1960年代までの美女ジャケ黄金期には、男女の抱擁ジャケというのがけっこうあった。そういうロマンティシズムがまだまだ人々の心をくすぐったのだ。
ところが1970年代に入ると、ひとりの美女の大写しといったような、わかりやすく即物的なものばかりが多くなってしまう。なぜ、男女が抱擁するジャケは人気がなくなってしまったのだろう?
それを探るには映画での「抱擁」の歴史をさかのぼってみることが、ヒントになる。
映画の草創期、抱擁やキスは一種の冒険でもあった。映画が発明されて間のない1896年のこと、あのトーマス・エディソンのスタジオは「The Kiss」という50秒の短編をつくる。これは劇場演劇でのキスシーンをそのまま撮ったものだが、話題騒然、大人気となった。
若くも美しくもない男女がキスし続ける映画なのだが、カトリック団体や婦人団体がこれに噛みついた。「人前で不必要に長いキスをすることは、公序良俗に反する」という趣旨で。結果、「The Kiss」は映画史上初めての上映中止作品となった。
しかし、人々が観たいものを提供するのが映画という娯楽だ。
キスシーンは1910年代には当たり前になり、男女の抱擁シーンは、1920年代後半からはどんどん扇情的になる。そこに大恐慌が来て、映画産業は観客減少を食い止めるために、より刺激的なシーンを盛り込むようになった。1929年から1934年までのハリウッド映画には、かなり扇情的なものや倒錯的な雰囲気を醸し出すものが多い。
そうなるとまたカトリック団体や婦人団体が抗議し出す。その抗議に対して映画産業が自主規制のカタチでつくったのが、1934年に施行される「ヘイズ・コード」と呼ばれる倫理規制条項だった。だから1934年以降の映画では、性的な表現は抑制されたものになる。
ヘイズ・コードは、映画での表現規制を事細かに決めた条文で成り立っているが、そこには異人種間の性的関係を示唆してはいけないとか、キスの仕方についてまで細かな指示を入れていた。
馬鹿げたことにキスシーンはフィルムの長さにして1フィート(約30センチ)以内と定められた。
保守派のモラルというのは、今も昔もともかく細かいところにまでじつにうるさいのだ。
だからヘイズ・コードが有効だった1950年代までのアメリカ映画のキス・シーンは短いし、上品さを保っている。ヒッチコックはキスシーンを短めにカットして検閲を逃れながら、それをうまくつないで情熱的なキスになるように編集した。
1960年代後半からはヘイズ・コードが効力を失い、キスや抱擁の演出にも規制がかからなくなったが、人間というのは規制が存在したほうが、その規制の限界を試みようとするものだ。
同時期、“アメリカン・ニューシネマ”と呼ばれる一群の映画が登場する。ロマンスに収斂されてゆくハリウッド映画に対し、鋭利に現代を切りとる姿勢がこの種の映画の斬新さだったが、それは甘美なロマンティシズムを葬り去る役目も果たした。
これ以降、映画はロマンスは添えられはするもののアクションやホラーなど、より強い刺激に、あるいはよりシリアスなドラマとなって、古典映画の大恋愛や悲恋のようなものは、めっきり減ってしまった。だから映画そのものから古典的なラヴシーンが失われてしまったのである。
前振りが長くなったが、1950~60年代の美女ジャケに男女が抱擁写真が多いのは、まだロマンス健在という時代背景があってのことだ。
さて50~60年代に数多くリリースされた、ロマンティックな抱擁写真を使った美女ジャケの1枚がジョニー・ガルニエリの「Cheerful Little Earful」。モノトーン写真の地にピンクを敷いて、お洒落でモダーンな雰囲気だ。
ピアニスト、ガルニエリの演奏はジャズだが、タイトル曲はもともと歌詞がある曲で、内容は「ほら、耳元で繰り返されるちょっとした楽しい言葉があるでしょう。それは...きみを愛している...というフレーズ」といったようなもの。この写真は男性が耳元で「愛している」と言った瞬間なのである。
デザイン的に言うなら、後ろ姿の男性のトリミング、女性の顔のジャケに占める分量など、じつに見事。
ポール・ウェストンの「music for Romancing」もよく似た構図の写真だが、女性をジャケの下半分に入れ込んで、上にタイトルを置くための空間をつくっている。
この2枚を比べると、デザイン的にモダーンで新しい時代を感じさせるのは、圧倒的にガルニエリのアルバムのほうだ。
対象を大きく扱って即物的にしたほうがモダーンに感じる。デザインにおけるモダニズムとはそのようなもの。
ところでどちらも男は哀れというくらいに添え物扱いだ。美女の表情を、さらに彼女の情感を際立たせるための演出だから、これはしょうがない。
やはりモダーンで、さらにカジュアルな雰囲気もあるレス・バクスターの「Love is fabulous thing」では、男は無理矢理、顔を隠している印象だ。ともかく彼女の恋愛的情感の高揚がわかればいい、といった具合で、男はもう女性の頸(くび)に巻いた手だけでも充分という感じでもある。
ここまで紹介した3枚をデザイン視点で比べてみるとよくわかるのだが、ガルニエリとバクスターのアルバムの写真は、タイトル文字を置くための空間をつくってない。文字は、写真のどこかにレイアウトしているのだ。
それに対してポール・ウェストンのジャケ写真や、これから紹介する5枚のジャケ写真は、どれもタイトル文字を置く空間をつくっている。
デザイン的にモダーンだと感じさせるのは、圧倒的にガルニエリとバクスター。
そしてもうひとつ、女性の顔を上向かせてセクシーに魅力的に撮るには、やはり男は女性の頸のあたりを責めないとね、ということ。
そんな攻略をしているとき、唇を閉じている女性なんてまずいない。ほら、みんな開いているでしょう?
そしてもっと情熱的な愛の瞬間を捉えたのが、こちらもポール・ウェストン楽団の「Music for a rainy night」。ちょっと古くさい雰囲気ながら、これはかなりエロいとも言える。
女性の喜悦にむせぶような表情(と「喜悦」なんて単語を思い浮かべるからエロく思ってしまうのか……)、そして雨の滴がしたたる濡れた窓。女性の顔の部分だけ、窓ガラスを拭いたという設定だが、おそらくこれは精妙な合成だと思う。
なぜなら滴は垂れるわけだし、女性の表情も最高の一瞬を捉え、拭いた箇所に滴が垂れてこない状態を撮るのは至難の業だから。
情熱的に手を回された男のほうは、されるがまま、なんか木偶の坊のようでもある。女性の圧倒的な情熱を前に躊躇している妻子持ちの男、なんてストーリーが浮かぶようだ。
■男の肉体は過去の思想の遺物にすぎない?そうか! 美女ジャケには積極的な男はあまり登場しないのだ!
連載第5回でも取り上げた、巨大なパンを抱えて立つザビア・クガートのように、男が女性に興味を持っていそうだとエロオヤジに見えてしまう。センスの良い美女ジャケは、いかに美女を際立たせるかを第一にして、その他のものを控えめにしているからセンス良く見えるということなのだ。
ますます影のように、亡霊のようにしか存在しえない美女ジャケのなかでの恋愛模様の男たち。こちらもレス・バクスターの「Thinking of You」での男は、まさに亡霊、というかちょっと不気味。
ライティングに凝りまくるCapitolレコードの制作部は、このアルバムでも極端な光景をつくりだしている。これは合成写真なのだ。男性と女性はそれぞれ別々にライティングして撮っている。そうでないと女性の顔にこれだけ光を回しながら、そばの男性を暗く落とすことはできない。ブルーのバックも発色を良くするために合成している。
そして女性の上部にタイトルを入れる空間をつくるために、男性よりもかなり下に女性の顔がくることになってしまった。モダーン・デザインではなく古典的デザインなのである。
合成の証拠はもうひとつ、女性の目線が男性に向かっているようで、じつはかなりずれていることでもわかる。
いかにもな流し目を強調するための表情であり、これはけっして目の前の男を見ているわけではないのだ。そして、男は合成されたのだから実際にはそこにいなかった。
そんなわけで男はますます亡霊のように存在しているだけになってしまったのである。男の顔にも少し光を回しているのは、シルエットだけにしてしまうとあまりに不気味になってしまうので、少し表情も見せたということだろう。計算されている。
ところが男をシルエットにして、素晴らしい写真にしたジャケットもある。デヴィッド・キャロル楽団の「WALTZES, WINE AND CANDLELIGHT」。
カフェで再会のシーンだろうか?「やぁ、元気かい?」「そうね、あなたは?」なんて会話が聞こえてきそうだ。
スタジオ撮影で用意した小さなテーブルに、タイトルに合わせるように不釣り合いなキャンドルが置いてあるのが微笑ましい。そして女性はホルターネックのドレス。
筆者がいかにホルターネック・フェチかは、この連載で毎回のようにしつこく書いているが、やはり女性をセクシーに、かつ上品に魅力的に見せる最良のドレスは、ホルターネックでしょう!
このジャケット写真は構図のうまさ、明暗の対比、どこをとっても一級だ。写真をモノトーンにしたのも正解で、これがレス・バクスターの「Thinking of You」のように発色の良いカラー写真だったら、かなり興ざめになったはずだ。
ここでは男は影ではあっても亡霊ではない。デザイン的、物語的に重要な「シルエット=輪郭」なのである。
ただしこのアルバムは音楽の企画内容からジャケまで、ある作品のパクリというか二番煎じだった。その作品とは、ムード・ミュージック界で「ワルツの王様」と謳われたウェイン・キング楽団の「MELODY OF Love」である。
デヴィッド・キャロル楽団のアルバムと同じ年、少し前にリリースされたこちらは、ソファの背もたれ越しに女性が男性に話しかけている。「ねえ、踊らない?」といった感じだろうか。
モノトーンの写真で女性がホルターネックのドレスという共通点。しかもワルツ専門でもないデヴィッド・キャロル楽団がワルツのダンス・アルバムをつくったのは、あきらかにウェイン・キング楽団の人気を意識してのことだった。
デザイン的には文字の置き方、フォントのセンスで「MELODY OF Love」のほうが勝っていると言えるだろう。1950年代の古典的美学が見事に集約されたような写真とジャケット・デザインである。
ウェイン・キング楽団にはもう1枚、男女のロマンスをジャケにしたアルバムがある。やはり全編ワルツのムード・ミュージック、「the night is young」だ。
こちらもモノトーン写真だが、構図的にはむしろレス・バクスターの「Thinking of You」に近い。女性はイヴニング・ドレスで盛装しているから、パーティ会場の階段だろうか。男性はほんの少しの後ろ姿だが、木偶の坊でも亡霊でもなく、なにやらプレーボーイくさい。そんな男に強烈な流し目を送る女性。その眼力たるや!
いやはや、男なんてものはどんなシチュエーションでも、女をひきたたせるための添え物にすぎないのかもね。ともあれ、美女ジャケで流し目されたり、あるいは抱擁する男は、みなトリミングされてほんの一部しかジャケの画面には残らない。
いや、ほんとうはいなくてもいいのかもしれないが、女の愛の物語を補完するためにじつに控えめに存在している。
まるで主人公たる美女に言われているようだ。「私の物語の一部として、画面の隅に少しだけ入れさせてあげるわ」なんてね。
かつて漫画家のひさうちみちおが、いみじくもその漫画のふき出しに書いたように「男の肉体は過去の思想の遺物にすぎない」ということなのだろう。