありがたいことです」

ショートのレギュラーゆえ、リーダー扱いされた?

 清原和博や工藤公康など、実力と個性を兼ね備えた選手が多いチームを、どのように束ねていったのか。理想のチームリーダー像を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「特にないですね。
自分が30歳を過ぎた頃、世間に“チームリーダー”という言葉が浸透し始めていたんです。当時の例を挙げると、“政界のニューリーダー”などもそれに当たると思いますが。そういった風潮のなか、新聞をはじめとしたメディアで『常勝軍団・西武のチームリーダーは石毛』みたいな言い回しが出るようになったんです。

 ただ、プロはアマチュアではないですし、部活動ではありません。個人事業主の集団ですから、『チームリーダーやキャプテンと呼ばれるのっておかしくないか?』とは常々思っていましたが、世間からは『なんだかんだで、石毛がまとめているよね』みたいな印象を持たれていたのかもしれません。

 自分が西武に入団した頃にチームをまとめていた田淵さん、山崎さんらベテランの野手の方々が引退され、ベテランで残っているのは東尾さんだけになりました。東尾さんはピッチャーなので、ピッチャー陣はまとめていましたが、野手の年長者がいなくなってしまったんです。自分はちょうどその頃にレギュラーとして試合に出続けていましたし、ましてや、内野の要のショートというポジションにいたこともあり、チームリーダーという見方をされていったのかもしれません」

発言には細心の注意を払っていた

 石毛は自身のことをあっけらかんと表現する。クヨクヨすることはほとんどないとする一方、こうも言う。

「もともと“気遣いができるタイプ”だと思っています。先ほども話しましたが、プロは部活動ではないですから、キャプテンとして誰かを一喝して終わりっていうわけにはいかないじゃないですか。ましてや、自分よりだいぶ年上のベテランの選手もいたりするわけで。


 個々が事業主であるプロのチームをまとめるのは難しかったですし、発言には細心の注意を払っていましたね。気遣いできる自分の性格が少なからず活かされていたんじゃないですか。まぁでも、チームリーダーと呼ばれることは、ずっとくすぐったいと思っていましたけどね(笑)」

 名将・広岡とチームリーダー・石毛。2人が同時期に西武へ入ったことは運命だったのか。いずれにせよ、2人の出会いが黄金期の始まりだったことは間違いない。

<取材・文/浜田哲男>

【浜田哲男】
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton
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