死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第3回は1923(大正12)年と1924(大正13)年。近代日本の事始めに関わった人たちのそれぞれの「退場」を振り返る。





■1923(大正12)年百年前のゲス不倫は心中で終わった有島武郎(享年45)大杉栄(享年38)

 大正12(1923)年は、関東大震災の年だ。その15日後には、混乱する東京で陰惨な事件が起きた。アナーキストの大杉栄が、内縁の妻・伊藤野枝や6歳の甥とともに連行され、憲兵の甘粕正彦らによって殺害されたのである。



 また、震災の3ヶ月前にはもうひとつ、世間を騒がせる事件が起きた。文学者・有島武郎の情死だ。彼は7年前に妻と死別したあと、独身だったが、人妻と恋におち、その夫から脅迫されるなどしていた。相手の女性は、創刊まもない『婦人公論』の記者・波多野秋子。「眼のひかりが虹のように走る感じの人」(室生犀星)という美女で、永井荷風や芥川龍之介にも気に入られていた。





 ただ、今でいうメンヘラ気質で、そこがこの時期の有島には魅力的だったようだ。というのも、死の3年前、彼は評論『惜しみなく愛は奪う』を発表して、こんな哲学を語っていた。



「若し私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。(略)だから、その場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然であり得ることだ」



 そんな哲学を実験できそうな相手が、波多野だった。有島は友人でもある出版社社長に「実は僕らは死ぬ目的をもって、この恋愛に入ったのだ」と明かし、姿を消す。そして2日後、軽井沢の別荘で心中を遂げた。遺書にはこんなことが記されていた。



「私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思わなかった。恐らく私達の死骸は腐爛して発見されるだろう」



 ちなみに、白樺派の作家を研究する生井知子は有島の自殺願望を「幼児退行的なもの」と見なしている。父親による厳格すぎる教育によって「精神的外傷」を負い「自らを無用の存在」と感じるがあまり、子供のように甘えたい、それが無理ならいっそ死にたいという「誘惑に身を委ねてしまった」というわけだ。



 この見方には共感するが、世間の反応はもっとミーハーだった。

波多野を「魔性の女」として叩いたり「死に進んだ勇気」を賛美したり。また「人の女房と心中する 有島病気が流行し(略)これが純真の恋というなら困ったネ」(『困ったネ節』)という歌がうたわれたりした。



 なお、有島はアナーキズムにも関心を抱き、大杉栄を支援してもいた。最期のかたちは違うが、ともに時代を代表する知識人の挫折だ。震災が起きたこの年を境に、日本の運命は傾いていったとする見方ものちに生まれた。







■落語界にも苦言を呈した、ヘンなガイジン第1号快楽亭ブラック(享年64)

 震災直後には、初代快楽亭ブラックも鬼籍に入った。いわゆる「ヘンなガイジン」の草分けで、6歳のとき、英字新聞の記者だった父とともに英国から来日。日本語を覚え「青い目の落語家」として活躍した。明治中期の全盛期には『読売新聞』の連載で、



「落語もこのぶんでゆくと、だんだん衰微しやす。(略)今の真打ちが亡くなりやしたら、あとを継ぐ者はありやすか。名前ははばかって申しやせんが、ただ今、先代のあとを継いでる者で、そいに劣らぬようやってる者がありやすか」



 と、苦言を呈したこともある。落語のほかに、手品や催眠術を披露したり、歌舞伎に出演したり、推理小説を執筆したりと、マルチタレントぶりも示した。

また、英国のレコード会社と組んで、自身も含めた当時の芸人たちの芸を蓄音機のレコードに吹き込むという貴重な仕事もしている。



 ただ、晩年は不遇だった。芸のユニークさが飽きられ、49歳のときには亜ヒ酸を飲んでの自殺未遂も。その後は養子とした弟子(日本人)の助けも借りながら、ひっそりと暮らした。震災が起きたときにはもう寝たきりだったが、駆けつけた弟子の嫁(フランス人)たちを「バタバタするな」とたしなめたという。



 それから17日後、脳卒中で死去。西洋化の世を象徴するような64年の人生を終えた。





■1924(大正13)年ヌードも銀行も薩摩から始まった黒田清輝(享年57)松方正義(享年89)

「近代洋画の父」と呼ばれた黒田清輝は、大正13(1924)年、尿毒症で亡くなった。享年57。代表作の『湖畔』は印象派の影響を受けた穏やかな画風だが、その生涯はやはり、開拓者にふさわしいものである。





 フランス留学中に描いて賞も獲った裸体画を持ち帰り、自身が審査官を務める博覧会に出品したところ、公序良俗に反するとして非難を受けた。しかし、美術界の革新のためにも出品をやめることはなく、友人でもある画家への手紙にこんな決意を書いている。



「どう考へても裸体画を春画と見做す理屈が何処に有る(略)兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ」



 そんな黒田は晩年、貴族院議員になった。政治がやりたかったわけではなく、養父が亡くなったあと、その立場を継承したかたちだ。彼は薩摩藩士の家に生まれ、同じく藩士だった伯父の養子となり、じつはフランス留学も法律を学ぶためだった。途中で画家に転じることを認めてもらった以上、それなりの義理も果たさなくてはならなかったわけだ。



 薩摩といえば、この年、政治家の松方正義も他界している。こちらも藩士出身で、総理大臣や大蔵大臣を何度も務めた。日本銀行の設立や金本位制の確立などを行なう一方で「松方デフレ」という大不況をもたらしたことでも名を残している。子宝にも恵まれ、総勢26人。徳川家斉の53人にはさすがに及ばないが、将軍でもないのに大変な精力と甲斐性だ。呼吸不全のため、89歳の天寿を全うすると、国葬が営まれたほどの大物である。





 ただし「憲政の神様」と謳われた尾崎行雄には、



「若しも薩摩人でなかったら、総理大臣には、無論成れる人ではなかったろうと思います。先輩が皆没した為、回り回ってついに松方公が薩摩を代表することになったのであります」



 と、皮肉られてもいる。

かといって、薩摩出身でない人生など自分では選択しようもないわけで、松方にはちょっと気の毒な気もするが……。そういわれても仕方ないほど、薩長が幅を利かせる時代ではあった。



(宝泉薫 作家・芸能評論家)

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