イタリア現代史を揺るがせたバチカン銀行のスキャンダルについて2回に分けて書いた。

●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -前編-
●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -後編-

 教皇ヨハネ・パウロ1世は、バチカンがフリーメーソンの秘密組織「P2」に侵食され、バチカン銀行が南米の麻薬取引をはじめとするマフィアビジネスに深く関わっていることを知り、バチカン銀行総裁マルチンクス司教の更迭を決めたが、その直後、1978年9月に在位33日間で謎の死を遂げた。

 アンブロジャーノ銀行の頭取ロベルト・カルヴィは「神の銀行家」と呼ばれ、バチカン銀行との取引を一手に引き受けていたが、銀行は13億ドルの負債を背負って1982年に破綻し、カルヴィはロンドンのテムズ川にかかる橋で首吊り死体で発見された。

 この驚愕すべき事件の後日談を膨大な資料を駆使して描いたのが、イタリアのジャーナリスト、ジャンルイージ・ヌッツィの『バチカン株式会社』(柏書房)だ。

レナート・ダルドッツィが残した4000点の内部資料

 数学・工学・哲学・神学の学位を取得し、企業経営者を経て51歳のときに天職として聖職者の道を選んだレナート・ダルドッツィは、その教養と豊富な社会経験を買われてバチカン銀行の醜聞処理を任されることになる。ダルドッツィは20年間にわたってメモや文書を丹念に整理・保存しており、その量は4000点に及んだ。生前はバチカンの掟に従って沈黙を守りつづけたダルドッツィは、その資料を知人に預け次のような遺言を残した。

「この書類を公表すること。

何が起きたのかをみなが知るように」

 ジャーナリストのジャンルイージ・ヌッツィはこの内部文書を入手し、バチカンのもっとも奥深い秘密を暴いた。

 このことについて述べる前に、イタリアという国の特殊な事情をかんたんに説明しておきたい。

 よく知られているように、イタリアは北と南で文化や価値観が大きく異なる。北イタリアは経済が発達した世俗的な社会で、第二次世界大戦後は共産党が勢力を伸ばした。それに対して南イタリアは家族や地域の紐帯をなによりも大切にする伝統的な社会で、ひとびとは保守的で敬虔なカトリック教徒だ。そこはまた反社会的組織コーザ・ノストラ(マフィア)が支配する土地でもあった。

 イタリアの現代政治は、右派・中道派のキリスト教民主党と左派の共産党を軸に合従連衡を繰り返してきた。共産党に北イタリアを制圧された右派勢力は、必然的に南イタリアに活路を求めざるを得なくなる。このようにして右派(キリスト教民主党)の政治家とコーザ・ノストラが癒着し、そこにイタリアの共産化を阻止したいバチカンやアメリカのCIAがからむ「謀略の構図」が出来上がったのだ。

 教皇が不審な死を遂げ、疑惑を追及する司法関係者が次々と暗殺されると、バチカンはこれまで経験したことのない批判に晒された。それに加えてバチカンを悩ませたのが、アンブロジャーノ銀行の13億ドルにのぼる負債の責任追及だった。銀行などの債権者は、アンブロジャーノ銀行とバチカン銀行は一心同体だとしてバチカンに弁済を求めたのだ。

 このときバチカンは、責任を認めて賠償に応じることもできないが、だからといって拒絶して裁判に持ち込むわけにもいかないという困難な立場に置かれることになる。この紛争はけっきょく、バチカンには法的責任はないものの「道義的責任」をとって2億4200万ドルを支払うことで和解に漕ぎつけた。

 だがこれは問題の解決ではなく、バチカンが置かれた状況をさらに複雑なものにしただけだった。

 バチカンと債権者との政治決着に尽力したのは、キリスト教民主党の実力者ジュリオ・アンドレオッティだった。アンドレオッティは1972年から1992年のあいだに3回、合計7期にわたって首相を勤めた大物政治家だが、反共右翼としてマフィアやCIAとの関係が常に噂されていた。

 とりわけアンドレオッティが、シチリアマフィアの大ボス、サルヴァトーレ・リイナと抱擁しキスを交わしたことを、その場に立ち会っていたリイナの運転手が裁判で証言したことがイタリアじゅうを震撼させた。

頬へのキスは日本のヤクザが杯を交わすのと同じで、首相と山口組組長が兄弟分だったというのと同じ話だからだ。

 アンドレオッティはこのスキャンダルで(イタリアでは政治家の最高の名誉職とされる)大統領を諦めざるを得なかったが、その後の検察による数々の訴追を無傷で切り抜け「魔王」と呼ばれることになる(この経緯は2008年カンヌ映画祭で審査員賞を受賞した『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』に描かれている)。

 フリーメーソンの秘密結社「P2」会員で「法王暗殺」に関わったとされるマルチンクス司教の後を継いでバチカン銀行総裁となったドナート・デ・ボニスは、バチカンの恩人であるアンドレオッティとその関係者のためにさまざまな便宜を図った。ダルドッツィの残した膨大な内部文書は、その深い闇を暴こうとした苦闘を伝えている。

「スペルマン枢機卿基金」の存在

 1992年、ミラノ検察庁は市立養護老人施設の汚職を糸口にイタリアの政官業とマフィアの癒着を一掃すべく、首相経験者や国会議員を含む大規模な捜査を開始した。「マーニ・プリーテ(清廉な手)」と呼ばれるこの捜査の過程で、国営企業の民営化にからむ巨額の贈賄事件が浮かびあがった。

 大手財閥の一族で、その型破りな行動から「ラヴェンナの海賊」と呼ばれたラウル・ガルディーニは、国営企業ENIと合弁会社を設立して互いに40%の株式を保有する取り決めを結んだ。残りの20%の株式は市場に放出されたが、ガルディーニはこの公開株式を買い集めて合弁会社の支配を画策する。この動きに対してENIが激しく反発し、政治問題化したのだ。

 当時首相だったジュリオ・アンドレオッティはこの紛争を収めるため、ひとつの提案をした。それはガルディーニに、合弁企業のすべての株式を買い取るか、それとも経営から撤退するかを選ばせるというものだった。

 ガルディーニは保有する株式を売却することを選択し、この取引によって2兆8050億リラ(約3000億円)という巨額の支払を受けることになった。

これはいうまでもなく法外に有利な取引だが、それを納得させるためにガルディーニは、共産党を除くイタリア主要政党の有力者に賄賂を贈らなければならなかった。

 贈賄の資金約150億円は、ローマ出身の新興の不動産業者が用意した。だが問題は、司法当局に気づかれることなくそれをどのように渡すかだった。

 このときガルディーニは、バチカン銀行を利用した巧妙なマネーロンダリングを行なった。不動産業者が裏金でイタリア国債を購入し、それをバチカンに持ち込む。バチカン銀行総裁のデ・ボニスは国債を受け取ったうえで、バチカンが購入した他の国債と差し替えて資金洗浄し、それを換金して政治家たちが指定する口座に送金したのだ。

 だがこの取引は、検察の取調べを受けた不動産業者が国債の番号を提供したため、バチカンを窮地に追い込むことになる。イタリアの検察からの調査依頼に対し、持ち込まれた国債がどのように処理されたのかを回答しなければならなくなったのだ。

 バチカンは1929年のラテラノ条約によって「主権」を認められているから、他国からの司法共助要請を拒絶することも理屈のうえでは可能だ。だが当時のイタリアは、マフィアと対決していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が家族もろとも高速道路上で爆殺されるとういう衝撃的な事件の直後で、世論やマスメディアはバチカンの不正な金融取引に厳しい目を向けた。バチカンは沈黙のなかに逃げ込む選択肢を奪われていたのだ。

 ダルドッツィの内部文書は、この時期のバチカンの苦悩を詳細に伝えている。バチカン銀行の闇はあまりにも深く、それをすべて公にすることなどできるはずはなかった。

 バチカンがなんとしても表に出してはならない秘密は、「スペルマン枢機卿基金」の存在だった。

 ダルドッツィが疑惑を抱いたのは、実在の枢機卿の名をとったこの「基金」で巨額の金融取引が行なわれていることだった。それらの不審な取引はすべて、総裁のデ・ボニスが自ら行なっていた。

 スペルマン枢機卿基金の真の所有者はいったい何者なのか。ダルドッツィは口座といっしょに保管されていたデ・ボニスの遺言状を見て愕然とする。そこには次のように書かれていた。

私(デ・ボニス)の死亡時、口座001-3-14774-C(スペルマン枢機卿基金)に残る預金は、ジュリオ・アンドレオッティ閣下がお受取になり、その思慮深いご判断により、慈善事業や援助事業に使われますように。尊い神の名において、感謝いたします。

 バチカン銀行は“魔王”アンドレオッティが政界工作のために集めた裏金を秘匿し、資金洗浄し、賄賂として関係者に送金していたのだ。

教会の「ぜったいに知られてはいけない」秘密

 バチカンとイタリア司法当局の暗闘の詳細は『バチカン株式会社』を読んでいただくとして、ここではほとんど表に出ることのなかったバチカン銀行の実態を紹介しておこう。

 バチカン銀行の主要な顧客は、イタリアを中心とするカトリックの教会や修道会だ。だがなぜ彼らは、地元の銀行ではなくバチカン銀行を利用するのだろうか。

 イタリアでも教会は原則として税金を納める必要はないから、その目的が租税回避でないことは明らかだ。しかしそれでも、彼らは徹底した守秘性を必要としていた。

 カトリックの教会や修道会が切実に求めていたのは、教区の信者や、他の教区の教会関係者に自分たちの財政事情を知られないことだ。有体にいえば、(一部の)教会や修道会は神の名の下に法外な利益を手にしていたのだ。

 こうした資金を地元の銀行に預けておくと、噂となって信者たちに伝わるかもしれない。説明のできない収入は、他の教会の嫉妬や疑念を招くことになるだろう。これこそが彼らにとって、「ぜったいに知られてはならない」秘密だったのだ。

 そのためバチカン銀行は、職員をすべて聖職者にして外部の者をいっさい立ち入らせない徹底した守秘性を敷いた。こうした体質が政治家やマフィアに利用され、数々のスキャンダルの舞台になったのだ。

『バチカン株式会社』では、ダルドッツィの資料に基づいてバチカン銀行の財政状況も明かされている。バチカン市国は決算を正しく公表していないし、バチカン銀行にいたっては「教皇直属の機関」として情報公開の対象になっていないから、これは正真正銘のスクープだ。

 ダルドッツィの資料は若干古いが、1996年の公式の内部調査(非公開)によると、バチカン銀行の総預金額は(当時の相場で)およそ30億ユーロに達していた。それが2008年にはおよそ50億ユーロ、約7000億円になったと推定されている。

 また1994年のプライス・ウォーターハウスによる監査(これももちろん極秘)によれば、バチカン銀行の金庫には1617キロの金塊が保存されており、それ以外に2500億円相当の国債と90億円相当の株券があった。

 こうした預金を、バチカン銀行はカトリック教会や修道会、カトリックの要人やその「友人」に融資し、1993年には運用や投資から約70億円の利益を得ている。それに加えて信者からの献納金約100億円があり、教皇は170億円相当の資金を自由に使うことができた(バカン市国の財政はほとんどの年で赤字だった)。

 内部資料によって明かされた「バチカン銀行の実態」をどう評価すればいいのだろうか。

 預金量7000億円というのは、日本でいうと中堅の信用金庫とほぼ同じだ。「バチカン銀行」の名前からもっと巨大な金融機関を思い描くだろうが、その実態は地方の信金・信組のレベルなのだ。

 全世界のカトリック教徒は10億人といわれるが、そこから教皇への献納金が年間100億円しかないというのも驚きだ。これだと信者1人あたり10円ほどしか教皇に献納していないことになる。

 これは信者の寄付の多くがそれぞれの教区の教会で行なわれ、そこからバチカンに上納する制度になっていないことが理由だろう。バチカンは教会と対抗して信者から献納金を集めなくてはならず、その金額はけっして多くないことがわかる。

 教皇が自由に使える資金は、「これまででもっともよい年」といわれた1993年で約170億円だった。この「収入」は個人としてはけっして少なくはないが、その人物がローマ教皇だとするとやはり意外感はある。ビル・ゲイツをはじめとして、世界には1000億円を超える年間所得を得ている超富裕層はいくらでもいるのだ。

 バチカンはその圧倒的な精神的権威に比べて、財政的にはかなりつましい状況に置かれている。だがこのことは逆に、バチカン銀行がなぜスキャンダルに巻き込まれやすいのかを示しているのではないだろうか。

 特定の信金や信組が「主権」を持ち、資金の完全な秘匿を提供できるならば、誰もがこの「小さな魔法の金融機関」を自分のものにしたいと思うだろう。このようにしてバチカン銀行は、イタリア現代史の波に翻弄されてきたのかもしれない。


<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。