◆天使の取り分
ワインを樽で熟成できるのは最大限二年、あとはビンに移してねかせる。ワインから蒸溜したコニャックは樽のなかでしか熟成しない。
木材を通して呼吸するのだから蒸発をさけられない。年に二~四パーセントずつ減っていくこの熟成中の蒸発がコニャック作りの大きなネックらしい。目減りも大変な量だが、気化には当然アルコール分も含まれるわけで、常に火災の危険もある。それに備えてもちろん保険が二重三重にかけられている。
コニャック作りにはピュアモルト・ウイスキー作りの六倍も費用がかかる。
観光客としてコニャックの醸造元に立ち寄るだけでは知ることのできないそうした内情、コニャック作りの詳細を、ユベール・モンテイエのミステリー『死にいたる芳香』は、保険会社の慧眼な調査員を案内役にして、あまさず教えてくれる。
スイスの保険会社の調査員、ペーターは、休暇中のパリで知りあった美食評論家のサルティーヌと食事中に異様な死を目の前にする。
ドリュモン社では、そのコニャックを「フランス革命二百年記念ブレンド」と銘打って大々的に売りだす予定で、すでに二百八十本は世界中の要人、懇意に配るために出荷ずみ。サッチャー夫人がサルティーヌみたいなていたらくになったら、いったいどうなるか。
配送差し止めの手配だけは早速なされてひと安心だが、件(くだん)のブレンドのサンプルを念のために口にした酒倉の責任者はきっぱりと言う。
「非の打ちどころがありません。
毒物は酒倉でビン詰めにする段階でしか入れようがないとわかるだけで、ペーターの探索は頓挫する。犯人と目星をつけた何人かも美食に目がないだけで、犯罪には走りそうにない。
作者は、フランスでは名うての美食家で通っているらしい。この小説も、美食・美酒談義がすぎて、その間に犯人が高飛びしそうで、犯人捜しをあてこんで読んでゆくと、もどかしい思いにつかまることになりかねない。しかし、冒頭でれっきとした殺人事件を起こしているわけだから、とにかく犯人捜しはまがりなりにも続けられる。
小説の原題は、『天使の取り分』というのだそうだ。もともとはコニャックが醸成中に蒸発する分のことで、普通には、何かをかすめとるときに、「これは天使の分」というふうに使う。誰が何をどこからかすめとるのか、最後にならないとわからない。わかってニヤリとする楽しみもある。
【この書評が収録されている書籍】
![コニャック作りの詳細をあまさず教えてくれるミステリー](http://imgc.eximg.jp/i=https%253A%252F%252Fs.eximg.jp%252Fexnews%252Ffeed%252FAllReview%252F6c%252FAllReview_00005312%252FAllReview_00005312_2.jpg,quality=70,type=jpg)
【書き手】
辻原 登
1945年和歌山県生まれ。1990年「村の名前」で芥川龍之介賞、1999年『翔べ麒麟』で読売文学賞、2000年『遊動亭円木』で谷崎潤一郎賞、2005年『枯葉の中の青い炎』で川端康成文学賞、2011年『闇の奥』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。地の作品に『許されざる者』、『韃靼の馬』、『冬の旅』、『寂しい丘で狩りをする』など。
【初出メディア】
サンデー毎日 1996年6月12日号~1997年12月14日号
【書誌情報】
死にいたる芳香著者:ユベール・モンティエ
出版社:早川書房
装丁:単行本(282ページ)
発売日:1992-12-01
ISBN-10:4152077700
ISBN-13:978-4152077707