大正時代、ノリノリの大宴会
上が集合写真(<a href=https://image.excite.co.jp/feed/news/extnews_meijibig.jpg target=blank>拡大</a>)。(曽祖父は前列右から2番目、徳利持って寝転んでます・・・)、下2枚は特に表情が日本人離れしているお二人の拡大写真
この写真は、私の母方の曽祖父が持っていたもので、同僚たちとの大宴会、という他愛もないショット。もうみんなノリノリで、表情なんか(ついでに顔も)日本人離れしている気がする。
 

 この外国人風のノリを見ていて、つい考えるのは「この人たちは本当に外国人にジェスチャーを仕込まれたのでは?」ということだ。というのも、曽祖父の職業は軍医で、おそらくこの写真が撮られたのは第一次大戦後、松山のドイツ人俘虜収容所に勤務していたときではないかと思われるからだ。

 祖母によると、曽祖父はドイツ人たちと随分仲良く交際していて、彼らが祖国に帰ってからも長いことエアメールで近況を知らせあっていたそうだ。日常、ドイツ人たちと触れ合っている日本人たちだと思えば、このファンキーな表情にも納得がいく。
 
 ちなみに、日本人の捕虜の扱いについては、とかく第二次大戦時のひどい話ばかりが伝わってくるが、第一次大戦後は(特に徳島の板東俘虜収容所が代表的だが)、日本人にも「武士道が生き残っていた」(関川夏央 「俘虜たちの合唱」『「ただの人」の人生』所収 より)などの理由から、捕虜たちはかなりの厚遇を受け、日本人とドイツ人たちの奇跡のような心温まる交流が実現していたらしい。
 捕虜だったカール・ユーハイムが洋菓子製造をしたり(そう、後に巨大洋菓子チェーンに発展したのは周知のとおり)、ゴム加工技術者が日本の会社に引き抜かれたり(その会社が後にブリジストンとなる)、日本で最初の第九が演奏されたり、ワンダーフォーゲルやボーリングなどのスポーツが輸入されたりと、技術・文化交流もさかんに行われていた。
 
 第一次世界大戦なんて、さすがに自分とは関係がないように思っていたが、こうしてアルバムの写真を眺めていると、自分も確かに、歴史に関わって存在しているのだ、と思う。(みと)

(第一大戦後のドイツ人俘虜収容所関連リンク)
・板東俘虜収容所 残っていたバラッケ(おはよう徳島)
・ドイツ人俘虜が生み出した文化・芸術の軌跡(鳴門市ドイツ館)
・第一次世界大戦ドイツ人俘虜収容所のこと(元ドイツ語学文学振興会理事 神品 芳夫)
・日独戦争とドイツ人俘虜(高知大学学術研究報告 瀬戸武彦)
・板東収容所捕虜パウル・クライについてのノート(岡山・松尾 展成)
・松江豊寿所長 収容所日誌(鳴門市)
・クリスティアン・フォーゲルフェンガーの日記(ディルク・ファン・デア・ラーン、小阪 清行 共訳)
・捕虜とケーキとサッカーと第九(月刊グラン2001年12月号No.93)

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