今年創立75周年を迎えたHonda。その長い歴史には、数多くの名車が世に送り出されました。

なお、ホンダコレクションホールはリニューアルのため12月4日に一度閉館します。リニューアルオープンは2024年春頃を予定しており、展示内容も大きく変わるとのことで、閉館前に訪れることにしました。
◆クルマから芝刈り機まで展示のコレクションホール
「Hondaのみんなが何を考えてつくってきたか。みんなのつくったものを皆さんにお見せすればいい。こんな正直なHondaはどこにもないぞ」。創業者の本田宗一郎さんの、そんな一言でホンダコレクションホールは誕生したと言われています。そこには2輪、4輪のみならず、芝刈り機や発電機といった75年の間に生み出されたプロダクトがズラリと展示されています。

入館料は無料。ですが別途、モビリティリゾートもてぎの入場料や駐車場料が必要になります。営業日と時間は日によって変わりますので、今すぐに、もしくはリニューアル後行く場合はあらかじめホームページで確認されることをオススメします。


入館すると「夢」と書かれた大きなガラスのモニュメントがお出迎え。これは創業者である本田宗一郎さんの直筆なのだとか。
ちなみに本書が出版された2001年から、Hondaは自社のグローバルスローガンに「The Power of Dreams」を採用しています。その後ろには、Hondaを代表する4台の車両が展示されており、これらが夢を追い求めて生まれたモデルであることを示唆しています。

まずはRA300。1967年のF1世界選手権に参戦したマシンで、Honda F1に2勝目をもたらしたマシンとして知られています。上の写真の14号車は動態保存されており、今でもイベントなどで動かすことがあります。

次に1963年に発表したHonda初の普通乗用車S500。当時の量産車では世界的に見ても希有なDOHCエンジンで、4気筒の各気筒に1個のCVキャブレターをおごり、等長エキゾーストマニホールドの採用、アルミ製エンジンブロック、クランクシャフトの支持を、高回転対応のために高価なニードルローラーベアリングに。世界の2輪レースで培った技術を投入した傑作の1台です。

1960年に誕生したRC143は、Hondaにとっての世界選手権初勝利ともなる記念すべきモデルです。前年の1959年マン島TTレースにRC142により初出場を果たしたHondaは、エンジンの最高出力を23馬力にアップ。

そして、Hondaのバイクを語る上で忘れてはならないモデルが、1958年に誕生したスーパーカブC100でしょう。高い耐久性と十分な動力性能、そして扱いやすさと相まってすぐにベストセラーになりました。そして、60年以上経った今も販売が続いており、世界最多量産のオートバイシリーズという不動の金字塔を打ち立てました。
◆仮面ライダーとのコラボモデルも展示




施設内では、定期的に企画展やイベントが行なわれています。取材時は映画「シン・仮面ライダー」で使われたバイク(劇中車)が展示されていました。どれも原型がわからないほどのモディファイっぷり。ちなみに変形前はCB250R、変形後はCB650Rと排気量が変わるんですね。
◆Hondaの歴史が順を追ってわかる構成
館内は入って上手(右側)が二輪、下手(左側)が四輪と分けられており、2階は量販車、3階はレーシングカーというフロアー構成。そして1階は上手に本田宗一郎さんと共同創業者の藤澤武夫さんの足跡、下手がミュージアムショップとなっています。

まずは1階のHondaが誕生する歴史とその足跡の紹介について。本田宗一郎さんは1906年(明治39年)に浜松市にて鍛冶屋の長男として生を受けます。小学生の頃に自動車や飛行機を目にし、高等小学校(現在でいう中学校)卒業後に、東京のアート商会に入社。

1924年、「第5回自動車競走大会」への参戦車両「カーチス号」(正しくはアート・カーチス号)の制作に携わりました。カーチス号は1936年まで複数回優勝。本田宗一郎さんは制作を契機に「レーサー造りは病みつきになってしまった」と懐古されています。
1928年、のれん分けという形でアート商会浜松支店を開業。自動車修理工場事業は順調に拡大するとともに、生涯の伴侶となる「さち」さんとご結婚(1935年)。本田宗一郎さんは公私にわたって充実した日々を過ごされるようになります。

そして1947年。旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンと出会った本田宗一郎さんは、買い出しのため遠くへ行く妻を思い、自転車の補助動力にすることを発案。約500基あったエンジンを、自転車用補助エンジンにつくり変えて売り出しました。あっという間に売り切ってしまい、本田宗一郎さんはHonda A型エンジンを開発しました。そして1948年に浜松市内に従業員34人、資本金100万円で本田技研工業株式会社を創立しました。

1948年には、初となる本格二輪車「ドリームD型」を発表。当時のバイクは鋼管フレームが主流でしたが、ドリームD型は量産性の高いプレス鋼板のチャネルフレームを採用。さらにクラッチ操作を必要としない2速トランスミッションを開発。多くの人の注目を集めました。この頃から「夢=ドリーム」の名を使われていたのですね。

1958年にはスーパーカブを発売。自動遠心クラッチなど、誰もが扱いやすいバイクとして大ヒットしました。そして1960年、本田技研工業から独立して、本田技術研究所を設立します。

四輪進出は1962年の事。最初のモデルは軽規格のスポーツカーとしてスポーツ360を発表します。ですが、このモデルは発売されることはなく、排気量を500㏄に拡大するとともにボディーを拡幅したS500が登場しました。ちなみに、この年に鈴鹿サーキットがオープン。

その後の快進撃は誰もが知るところ。その中で最も大きなできごとは、1963年の四輪進出、そして1972年、当時最も厳しいとされたアメリカの排出ガス規制、大気清浄法(マスキー法)を世界で初めてクリアーしたCVCCエンジンと、それを搭載したCIVICの誕生でしょう。
これは自動車メーカーとしての地位を確固たるものとした技術であると同時に、特にアメリカでは、すでに得ていた"2輪のHonda"としての名声に加えて、4輪でもHondaの知名度を高めることに成功。現在の強力な販売網の基本が、その時にでき上がりました。そして創業25周年を迎え、本田宗一郎さんは退任をされたのでした。
では、2階フロアーに足を進めましょう。
◆スマホでQRコード読み取りで音声ガイドのサービス


2階は入口側を背にして右側が二輪車、左側が四輪車の市販車が展示されています。まず二輪側から見ると数の多さに圧倒! それとて「栄光の一部」なのですから驚かされます。館内に説明員はいないのですが、代わりにスマホでQRコードを読み取ると音声ガイドが現れます。ですので、訪れる方はイヤフォンをお持ちになられることをオススメします。本当はそのすべてをご紹介したいのですが、気になったモデルをピックアップしてご紹介していきましょう。

Hondaの初期のバイクのA型です。


続いてカブ号F型。エンジンを後輪左側に取り付けることで、服が汚れないよう配慮されています。白いタンクと赤いエンジンというデザインで人気を集めました。

1969年に登場したドリームCB750Four。当時、他社のフラグシップモデルが650㏄の2気筒エンジンであったのに対し、世界初となる750㏄並列4気筒エンジンを搭載! 最高出力67馬力、最高速度200km/hという圧倒的パフォーマンスで注目を集めました。そして大型バイクを象徴する「ナナハン」という流行語まで生み出しました。

団塊ジュニア世代の憧れ、レーサーレプリカのNSR250Rも展示されていました! ワークスレーサーNSR500のレプリカで、市販車のNSRシリーズの中ではフラッグシップモデルになります。展示されているモデルは1986年に登場したMC16と呼ばれる初代モデルで、2ストローク2気筒エンジンからは45馬力を発生しました。その後NSR250Rは1993年の4代目まで続きました。


1992年の登場したNR。1気筒あたり8バルブの楕円ピストンを採用という、型破りのV型4気筒エンジンを搭載。カウルはすべてカーボンファイバー製のハンドメイドで、当時の価格は520万円! 322台が生産されました。
◆自動車エリアでは農耕機具からTYPE Rまでがズラリ勢揃い
続いて4輪の市販車エリアへ。まずは最初の四輪車であるT360。「丸っこくてカワイイですね」と新唯さん。「最初は軽トラックだったんですね」と作業車両だったことに意外といった表情です。


そして、Honda四輪参入時のS500など。本田宗一郎さんはS500を市販する際、ボディーカラーに赤をラインナップしたところ、当時の運輸省から「赤は消防車の色。 ゆえに認可ならん」とのお達しが。これに本田さんは「ヨーロッパではスポーツカーは赤が当たり前。“認可ならん”とは何事だ」と激怒して怒鳴り込まれたのだとか。結果、S500に赤が誕生。以後、Honda車には“赤”が欠かせない物となりました。唯さんはその話に興味を抱きつつも、S600クーペの車内に興味があるみたいです。

当初、軽トラックとスポーツカーだったHondaのラインアップ。乗用車が加わったのは1967年のことでした。N360は31馬力のエンジンに大人4名が乗れる室内。そして当時31万3000円という低価格で人気となりました。「この見た目、今の軽自動車に似ていますね」と唯さんが言う通り、現在のN-Oneにデザインは受け継がれています。

先ほどマスキー法の話をしましたが、そのCVCCエンジンを搭載したのが初代シビックです。米国におけるHondaブランドを確立した1台といえるでしょう。

シビックはその後、Hondaを代表するクルマになります。ラインアップも3代目では3ドアハッチバックのほか、4ドアセダン、5ドアのシャトルと拡充。「ワンダーシビック」の愛称が付けられました。翌1984年には1.6L DOHCエンジングレードも追加され、レースでも採用されるようになりました。シビックのスポーティーなイメージはこのあたりから始まったように思います。

1980年代のHondaで忘れてはいけないのがシティでしょう。まさに町の人気者といった感じで、よく見かけました。オープンカーのカブリオレに、スポーツモデルのブルドッグ……。唯さんはカブリオレの室内がカワイイと写メをとります。

ラインアップは高級車にも。Honda初の3ナンバー車として、1985年に登場したのがレジェンドです。日本車で初めてSRSエアバッグを採用したほか、モデル末期には世界初のFF専用トラクションコントロールも搭載されました。私事ですが、筆者の父親が最初に買ったクルマで、子供の頃乗ったなぁと懐かしく思いました。

S500からスタートしたオープンスポーツカーは、一時期開発が途切れたのですが、Beatによって復活します。ミッドシップに直4エンジンを搭載。その思想はS660へと受け継がれました。

「赤バッジ」の名で親しまれているHondaのTYPE Rが日本で登場したのは、1992年のNSX-Rから。その後、インテグラ、シビックにもラインアップされ、ボーイズレーサーたちに人気を博しました。チャンピオンシップホワイトのボディーは実にカッコイイです!

S2000も忘れてはいけない1台。Hondaのスポーツカーは、やっぱりオープンカー! そんな気持ちにさせてくれます。

Hondaのプロダクトは二輪・四輪だけでなく、発動機や農耕器具にも及びます。その歴史は1953年から続き、私達の生活を支え続けてきました。ここでも本体の色は赤なのですね。
◆3階は二輪と四輪のレースモデルが並ぶ


3階はレース専用車のフロアになります。これまたズラリと勢ぞろい! まずは二輪から見てみましょう

まずHondaが、いや国産車が海外のレースに初参戦したR125(1954年)。E型の150ccエンジンを125cc化し搭載し、ブラジル・サンパウロ市400年祭国際オートレースで完走しました。その後、世界を相手に戦っていきます。

国内に目を向けると、鈴鹿サーキットで8時間耐久レースが行なわれるようになりました。中でも80年代は熱狂の時代。そのときに活躍したのがRVF750です。RVF750は1984年の全日本ロードレースはもちろん、FIM世界耐久選手権、マン島TTレースで活躍しました。ホモロゲーションモデルも登場し、現在でも高い人気を誇っています。

1984年から2002年にかけてのロードレース世界選手権(WGP)を席巻したのがNSRです。その活躍は我が国でレーサーレプリカブームとなり、ロスマンズカラーのNSR250Rは人気を博しました。

NSR500の中でも忘れてはいけないのが、1995年から始まるマイケル・ドゥーハンのロードレース世界選手権5年連続チャンピオンでしょう。レプソル・ホンダカラーは強さの象徴で、この5年間は、すべての年で5割を超える勝率を記録。特に1997年は15戦中12勝の年間最多勝記録をマークしました。

そして現在はMotoGPの時代へ。レプソル・ホンダカラーのRC213Vは今もサーキットを駆け抜けています。写真手前のモデルは2013年に加入したマルク・マルケスのマシン。この年のマルケスは、いまだ20歳と若いながらもデビューイヤーで6勝という世界選手権発足後初の快挙を達成。チャンピオンも獲得し、史上最年少記録を樹立しました。

そして四輪のエリアへ。まずは1965年にF1初優勝を果たしたRA272がお出迎え。エンジン、シャーシともにHondaのマシンで、その年の最終戦、メキシコGPでリッキー・ギンザーが1周目にトップに立つと、そのままゴール。チーム監督の中村良夫さんが「Veni,Vidi,Vici(来た、見た、勝った)」とジュリアス・シーザーの戦勝報告そのままに東京へ打電されたのは有名なお話です。

ブースには当時のF1マシンとして、クーパーT53クライマックス(1961年)も展示されていました。クーパーは近代F1の原点といわれるマシンで、HondaはF1参戦にあたり、参考として購入。それはRA271の設計に活かされました。

Hondaは一度、F1から撤退。1983年にスピリット・ホンダ201Cで15年ぶりに復帰します。ドライバーはステファン・ヨハンソンでした。ここから栄光の第二期が始まります。

Honda F1において、いや日本F1ブームにおいて忘れてはいけないのがマクラーレン・ホンダでしょう。なかでもターボ最終年である1988年の参戦マシンであるMP4/4は、アイルトン・セナとアラン・プロストのタッグで16戦15勝という大記録を樹立。鈴鹿サーキットでセナが初のワールドチャンピオンを決めたのは、当時リアルタイムで見ていた人の記憶に残っていることでしょう。
ロータス・ホンダ 99T
2022年、SUPER GTのNakajima Racingでレースクイーン(モデューロ・スマイル)として活動した唯さん。当然、中嶋 悟さんの愛車もチェックです。中嶋さんは1987年、ロータス・ホンダでF1デビュー。日本人初のレギュラードライバーとして、世界と、そしてアクティブ・サスペンションと戦いました。

中嶋さんが1981年の鈴鹿F2選手権で使用したマシン。4戦中2勝をしてシリーズチャンピオンに輝きました。翌年も中嶋さんは3戦中2勝を記録されています。

1995年、Hondaはル・マン24時間レースにも挑戦しました。高橋国光さん、土屋圭市さん、飯田 章さんのコンビで、日本人チーム初となるGT2クラス優勝を飾りました。

2000年頃に参戦していた全日本GT選手権のマシンも展示されていました。当時は4チーム5台体制で出場、通算4勝をあげてチームチャンピオンを、道上 龍さんがシリーズチャンピオンを獲得されました。

2017年に行なわれたインディ500で、佐藤琢磨選手が日本人初の優勝を果たしたマシンも展示。村田晴朗さんが感情のこもった実況を聞きながら「神よ……!」と祈ったのは筆者だけではないハズ!

佐藤選手は2020年のインディ500でも優勝。パンデミックの影響によって無観客での開催となったレースでした。
◆Hondaファンならゲットしたお土産も充実


帰りは1階のミュージアムショップでお買い物が楽しめます。この日はシン・仮面ライダーのグッズも販売されていました。Hondaグッズのほか、モビリティリゾートもてぎグッズもズラリ。


唯さんがチョイスしたのはサーキットチョコレート(1200円)。バイクや車の形をした3種類のチョコレートが15個入っています。「カワイイ! 美味しそう!」と乙女の顔でした。

館内を回って「Hondaって面白い企業なんですね」と唯さん。そうなんです、だから多くの人が心惹かれるんです。「バイクもクルマも、どちらも世界で戦って勝つってすごいですし、その一方で、生活のためのクルマなども作ってしまう。幅がとても広いんですね」。
ちなみにミュージアムに並んだクルマの中でイチバン好きなクルマは? と尋ねたところ、NSX-Rだとか。「カッコいい! 乗ってみたいですね」と夢を語りました。
Power of Dreamsが詰まったホンダコレクションホール。春くらいにリニューアルオープンをするとのことですので、興味がある人は再開を待ちましょう。また不定期ですが、コレクションホールの車両を動かす日があるそうなので、こちらもチェックしたいところです。
◆名車を見たあとはお腹いっぱい食べる

お昼はメインスタンド裏にあるカフェレストラン オークでアメリカンダイニングはいかがでしょう? ということでお邪魔しました。

看板メニューのOAKクラシックバーガーは、100%ビーフとBBQソースのマリアージュが楽しめる逸品。ボリューム満点で、1個でお腹いっぱいになること間違いありません!

唯さんがチョイスされたのは、季節限定のチキンジャンバラヤ。スパイシーなライスとグリルチキンを楽しまれていました。
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