
マモー・ミモーが誕生したのは、1990年〜93年に放映された『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』。
南原が主役のコーナー「ナン魔くん」の中で、悪役キャラだったマモー(内村)とミモー(ちはる)。ユルいかけあいと「ちがーう!」などのギャグがウケて大ブレイク。『マモー・ミモー 野望のテーマ〜情熱の嵐〜』でCDデビューし、千葉マリンスタジアムで行われたイベントには3千人を超える観客が詰めかけた。
マモー・ミモーを生み出した『やるならやらねば!』。『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(戸部田 誠)によれば、内村光良のコント人生における「第1期全盛期」にあたる。

『誰やら』『やるやら』から『ウリナリ』まで
「生放送なら、僕はやりません!」
内村光良は顔色を変えて激昂した。そのまま内村は蹴るようにして席を立ち、その場から去ってしまった。(P.8)
1990年2月。『とんねるずのみなさんのおかげです』が半年間休止することになり、急遽木曜9時の1時間枠を埋めなければならなくなった。白羽の矢が立ったのは『夢で逢えたら』で人気急上昇中のウッチャンナンチャン。しかし生放送と聞いて「話が違う」と内村は怒った。作りこんだものをやりたかったのだ。
そこでスタッフは「収録したVTRを見ながら、生放送でトーク」という折衷案を出した。
しかし、『やるならやらねば!』はスタジオでの不慮の事故により、人気絶頂のまま打ち切りになってしまう。
ウッチャンナンチャンに事故の責任は無いにも関わらず、テレビ出演は激減。以後『ウンナン世界征服宣言』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!』など、ドキュメンタリー系の体を張った仕事もこなすようになる。

『笑う犬』『内P』『気分は上々』
「コントをやりたい!」と番組の打ち上げで叫んでいた内村。「第2期全盛期」が訪れるのは、5年後の1998年10月。『笑う犬の生活』だ。
内村たっての希望で「YARANEVA!!」の副題がつけられた笑う犬は、「ミル姉さん」「てるとたいぞう」「小須田部長」などの名物キャラを生み出した。同時期には『内村プロデュース』『気分は上々』『ホントコ!』と人気番組が並ぶ。まさに全盛期にふさわしいラインナップだ。
『コントに捧げた内村光良の怒り』は、当事者へのインタビューを行わない。
デビューから「第1期全盛期」は内村本人の言葉が多く出てくるが、「第2期全盛期」になると後輩芸人たちの言葉が増えてくる。
田村淳は「なんでも受け入れてくれる」
ふかわりょうは「太陽みたいな方」
品川祐は「陽だまりのおばあちゃん」
オードリー若林は「さんまさんが極真空手なら内村さんは合気道」
事務所の垣根を越えて愛される内村への声を、丁寧に拾って紹介していく。
特定のファミリーを作るわけではないのに、内村を中心とした輪が広がっていくのがわかるのだ。
「コント冬の時代」から『LIFE!』へ
2003年に『笑う犬の太陽』が、2005年に『内村プロデュース』が終了。予算も時間もかかるコントは敬遠され始め、「コント冬の時代」に突入。内村も『世界の果てまでイッテQ!』『爆笑レッドシアター』『イロモネア』など司会業がメインとなった。
その当時、内村はこんな風に心境を語っている。
「でもオレはやっぱりお笑いが好きなので、半年なり経てまた『お笑いをやりたい』という飢餓感が出てくると思う。その欲求が果たしてどういう方向へ向かうのか、それは自分でも楽しみにしているところではあるんです」(P.179)
そして、内村が48歳のとき「コント冬の時代を打破できるのは内村さんだけ」とNHKからオファーがくる。2012年『LIFE! 〜人生に捧げるコント〜』がスタート。内村光良の「第3期全盛期」が幕を開ける。
いつしか内村が醸し出す”哀愁”が武器になった。
「今、この年になったからこそ、その味わいが表現できるようになったと思うんです。そういう意味では、これから50代、60代と年齢を重ねていくと新たなキャラクターが生まれるんじゃないかと思っていて。この先、それがすごく楽しみですね」(P184-185)
『LIFE!』でも「NHKなんで」「恋のチムニー」「まっすぐ彦介」などキャラクターコントを量産。マモー・ミモーが復活するのも名物キャラ「宇宙人総理」のコント内だ。
20代で生み出したマモー・ミモーを、50代で再び自らのコント番組で復活させる。こんなに大きな喜びはないだろう。
今夜の『LIFE!』で、ふたたび日本中を恐怖と笑いのズンドコに突き落としてほしい。
(井上マサキ)