ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム「報道部畑中デスクの独り言」(第412回)

混沌から飛躍へ……、80年代を前にした1979年

前回の小欄でスズキの元会長、鈴木修さんの「お別れの会」についてお伝えしました。会場には修さんの社長就任後初めてのヒット車となった軽商用車の「アルト」が祭壇わきのコーナーに置かれていました。

初代アルト、衝撃の軽自動車が出たあのころの画像はこちら >>

鈴木修さん「お別れの会」で置かれていた初代アルト

初代アルトが出たのは1979年、政治の世界では首班指名をめぐり、自民党内で主流派と非主流派の間で骨肉の争い繰り広げた、いわゆる「四十日抗争」が喧しい年でした。

詳細について小欄では控えますが、このニュースを振り返る時、ハマコーの愛称で親しまれた浜田幸一議員が「かわいい子供たちのために自民党があるっちゅうことを忘れるな! お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」と啖呵を切るシーンが必ずと言っていいほど、放映されます。そのほか、第二次オイルショック、ソ連のアフガニスタン侵攻……、80年代を前に、世の中に混沌とした空気があったことは否めません。

さて、クルマの世界はどうだったか。当時、少年だった私独自の視点ですが、スーパーカーブームが終焉し、日本車が注目され始めていました。厳しい排出ガス規制を各社乗り越え、自動車雑誌はやれゼロヨンがどうの、最高速がどうのと走行性能を再び競うような論調が目立ち、私もそれに乗っかり、一喜一憂していました。

新型車も続々と発表されました。トヨタ自動車からはカローラ、スプリンター、クラウン、日産自動車はシルビア、セドリック、グロリア、ブルーバード、三菱自動車からランサー、ホンダはシビック、富士重工業(現・SUBARU)からスバル・レオーネが相次いでフルモデルチェンジしました。

広告攻勢も激しく、排出ガス規制の中、いすゞ自動車とともにツインカムエンジンを絶やさなかったトヨタはセリカのCMで「名ばかりのGT達は道を開ける」などと謳い、ライバルを暗に挑発しました。これに対し、“ライバル”の日産はターボチャージャーを搭載した車種を投入します。「エンジンの効率を高めた燃費対策」と運輸省(現・国土交通省)を“説得”して、この年の暮れ、高級車のセドリック、グロリアにターボを装着。

これを皮切りに、翌年にはブルーバード、スカイラインへと展開しました。特に「名ばかりのGT」とされたスカイラインは「今スカイラインを追うものは誰か」というコピーで対抗しました。

新型車が発表されると、翌日の新聞で全面広告が掲載されるのは当たり前。週末には「発表展示会」と称し、メーカーのみならず、ディーラーの広告が紙面を埋め尽くすこともしばしばでした。

初代アルト、衝撃の軽自動車が出たあのころ
当時でもシンプルそのもののアルトの室内 展示車にはオプションのラジオがついていた

当時でもシンプルそのもののアルトの室内 展示車にはオプションのラジオがついていた

苦境の中から放たれた“起死回生”の一台

一方、軽自動車もある種の過渡期に入っていました。パワー競争で疲弊した後、排気量などの規格改定、排出ガス対策……、特に対応が後手に回ったスズキ(当時は鈴木自動車工業)の経営は思わしくなく、初代アルトはまさに起死回生の新車投入だったわけです。47万円という価格、地域によって価格が違うのが当たり前の時代に全国統一価格というのも異例でした。CMでヘリコプターにビルの屋上に運ばれた赤いアルト、高層ビルの壁面には「アルト47」の電光表示、どれもが衝撃的だったことを思い出します。

私の実家の近くにはスズキの業販店があり、セルボとともにアルトが前面に置かれていました。クルマの内容は、ラジオなし(オプション)、センターコンソールがなく、床から直接伸びるシフトレバー、ビニールレザーのシート、一部鉄板むき出しのドアトリム、サスペンションはFF(前エンジン・前輪駆動)でありながら後輪リーフリジッド(当時、FF車は少なく、四輪独立懸架を売りにするクルマが多かった)と簡素そのもの。走行性能や豪華さを競うクルマが次から次へと出てくる中で、何この“ぼろっちいクルマ”と、失礼ながら子供心に思ったものでした。

初代アルトは工程や部品点数は最小限にされ、徹底したコスト削減が図られます。開発中、削減目標が厳しい時、当時の修社長は「それならエンジンを取ったらどうだ」と進言したといわれています(「鈴木修語録」から)。さらに当時、物品税がかからず、排出ガス規制の緩やかな「商用車」というカテゴリーに目を付けました。ハードだけでなく税制や規制の面からも様々なアイデアを盛り込んだこのクルマは売れに売れます。

月間販売目標5000台を優に超え、発売当初は1万8000台の受注があったと言います。

他社も追随し、ミラ・クオーレ(ダイハツ工業)、ミニカ・エコノ(三菱自動車)、ファミリーレックス(富士重工業)などで対抗しました。軽のボンネットバン(軽ボンバン)は一大カテゴリーに成長、軽自動車市場の景色を一変させました。初代アルトは昨年、特定非営利活動法人自動車殿堂から「今日の軽自動車の地位を確かなものにした歴史的名車」として、「歴史遺産車」に選定されました。

初代アルト、衝撃の軽自動車が出たあのころ
「それならエンジンを取ったらどうだ」 鈴木修語録から

「それならエンジンを取ったらどうだ」鈴木修語録から

初代アルトがもたらしたものとは?

現在、軽自動車は国内で4割近くのシェアを占めていますが、振り返ると、初代アルトは「必要にして十分」「シンプル・イズ・ベスト」という価値が改めて認められたクルマだと思います。それは「あれもついてます」「これもついてます」といった風潮に対するアンチテーゼにも見えました。

軽自動車には私も出張取材でレンタカーを運転することがありますが、一般道を走る限り、「これ以上何が必要か」と思わせます。こうした魅力の嚆矢はおそらく1958年発売の「スバル360」ではないかと思いますが、初代アルトは20年以上を経て、そうした原点を再構築したものだったと言えるでしょう。

初代アルトの発売から46年、自動車業界は「100年に一度の大変革」と言われ、電動化、知能化が必須のように言われています。また、安全・環境性能も日進月歩です。軽自動車も例外でなく、そんな影響もあり、軽の中には200万円を超えるものもあります。もちろん、技術の進歩も重要ですが、クルマの原点、本質とは何なのか、初代アルトを見ると改めて考えさせられます。

本質を突いたものこそ心に響く……、どんなに技術が進歩しようとも変わらない真理なのだと思います。

(了)

編集部おすすめ