(本紙主幹・奥田芳恵)
●相手がどんな権威だとしても信頼しても信用はしない
奥田 子どもの頃は、どんなお子さんでしたか。
牧 子どもの頃の記憶はあまりないのですが、5歳のときに盲腸になったことが、その後の自分に大きな影響を与えました。
奥田 それはどんな影響ですか。
牧 盲腸になると、高熱を出したり嘔吐したりするのですが、地元のかかりつけ医に行くと「大丈夫ですよ」と薬を出してくれるだけでした。ところが薬を飲んでも症状は悪化する一方で、2カ月ほどすると何も食べられず、ガリガリに痩せてしまったのです。
奥田 それはちょっと深刻ですね。
牧 日頃から信頼している先生だから間違いないと思っても、さすがにこれはおかしいと。それで大学病院で診てもらったら、盲腸が破裂して腹膜炎を起こしていたんです。死にかけたんですね。
このときから、先生を信頼するけれど信用しないという思いを大切にするようになりました。
奥田 わずか5歳で、そういう判断基準を身に付けられたのですね。
牧 ですから現在に至るまで、重要な意思決定を行う際には、別に悪意があるわけではないのですが、相手がどんな権威ある専門家でも、信頼しても信用せず、最後は自分で判断するというスタンスを保っています。
奥田 ほかに小さな頃の思い出はありますか。
牧 小学生の頃は、父の乗るクルマがどんどん高級になっていったことを覚えています。エアコンもついていない国産の大衆車に乗っていたのに、翌年はBMWに乗り換えるといった明らかな変化がありました。よく言えば生活が豊かになった、悪く言えばバブリーな時代でした。
奥田 お父さまは、やはりとてもお忙しかったのでしょうね。
牧 父はいつも夜遅くに帰ってきましたが、1996年に東証一部に上場してからは、外での夜の付き合いを控えるようになりました。ただ、家に帰って来てから深酒をしている姿を見て、経営者の孤独や影の部分を感じましたね。
奥田 中学、高校時代は、どのような生活でしたか。
牧 父も通っていた中・高一貫の東海中学に入り、中・高とも剣道に打ち込みました。
奥田 ということは、当時から事業承継を意識されていたと……。
牧 あえてそこから目を背けており、あまり承継することは考えていませんでした。
奥田 なるほど。それで剣道のほうは?
牧 高校3年になる頃、私は腰椎椎間板ヘルニアで歩けなくなってしまったのです。手術もあり2カ月ほどの入院を余儀なくされ、それまでは勉強と剣道の二本立てで大学の指定校推薦がとれればと思っていたのですが、そんな状況ではなくなってしまいました。もう、勉強だけで大学受験に臨むしかないわけですね。
奥田 でも、難関の京都大学に合格されて……。
牧 当時、父から言い渡されたのは、東大、京大、早稲田、慶應のどれかに入らなかったら、日本にとどまらず外国に行けということでした。私は理系だったのですが、その4校の学部を関係なく受けまくって、ようやく引っかかったんですよ。
奥田 お父さまの要求水準もさることながら、それに応えてしまうのもすごいです。
●大会運営の中で知った仕事の面白さ
奥田 剣道は、大学でも続けられたのですか。
牧 はい、続けました。ただ、2年の春にまた大ケガをしてしまい、選手としてあまり活躍することはできませんでした。
大学競技では、学生が連盟をつくり、大会の運営などを行います。私はケガを負ったこともあって、3回生以降は運営面に回って、4回生時に連盟の幹事長を務めました。実際の大会運営のほか、OBからお金集めをしたりするのですが、そうしたお金に関する仕事は面白いと感じました。
奥田 中・高時代はお父さまのビジネスから距離をとっていたとはいえ、その感覚は、どこかでその後のお仕事につながっていったのでしょうね。
牧 おそらくそうだと思います。
奥田 社長に就任されてから11年が経ちましたが、牧さんにとっての理想の経営者像はどのようなスタイルなのでしょうか。
牧 属性や業界が比較的近く、尊敬している経営者が3名おり、その方々のように私もなりたいと思っていました。その方々の経営手法をまねたりしたのですが、自分には無理だとようやく分かり、そこを追いかけることは止めました。
最近は、生成AIに問いかけて自己分析したりすることもありますが、自分には自分の精神構造に合ったビジネスしかできないというのが結論ですね。それが、理想の経営者像になるかどうかは分かりませんが。
奥田 誰かのまねをするのではなく、ご自身の中に経営のあるべき姿が構築できてきて、それがクリアになってきたということですね。ところで、経営者の仕事をしていく上で、これまでに糧になったことはありますか。
牧 語弊があるかもしれませんが、一つは、創業者である父が比較的早く他界したことです。そのため、私を可愛がってくださる父以外の方々のさまざまな価値観に触れ、それを享受できたことは大きな糧といえるでしょう。
もう一つは、私が20歳になるまでに、大病や大ケガを何度か経験したことです。今日できることが明日できなくなるかもしれないという人生観は、私のビジネスでの意思決定プロセスに影響を与えていると思います。
奥田 確かに、創業者以外の方の価値観に触れることは、跡を継いだ上で、新たなものをつくり出すための大きな要素となるのでしょうね。
バッファローは2025年に創業50周年を迎えられたわけですが、牧さんはどんな未来をイメージされていますか。
牧 会社の未来像は、何を会社の目的とするか、どのマーケットを狙うか、どんなビジネスをするかという三層で構成されると思いますが、会社の目的は前にお話ししたように、会社の永続ではなくステークホルダーへの分配、つまり最後は自分たちが幸せにならないといけないと思います。
もちろん、そのためには収益を上げることが必要です。一方で、経営者の長寿化とともに経験値の高いライバル企業が増えてゆきます。経験値が低いからこそ、若いからこそ、許される領域で勝負することが重要だと思います。
奥田 今後、どのような展開や変化を見せていただけるか、楽しみにしております。
●こぼれ話
「よくグレなかった」。もしかしたらそう言っても良いのかもしれない。偉大な創業者であるお父様が、時に経営者の顔をして、時に父の顔をして家にいる。経営哲学を習うまでもなく、シャワーのように浴びて、感じて育ったことだろう。その環境は得難いものだが、事業承継から「目を背けていた」と表現された牧寛之さんのお気持ちは少し理解できる。剣道が牧さんの気持ちを埋めてきてくれたことも。
こうしてお父様のことを聞かれるときも、幾度となくあったことだろう。もちろん私もだ。いい話、耳の痛い話(笑)どちらも有難く、これまでのつながりに感謝の気持ちでいっぱいになる。
牧さんは、お父様が比較的早く他界したことで、さまざまな方の価値観に触れ、それを享受できたことが大きな糧になったとおっしゃった。
社長として意志が強かったとか、経営の軸が定まったとかはない、ともおっしゃっていたが、後継者という枠組みから卒業して、独自の色をしっかりと打ち出している現在のバッファローに、良い意味で牧誠さんの影をみることはない。まさに創業の精神が宿っているだけといえるかもしれない。
私の場合、背後にいる創業者の影をまだまだ色濃く感じる方も多く、有難さと同時に創業者の強烈なキャラクターに降参といった気持ちにもなる。いずれにしても、比較とか競争とかを越えたい、といった思いはないが、なんとなく意識下に存在していて、牧さんのおっしゃる創業者からの卒業とはまだ少し違う感覚を覚えている。
牧さんはいつもお話が早くて、内容も整理されている。日頃からたくさんの情報が頭の中に詰まっていて考えを巡らせている感じがある。好奇心が旺盛で、何かいつも面白いことを知りたいと探しているようにも見える。今は、もっぱら生成AIで壁打ちしているようだ。頭の整理に一役かっているとのこと。好奇心もさることながら、その行動力も目を見張るものがある。
きっと、これからも驚く何かを仕掛けてくれそうで、私もワクワクしている。まさにLeading Edge!
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第378回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。