稀代のイノベーターであり、大経営者であった日本マクドナルドの創業者藤田田の「遺志」はどのように若い世代に受け継がれているのか。ソフトバンクグループCEOの孫正義氏やユニクロ(ファーストリテイリング)の会長兼社長の柳井正さんはもとより、若い世代、特に日本マクドナルドに「クルー(バイト)」として働き、身をもって田さんの作った経営システムを学んだ若き経営者たちも外食産業には多い。
田さん自身からの指名を受け、自伝的評論をものした外食ジャーナリストの中村芳平が、田さんのDNAを継承する志に迫ります。
◼︎藤田田のDNAを継承する経営者たち
飲食業界には日本マクドナルド創業者の藤田田著『ユダヤの商法』を読んでやる気を起こし、独立開業した若手起業家が案外多い。そんな中の一人に居酒屋の(株)KUURAKU GROUP(千葉市美浜区)社長の福原裕一(55)がいる。焼き鳥チェーン店「くふ楽」といえば、一度は食べたり飲んだりした読者もいるかもしれない。まず、福原のプロフィールを紹介しよう。
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1965年、横浜市出身。千葉県内の高校を卒業後、3年ほど花王株式会社にて工場ラインオペレーターを経験。日本マクドナルド株式会社では店舗管理に従事。25歳で友人と貿易会社を立ち上げるが失敗。その後、損害保険代理店に勤務し、31歳で焼き鳥居酒屋の店長に。友人の経営する焼き鳥居酒屋を業務委託で運営したのちに1999年、1号店となる「くふ楽 本八幡店」を創業。独自の人材育成メソッドをまとめた「『心の大富豪』になれば夢は叶う」など著書多数。
◼︎マックで学んだ成功の秘訣——アルバイトの戦略化
福原の場合は藤田著『頭の悪い奴は損をする』を読んで衝撃を受け、1987年22歳のとき「経営を学んで将来独立開業したい」と日本マクドナルドに転職、社員として店舗に2年7ヵ月勤めた。福原はこの時代に居酒屋事業の成功のポイントとなる人材育成のあり方をアルバイト(日本マクドナルドでは「クルー」という)から教えられた。福原はその教えを自らの店舗経営でも生かしたのである。
福原は言う。
「人手不足で、あるとき通常の採用基準より劣るレベルの高校1年生をアルバイトさんとして採用、バックヤードの倉庫片付けという役割を持たせました。ところが彼はやる気満々で17時の定時出勤の1時間近く前に出勤し、倉庫に入っていろいろ工夫しながら整理・整頓し1~2ヵ月もすると見違えるほど綺麗にしました。そこで別の役割を与えるとまた確実に成果を上げ、仕事の幅を広げて戦力になっていったのです。そのとき『どんな人であれ人は必ず成長したいと思って努力するのだということを、気づかされました。性善説というか、人は信頼して仕事を任せることが大切だ』ということを、そのアルバイトさんから教えられました」
ちなみに、日本マクドナルドは2019年度で全国約2900店舗展開、アルバイトである「クルー」は全国で15万人在籍するが流動的で、年間7万人採用している。アルバイトの支えがないと1日としてビジネスが成り立たないのだ。これは日本マクドナルドだけの問題ではなく、飲食業界はアルバイトの労働力で成り立っている。したがって、飲食業界で成功するためにはアルバイトをいかに戦略力化するかが、決め手になる。福原は日本マクドナルドの社員として店舗勤務する中で、いち早くアルバイトの戦略力化の重要性を悟った。
◼︎プロ野球選手から経営者への夢
福原は1965年4月生まれ、神奈川県横浜市出身。父はタクシーの運転手、母は専業主婦。3人きょうだい(姉2人)の末っ子。小学6年生のとき両親が離婚。中学時代、野球選手として頭角を現した。千葉県の市立銚子高校に野球推薦で入学。奨学金を受けた。2年生の秋、ショート1番バッターでキャプテンに就任。3年生のとき夏の甲子園大会を目指すが、ベスト4で敗退した。野球推薦による大学進学の道もあったが断念、プロ野球選手の夢も諦めた。
その後個人経営の小さなラーメン屋でアルバイト、皿洗いから始めてチャーハン、ラーメン作りなどを任された。
福原はこの収入の中から奨学金を返還、母へ仕送りをし、一方では天引きの財形貯蓄などに励み、約3年4ヵ月の勤務で約300万円貯金したという。しかし、工場でのラインオペレーターの仕事は退屈で、読書に活路を求めた。入社して間もない19歳のとき、永遠のベストセラーであるナポレオン・ヒル著の『成功哲学 やる気と自信がわいてくる』を熟読した。そして富を築き成功するためには「願望」「信念」「専門知識」「計画の組織化」「協力者」などが必要であることを学んだ。福原はこれを引き金に、経営者の成功物語や金儲けの本を次々に読んだ。
そんな中で藤田田著『頭の悪い奴は損をする』(新装版『頭のいい奴のマネをしろ』2019年復刊)を読んだ。
◼︎福原の経営の師匠——藤田田とは何者か
ちなみに藤田は旧制北野中学、旧制松江高校を経て1948年(昭和23年)に東大法学部に入学、その年GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の試験を受けて合格、通訳のアルバイトを始めた。ユダヤ人のGI(アメリカ兵の俗称)と仲良くなり、ユダヤ商法を学んだ。ユダヤ人脈を武器に、在学中の1950年(昭和25年)に貿易商社「藤田商店」を設立、海外から雑貨などの輸入販売を始めた。翌1951年、25歳で東大法学部卒業。外交官になる夢を捨て、ベンチャー企業・藤田商店の仕事に取り組んだ。ユダヤ商人のネットワークを活用、得意の英会話力を駆使して海外からいち早く雑貨のブランド品やダイヤモンドなどを輸入、銀座三越など百貨店に卸し、好業績を上げた。藤田は米国の企業との取引きでは高価な航空便を使い、赤字になっても納期を守った。それによって、米国のユダヤ人社会に絶大な信頼を築いた。これが「藤田商店」を大成功させる要因であった。
藤田田の名前が日本中に知れ渡ったのは1972年に『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ)を出版し、「ユダヤ商法に商品はふたつしかない。
福原は『頭の悪い奴は損をする』(1974年刊)に続き、『ユダヤの商法』(1972年刊)『天下取りの商法』(1983年刊)、『ユダヤ流金持ちラッパの吹き方』(1985年刊)、『超常識のマネー戦略 実践ユダヤの商法』(1986年刊)と、当時KKベストセラーズから出版されていた藤田の著書、全5冊を熟読した。藤田が最高学府の東大法学部を卒業したのにリスクの高いベンチャー企業を興したことに感心した。また世界を相手にビジネスを展開する語学力、行動力、決断力に舌を巻いた。さらに「社員に日本一の給料を払う」と大ラッパを吹くだけでなく、実行するところに、「こんな素晴らしい経営者がいるのか」と脱帽した。その結果、「日本マクドナルドに転職し経営やマネジメントを学び、将来起業したい」と考え、求人情報誌を見て中途採用試験を受けて合格、1987年9月に転職した。22歳のときのことだ。
◼︎起業と失敗と借金返済——27歳の頃
福原は日本マクドナルドの店舗に勤務し経営を学んだ。それから2年7ヵ月、1991年25歳のとき、日本マクドナルドを辞めた。店で知り合ったバングラデシュ人のアルバイトと、旧知の友人の3人で貿易会社を興した。福原は「30歳までは何事も経験。
福原はこの逆境で真価を発揮した。まず額面月収30万円の損害保険会社に勤務した。歩合制で営業でも稼げる条件だった。やがてそれだけでは追いつかず、夜の10時から朝5時までカラオケ店でアルバイトした。1日18時間労働を課し、平均睡眠時間2、3時間という過酷な生活を送った。短時間で熟睡できるというタイトルの本を買ってきて睡眠の仕方を工夫した。こうして年収で約400万円稼ぎ、毎月13万円近く返済し2年ほどで借金300万円を返した。「この時期が一番きつかった」と福原は振り返る。
◼︎地下鉄サリン事件の衝撃
借金返しのメドが立った1995年初春、福原は友人と二人で那須高原のスキー場に遊びに出かけた。スノーボードでジャンプし着地に失敗、足の付け根を痛めた。帰宅して病院で診断を受けると、大腿骨骨折で1ヵ月の入院を余儀なくされた。福原は「将来必ず再起して成功したい」と思っていたが、この入院は予想外のことで生活の歯車が狂い、どん底に落ち込んだ。そんな福原を驚愕させたのが、「地下鉄サリン事件」だった。95年3月20日月曜日の朝、オウム真理教が日比谷線、丸ノ内線、千代田線の計5車両に毒ガスのサリンをばらまき同時多発、無差別テロ事件を起こした。重軽傷者6000人、死者13人という未曽有の大惨事で、日本中に激震が走った。福原は朝8時過ぎ、病室のテレビで事件の惨状を見ていて、強烈な危機感を覚えた。
「何の罪もない善良な人たちが、理由もわからずに突然殺された。一寸先は闇だというけれど、人生何が起こるか先のことは本当にわからない。俺はこのままでは決して終われない。たった一度の人生、もう一度自分自身の可能性に賭けたい!」
福原はこのテロ事件を契機に自分の来し方行く末を真剣に考えた。そんな中で思い浮かんだのが高校時代、小さなラーメン屋でアルバイトし皿洗いから始めてチャーハン、ラーメン作りまで任されたことだ。顧客から「おいしかったよ!」と褒められて、うれしかったことを思い出した。次に福原は日本マクドナルドの店舗でハンバーガーを一生懸命売っていたときの充実感を想い起こした。そんな中で「自分が本当に好きな仕事、やりたい仕事は飲食業であった」と気づいた。「飲食業で独立開業しよう」と決めると、情報収集に努めた。「なるべく短期間でノウハウが学べ、小資本で独立開業できる飲食業がよい」と飲食店経営者の本を読んだ。そんな中の1冊に、「やきとり大吉」を展開するダイキチシステム社長の辻成晃が著した『理屈をいうなだまって儲けろ!-「大吉式」小資本・金儲けノウハウ』(旭屋書店 1994年刊)があった。
辻は1977年ダイキチシステムを創業、「生業に徹する」を理念に直営店や法人店舖を一切作らず、個人店とチェーン店を融合したシステムを構築した。本部指定の店舗で3ヵ月間研修を受け、低資金の150万円の加盟金で本部が所有する店舗、すなわち家賃の安い3流立地の店舗(平均10坪20席)を借り受けて、夫婦で独立開業できるようなビジネスモデルである。低資金で一国一城の主になれるとあって非常に人気で、脱サラして独立開業する人などがFCに加盟した。一時期は全国に1000店舗を超えるときもあったが、2019年度で全国に約700店舗展開している。「やきとり大吉」には独立心旺盛なチャレンジャーが集まった。実際、「やきとり大吉」で5~6年FC加盟オーナーを務めた後、自ら独立して店舗展開する起業家が多いのが特徴だ。
◼︎FC加盟オーナーから焼き鳥事業へ
ちなみに今や日本一の焼き鳥チェーンに成長した「全品298円均一 鳥貴族」の創業者の大倉忠司も、「やきとり大吉」を辞めて独立開業したオーナーに誘われて焼き鳥事業を修業した。串打ちから始まり新規店舗の開店、運営などあらゆることを経験して独立、1985年に東大阪市の三流立地で「鳥貴族」1号店を開店したのがスタートだった。
福原は当初「やきとり大吉」のFCシステムに加盟しFCオーナーとして経営したいと考えていたが、加盟金150万円がなかった。病院を退院すると、独立開業資金をつくるために焼き鳥屋に務めることにした。千葉県船橋市で「やきとり大吉」から独立したオーナーの店を見つけて応募し、直ぐに採用された。日本マクドナルドで社員として2年7ヵ月働いたキャリアは“金看板”であった。1995年(平成7年)春、30歳のときのことだった。初任給22万円。最初から店長候補として期待された。福原は店が用意していた木造建て、風呂なし、エアコンなしのおんぼろの寮に転がり込んだ。
その焼き鳥屋は小さな店だったが、月商600万円は売る繁盛店だった。焼き鳥は「串打ち3年、焼き一生」と言われるほど経験と年季が必要とされる仕事だ。福原は当初、朝10時に出勤して串打ちから仕込まれた。数人でレバー、カシラ、ネギマなど部位ごとに、多い時は1日1000本串打ちした。仕込みを終えると開店準備を全部済ませ、交代で銭湯へ。戻ると賄い飯を食べて午後5時から営業だ。福原は店では洗い場で食器洗いからスタート、間もなく調理場でお燗をつけたり料理をそろえたりする補助的な仕事を覚え、それからホールに出て注文を取り、ビールや1品料理を客に提供した。ここまででおおよそ3ヵ月かかった。
ちなみに焼き鳥屋が繁盛する最大のポイントは、串打ちした鶏肉の素材の良さと仕上げの焼き加減にある。焼き場は店の顔であり、個人営業の小規模経営では「オーナー社長」(店主兼料理長)が担当する。福原もオーナー社長が1000℃の炭火の焼き台で1本1本手際よく焼き上げるのを隣で見ながら仕込まれた。この焼き場が切り回せれば、店長を任された。福原はこの焼き鳥屋に入ってから、カラオケ店のアルバイトはやめたが、損害保険代理店の仕事は続けた。焼き鳥店に出勤する前の時間や休みの日を利用して営業や更新手続きを行い、年間200万円の収入を確保し、借金200万円の返済に充てていた。
一方、福原は店員の中では30歳で最年長であり、オーナー社長に日本マクドナルドで学んできた店舗運営のやり方や業務改善案を次々に提案した。入社して3ヵ月経った頃、チャンスが巡ってきた。その焼き鳥屋の支店「行徳店」(千葉県市川市、地下鉄東西線行徳駅から7分)で店長が辞めることになり、福原はまだ焼きの経験が足りなかったが、後任店長に抜擢された。参考までにいえば「行徳店」の規模は本店より1坪大きい13坪28席程度。ただし売上高は本店より少なかった。人員は焼き場にベテラン社員が1人、アルバイト5人体制だった。給料は税込み30万円に上がった。
福原は日本マクドナルド時代、最後はマネージャーの中のセカンドアシスタントマネージャーの職位に就いていた。店長が不在のときは店長補佐として業務を代行し、社員3~4名、アルバイト60~70名の大所帯を切り回していた。したがって焼き鳥屋「行徳店」規模の運営は朝飯前だった。福原は店には朝10時頃に出勤、串打ちから始め、夜は午前1時、2時まで働いた。
福原は「行徳店」の店長として日本マクドナルド時代に学んだ経営手法を導入、従業員にこう訴えた。
「元気よく、お客様の目を見て挨拶しよう」
「お客様が何を求めているのか、先を読んで行動しよう」
「お客様が私たちの気づかいや思いやりのサービスに感動、再び来店されるようにしよう」
◼︎顧客満足から顧客感動への「おもてなし」
福原は「ホスピタリティ」(心からおもてなしすること)の大切さを主張した。一般的な接客サービスでは「顧客満足」にとどまるが、これに付加価値をつけてホスピタリティを発揮すれば「顧客感動」が生まれ、従業員と顧客が互いにハッピーになれると強調した。一方では週末には社員、アルバイト全員を連れて六本木に遊びに行ったり、休日は北関東のスキー場へスノーボードに行ったりした。こうして共に働く仲間としてのチームワークを構築、なんでも言い合える働きやすい環境をつくった。さらに福原は社員、アルバイト一人ひとりの給料明細に自筆で感謝や注意事項、アドバイスなどのコメントを書いた。そうすることで励ましや気づきの機会を与え、人間として成長して欲しいと考えたからだ。この習慣は「行徳店」の店長以来ずっと続けているという。
福原は「行徳店」の店長として従業員が元気溌溂として、明るくフレンドリーな焼き鳥店を作った。「今までにない居酒屋だ」と人気になり、数ヵ月後、店にはリピーター客や女性客がおしかけ、開店すると満席になった。店は坪50万円を売るほど繁盛し、売上高は本店を追い抜いた。オーナー社長は福原の経営手腕を高く評価し、給料30万円にプラスして出来高30万円を払った。これによって月収は2倍にハネ上がり、懸案だった借金の返済にケリがつくのである。福原はこの「行徳店」の店長時代に最愛のパートナーとも知り合った。
福原は「行徳店」の店長を2年経験する中で、「こうすれば成功する」という店舗運営の成功法を見つけた。具体的には焼き鳥の味の秘訣、集客の仕方、リピート客になってもらうコツ、社員・アルバイトとの接し方、使い方・育て方、働き甲斐にあふれたチームワークのつくり方などについて、自分なりに方法論を築き上げた。これによって、いつ独立開業しても成功できると確信した。1998年、32歳の時のことである。
◼︎「くふ楽」創業への道
このとき、再びチャンスが転がり込んだ。福原に影響を受け焼き鳥店等を経営していた友人が支店を出すことになり、その店を「業務委託契約で経営しないか」と声を掛けてきたのだ。その焼き鳥屋は横浜市、相鉄線のいずみ野駅から30分ほど離れた、たった5店舗しかないさびれた商店街の一画にあった。2階はアパートで1階が10数坪の店舖だった。「行徳店」よりはさらに立地は悪かったが、友人が3~4年かけて常連客を開拓した焼き鳥屋であり、成功させる自信があった。福原は「行徳店」の店長を辞めると同時に、オーナー社長に事情を話し、その会社を辞めた。そして独立開業資金を貯めるために相鉄線いずみの駅からタクシーで10分程度の商店街の焼き鳥屋の店長に就いた。この際自分の荷物はパートナーの家に預けて単身赴任した。「開業資金を貯めて自分の店を出したら結婚しよう」と約束したという。店の近くでアパートを借りると1DKで5万円かかるので店に寝泊まりすることにした。当初は閉店後、店の床に段ボールを敷き、その上に布団を敷いて睡眠をとった。朝は調理場の水道で洗顔したという。
福原は常連客を大切にした。その常連客が友人、知人を連れて来店するようなホスピタリティあふれる接客を心掛けた。商売は大繁盛し1998年から1999年のたった1年3ヵ月間で800万円の独立開業資金を貯めた。月間平均で約53万円貯金した計算だ。この800万円が「くふ楽」創業のタネ銭になったのである。
福原は1999年初春、独立開業する店舗を探しに、土地勘のある東京・江戸川区行徳から江戸川を渡って直ぐの千葉県市川市本八幡の不動産屋を歩いた。ある不動産屋から「縁起が良い」と勧められたのが、イタリアンレストランチェーン「サイゼリヤ」発祥の商店街の奥にある古い1軒家であった。1階が店舗、2階が住居という物件で以前は寿司屋が入っていたという。家賃は月21万円。人通りが少ないという難点はあったが、福原は独立開業の1号店をこの物件に決めた。資金800万円で足りないところは姉夫婦に保証人になってもらい、国民金融公庫から1000万円を借りた。こうしてその民家風一軒家を改装し、1999年3月、有限会社くふ楽設立(2007年10月 KUURAKU GROUPに社名変更)、同年4月、「炭焼BARくふ楽」(後に炭火串焼厨房くふ楽と名称変更)を開店した。
◼︎田さんと同じく東京・銀座に開店したい!
福原はできれば1号店は東京・銀座に開店したいと考えていた。というのも尊敬する日本マクドナルド創業者の藤田田が「文化というものは高きところから低きところに水のように流れる」といって、1号店を日本の文化の発信地である銀座三越に開店し大ヒットさせて、全国展開を大成功させたからだ。福原は藤田田にならって創業2年目の2000年8月、銀座に「串焼BISTRO福みみ銀座店」(3号店)を開店した。この店はKUURAKU GROUPのドル箱に成長、旗艦店として機能した。その後毎年3店舗程度を渋谷、新宿、銀座、下町、千葉、柏などへ出店するが「福みみ銀座店」が最前線基地となった。
その一方ではカナダの友人と連携、2003年にはカナダに現地法人を設立、2004年8月には「チャコールダイナーざっ串カナダ店」を開店、海外展開をスタートした。
2013年にはインドに居酒屋「くふ楽」をFC展開、これを機にインドネシア、スリランカへ出店。2019年には米国ハワイに世界5カ国38事業所目となる寿司居酒屋「ちばけん」を開業した。
ちなみにKUURAKU GROUPが国内外で注目されるのはインバウンド、アウトバウンドに強いことだ。特にインバウンドすなわち訪日外国人客の人気は一頭地を抜いている。
2019年度現在、銀座には直営で「くふ楽銀座店」「福みみ銀座店」「博多屋大吉銀座店」に加え、最高級「比内地鶏」の焼き鳥を提供する「銀座かしわ」の4店舗、他にも「元屋」、「福みみ渋谷店」「福みみ新宿店」等を展開している。世界最大の旅行サイト「トリップアドバイザー」の2018年度の東京都の焼き鳥店ランキング(1922軒中)で、「福みみ銀座店」「福みみ渋谷店」「博多屋大吉銀座店」がトップ3を独占、ベスト5に「福みみ新宿店」が入るという快挙を成し遂げた。
なぜKUURAKU GROUPの店舗がこれほど訪日外国人に人気があるのか。それは社長の福原が多国籍のアルバイト店員を育成し、「焼き鳥の文化を世界へ広めたい」と日本マクドナルドに学んで、人種・国籍・年齢・性別などにとらわれない「ダイバーシティ(多様性)経営」に取り組んできたからだ。同社は社員50人だが、そのうち10人は多国籍人材である。
参考までにいえば「福みみ銀座店」は月商1100万円の超繁盛店だ。年間売上高は2015年から過去最高を更新している。客の6割がインバウンドである。ちなみに店舗は社員6人とアルバイト8人、合計14人で運営しているが、そのうち日本人はたったの4人しかいない。店長のアチャリャ・ビジャヤ(29)はネパール出身。日本語が達者で、2014年にKUURAKU GROUPの外国人社員第1号となった。KUURAKU GROUPがインバウンドで圧倒的な人気を獲得しているのは、福原が多国籍のアルバイトの戦力略化に成功し、いち早くダイバーシティ経営を実現したからだ。
◼︎KUURAKU GROUPの人材育成方式
福原は「ピープルビジネス」を柱にした日本マクドナルドの人材育成法を基本に、『7つの習慣』などを参考にしてKUURAKU GROUP独自の組織と人材育成の仕組みを作ってきた。
【人材育成の仕組み】
①「HAPPY&THANKSメソッド」:社会教育の推進を図る活動。会社の朝礼などで、24時間以内でうれしかったこと感謝することを発表
②MVP制度:四半期3ヵ月に1回全従業員の中からMVPを選出。アルバイトMVP、チームMVPなどがあり賞金と社内報に掲載
③立候補制度:店長・教室長、ヘッドオフィスの管理部門など
④独立支援制度:独立の夢を支援する。約6カ月で店長就任、約1年でマネージャー昇格、独立立候補、四半期予算達成、約1年6カ月で独立スタート
⑤くふ楽アイズ:各店舗と本部をネットでつなぎ、日時決算、社長メッセージ配信
⑥社員全員の氏名、誕生日、結婚記念日などを記した会社の手帳を配布:結婚記念日に花を贈ったりして夫婦で祝えるように支援する
⑦年1回、アルバイトの卒業式開催
ちなみに日本マクドナルド創業者の藤田田は、社員の結婚記念日に花を贈ったり、祝い金を贈った。それによって社員のモチベーションを高め、ファミリー経営意識を呼び起こし、より成果を挙げることを期待したからだ。
福原は藤田田の経営手法を随所に取り入れてきた。
KURAKU GROUPの2019年12月現在の概況は、居酒屋「くふ楽」「福みみ」など国内12店舗開(そのうち4店舗は銀座で営業)、国内FC=のれん分け5店舗、教育事業=「ITTO個別指導学院」のFC加盟3店舗、海外はカナダをはじめにインド、スリランカ、インドネシア、ハワイなど5カ国に進出、FCで16店舗展開している。そして国内でKUURAKU GUROUPから完全独立した約80店舗(アルバイト・社員から独立30店舗、社員から退社して独立約50店舗)と世界に広がっている。売上高は18億5000万円。
本部の売上高は決して大きくはないが、グループ全体で見れば、それなりの規模に発展してきたといえる。
◼︎コロナ禍、インバウンドゼロに負けない戦い方
インバウンドで最高の業績を上げていたKUURAKU GROUPだが、このコロナショックでインバウンドゼロに追い込まれた。
福原はコロナ禍に勝つため4つの原則を掲げた。
① キャッシュはつかんで離さない
② 「固定費」の削減
③ V字回復のカギは「人財」
④ コロナ禍で現状維持は衰退、アフターコロナに向けた新たなチャレンジ
福原はこの非常事態を乗り切るために社員、アルバイトの給与100%支給を決めた。次にECサイトを立ち上げ、キッチンカー事業、およびアプリをスタートした。
極めつけは6月2日、銀座6丁目のコリドー街の居酒屋(70席)を2毛作経営とし、昼時に「純氷かき氷 大吉」を開店したことだ。この銀座をはじめ北千住店、町屋店、市川本八幡店の計4店舗にかき氷をを展開した。
コロナ禍の居酒屋の生き残り戦略としてテレビの注目も高く、8月度だけで10番組に取り上げられるという快挙を達成、インバウンドゼロでも前年対比100%で推移した。
稀代の起業家、日本マクドナルド創業者のDNAは福原のような不撓不屈の経営者に引き継がれているのである。