ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編に続いて批評誌『ゲンロン』1号について語り合います。


ジャンル批評の歴史が軽視されている?


「無敵の立場」でつくられている『ゲンロン』1

飯田 たとえば別の仕方で歴史に対して線を引く、の例をあげてみましょうか。この「現代日本の批評」には1975年から89年までの「批評史年表」が付録についています。しかし、ここにはミステリやSF、あるいは現代詩などの評論書はほとんどクレジットされていません。つまりこの人たちにとっての「批評」にはジャンル小説や詩の批評は含まれない。
 僕はそれらを入れないと90年代以降の文化、「現在」が非常に語りにくくなると思いますが、彼らは思っていない。重要な仕事ではないとみなしているということですよね。

藤田 年表の作成は大澤聡さんですね。
東さんが、座談会の中で、中島梓などのジャンル小説の批評家や、SF作家への言及を積極的に行っていましたね。

飯田 でもたとえば笠井潔の本はミステリ小説『バイバイ、エンジェル』や思想書『テロルの現象学』など何冊か入っているのに、SF評論の『機械じかけの夢』はわざわざ外されている。
こういう取捨選択が『ゲンロン』の考える「批評」像をかたちづくっているし、そうした選別は意図的なものとして読まざるをえない。
 SF関係では「SFアドベンチャー」や「SF宝石」創刊はクレジットされているのに、SF批評史的にはどう考えてもそれらより重要な第二期「奇想天外」、あるいは「日本版スターログ」創刊についてはスルー。「幻想文学」創刊は入っているのに、90年代にいわゆる「冬の時代論争」の引き金になる(その話はすると長いのでググってください)など、ミステリやSF小説の受容/業界内の空気形成に大きな影響を与えたと言える「本の雑誌」創刊を入れない。78年の「スター・ウォーズ」日本公開と86年のウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(サイバーパンクの代名詞)翻訳刊行も入れない。

 ミステリも都筑道夫の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』も北上次郎の『冒険小説の時代』もない、実作で言えば数ある日本産冒険小説もなければ新本格ミステリの嚆矢である綾辻行人『十角館の殺人』もない。「幻影城」創刊は入っているのに……。
「あれが入ってない」とだけ言うのは不毛だし、紙幅に限界がある以上、入れられない情報の方が多い。だけどその制限がある中に何を入れるかで、「ものの見方」が決まる。

藤田 別種の歴史を語る必要がある気がします。例えば、ぼくは、現在だったら、『メタルギアソリッド』を語ることが、世界を語ることになりうる、という立場で論を書くかもしれない。


飯田 僕は僕で、ある時期から純文学や思想に対する興味を失っているので当然「批評」観に偏りはあるんですが、歴史の見方や批評のスタイルに唯一絶対の正解はないので、たくさんの人がそれぞれに見立てを用意するのが健全だし、おもしろいんじゃないでしょうか。
この座談会では「批評空間」一派による吉本隆明の不当な評価を退けるとか(しかし現代詩では重要な著作とされている『戦後詩史論』を年表では外しているのは、これまた「現代詩の批評」は「批評」ではないとみなす意図があるとしか読めない)、「江藤淳はネトウヨとロジックが同じやばいやつ」扱いをするとか、意義もあれば挑戦もある仕事であることは間違いない。読むか読まないかで言ったら評論に興味あるひとは読んだほうがいい本です。その意義は十二分に理解した上で言っています。

平成は「平成的」でいい


藤田 江藤淳の『閉された言論空間』が今のネトウヨと同じロジックと言うのは、ぼくもそう思いますw 換骨奪胎されて、最良の部分とか文脈を抜き取られていますが。
で、具体的に座談会の議論の中身に踏み込みますが、現在を「大正」「昭和」の反復として語るという議論の枠組み自体に、疑問があるわけです。「平成が大正の反復になっている」とか、「「昭和的なもの」が再来しつつ、同時に「大正的なもの」が持続する」みたいな物言い。

 ぼくも、現在が歴史の中で反復されてきた流れを再演している部分があるとは思うんですが、周期説とか反復の論は、それが語られること自体で反復を実現させてしまうと思うのですよ。現在は、「大正的」でもなく「昭和的」でもなく、「平成的」でいいのではないかと思うんですよ。
 もう少し具体的に言うと、1930年代の「プロレタリア文化運動→文芸復興→日本帝国主義の膨張」と、1980年代の「新左翼運動→ニューアカ→ポストモダンの左旋回」を重ねて語り、どうも、ゼロ年代の「ゼロアカ」や自身の「ゼロ年代批評」を三度目の反復にしようとしている節がある。
 ……本当に、それでいいのか。そう「反復」として語ることで、何かを実現させてしまう機能に警戒は必要ではないかとぼくは思うのです。

飯田 『スター・ウォーズ エピソード7』を実践したいんだよ!w
個々の論者に対する限界の指摘はうなずくところも多いけれども、それらをトータルして主張をまとめようとすると像をむすばない感じがある。
たとえば創刊の辞で東浩紀は「サブカル評論終わったよね、アニメとかアイドルとか語ってる場合じゃないもんね」と言いつつ「安保どうのとか言ってるやつらもうぜえ、俺は一歩引くぜ」って言っていて、それだけでもうわかりにくくないですか?

藤田 創刊の辞の「現実と関係しているようで関係していない。あるいは、現実と関係していないようで関係している」という箇所ですよね。

飯田 行動を求められるのはイヤです、サブカル評論はもう違う、でも批評には軽薄さが必要だ、なのにサブカル評論やジャンル小説評論は年表から排除しまーす。……このスタンスを理解しろ、これこそが「批評」です、というのは、よほどのファンじゃないと厳しくないですかね? 東さんは大塚英志のアイロニーはもう通用しないよみたいな批判をするけど、東さんのアンビバレントな態度も正直ぼくはよくわからない。

藤田 大塚さんに対しては「資本主義に食い込むことで内破する」みたいな80年代に流行ったアイロニーの振る舞いが無効だ、みたいな話でしたっけ。しかしいまの資本家は資本主義に対する罪悪感がないから無効になった、という説ですね。
ぼくもそこは、疑問に思った。
東浩紀のロジックは、現実といったん距離をとる、しかし、それが現実と関係する、というものですよね。それは、「現実に触れろ!」とも言えるし、「現実に触れ過ぎている!」とも言える、無敵の立場ですよね。これがデリダ由来の「脱構築」の応用なのだと思いますが、それが、他者より優位に立つメタポジションを確保するための技術となっているように見えても仕方がないかもしれませんね。

飯田 「AかBかじゃない、バランスの問題だ」と言われれば「そりゃそうだ」という話なんだけど。

藤田 この「現実」と距離を置くことで「現実」と接するとか、閉じることで逆説的に開かれるというのロジックを使うなら、批判されている柄谷行人だって、肯定できるんですよ。彼は、狭い関心に閉じているがゆえに、開かれている。こういう逆説を使えば、いくらでも恣意的に批難することが可能なんですよね。
 もちろん、「どっちでもない立場」というのを提示し続けることの意義は充分に理解します。それにも成功しているとは思いますし、「結論がどっちになるのかわからない」からこそ、綱渡りを見ているようなスリリングな魅力が文章に宿り、転移力を高めていることも確かであると認めます。 
 しかし、それは「矛盾」を許容する「アイロニー」とどう違うのかがわからない。ゼロ年代と、ニューアカの時代と、30年代を重ねるというのは、30年代に流行した日本浪曼派の「アイロニー」と、東さんの現在行っている「脱構築」を重ねることになりませんか。
 そうすると、次の段階に待っているのは、ファシズムですよ。

別種の批評の歴史と見取り図を作る


飯田 それはそれでロジックが飛躍しているw
ともあれ、この座談会の評価は、予告されている全3回(三冊分)やりきってから定まるような気がします。たとえばこの第一回の年表で菊地秀行に一行も触れていなかったのに、2000年代以降の話で突然虚淵玄やTYPE-MOONや『灼眼のシャナ』をはじめとするラノベの話をされたらずっこける(『ブギーポップは笑わない』にだって影響がある)。あるいはここで新本格についてまったく触れていないのに、ゼロ年代批評を担ったといえるゼロアカ道場に至る話(『ファウスト』創刊とか)をすることが可能なのだろうか? 「ゼロ年代批評は歴史の話をしないからダメ」とか言っといてそういうことすんの? みたいなことにならないといいなと願っています。
 もちろん、この時期のエンタメ批評側にも怠慢はある。たとえば一冊もまともな菊地秀行論もなければ夢枕獏論も栗本薫論も田中芳樹論もない(あっても「ガイドブック」「ファンブック」しかない)。そりゃあ、この時期とそれ以降のサブカルチャー/ジャンル小説の影響関係についての見通しが悪くなる。何かがブームになったら、その渦中か、それが終わったくらいで総括する批評を書籍のかたちにまとめておかないと、あとになってからではその価値も見方も、与えた影響もわからなくなる。
 そういう意味で、たとえば北上次郎が80年代に精力的に行っていた冒険小説評論は、月村了衛・小島秀夫・広江礼威等々、いま活躍している作家を語る上で重要な線引きになる。80年代の冒険小説ブームのあと、冒険小説/活劇的なものがどうサブカル方面へ広がったのかを北上さんはフォローできてないけど、それは下の世代がやればいい。僕はいくつか書いた虚淵玄論や伊藤計劃論では、そういう仕事をしているつもりです。

藤田 ……しかし、繰り返しますが、現代の文化や作品をこんなに無視した「現代批評」というのは、さみしいですね(佐々木敦さんは、最後の方で現代の音楽に触れていますが、どちらかというと否定的です)。それは、本当に作品のせいなのだろうか。批評の方法論を開発していないからではないか。それか、理論装置やパースペクティヴを作るのをサボっているせいかもしれないですね。……割と、現代の文化、面白いと思うんですけどねぇ。