数々のバラエティーを手がけ、たけし、タモリ、さんまのビッグ3を始め多くのタレントをテレビの人気者にした元フジテレビの佐藤義和さんが、昨年10月に移住先の沖縄にて肺がんで亡くなっていたことが12月にわかった。
 佐藤さんによって『ライオンのいただきます』でABブラザーズとしてデビューし、作家転身後に氏のインタビューを行ない、沖縄に移住後も懇親のあった松野大介が、佐藤さんから聞いた話を中心に功績を振り返る【後編】。





「1つの番組にしがみつくテレビマンもいるけど、僕は常に新しいことをやりたいタイプ」



 と、私がインタビューした10年ほど前に話していた佐藤さん。



 後編では主にプロデューサー時代を振り返ります(前編と併せてお読みいただければ幸いです)。



◆【いいとも】



『笑ってる場合ですよ!』の後枠として82年にスタートした『笑っていいとも!』。メインにはタモリさんが起用された。



「色の薄いサングラスにしてもらい、髪もオールバックじゃなくて七三分けで〃アイビーおじさん〃を演じてもらいました」(佐藤さん/以下同)



 しかしタモリさんの笑いを作ろうと企画したコーナーはことごとく外し、ミニコーナーだった「テレフォンショッキング」が意外にもウケて、看板コーナーに成長。「世界に広げよう、友達の輪!」が流行語に。たけし、タモリ、さんまらビッグ3がフリートークの笑いを作っていったが、そんな自由なやりとりを最初に成功させたのが佐藤さんら“ひょうきんディレクターズ”たちの『ひょうきん族』『いいとも』。



◆【新しさの発掘】



 84年には『いいとも』終わりにお客さんがそのまま残ってアルタから生放送された『ライオンのいただきます』が始まり、翌85年に同番組で私がデビューする。



(※その経緯を説明すると佐藤さんのタレント発掘法が垣間見えると思うので、私に興味ない方も目を通してください)



 私が事務所のお笑いタレントオーディションをひとりで受け、合格したのが84年4月。それから合格した十数組のネタ見せに、事務所のマネージャーと親しい佐藤さんは毎月来られた。『ひょうきん族』『いいとも』等を抱える超売れっ子テレビマンなのに、未熟なレッスン生相手に助言しに毎月訪れるのだ。



 前編で触れた、演芸場に通って若き日のツービートを見つけたように、多忙極める立場になっても新しい才能を探して回る。

無名の米米クラブや聖飢魔Ⅱ、をライブで見て、自身が立上げた深夜番組『冗談画報』でテレビデビューさせ、ライブで見つけた清水ミチコさんを「女タモリ」として『いいとも』で売り出す。



 別のテレビマン、『5時に夢中』のプロデューサーも「おもしろい人がいる」と聞けば必ず見に行き、当時無名のマツコ・デラックスやミッツ・マングローブを見出した。売れてるタレントを起用するのではなく〃発掘〃するという共通点がある。また、発掘した多くのタレントが有名になっている。



「佐藤さんはいつ寝てるんだろう」と20歳の私が不思議に思うほど、30代後半の佐藤さんは仕事、タレント発掘、人と出会う酒席で多忙に見えた。



 私はコンビを組み、佐藤さんから「君たちは毎月見るたびに良くなるなあ」と言われ、事務所のオーディションから僅か1年で『いただきます』で毎日テレビに出られるデビューを果たしました。



 87年に『笑っていいとも!』のプロデューサーに就任した翌88年に十二指腸潰瘍になり、胃の3分の2を切除。



「会社の上と下とスポンサーの板挟みというプロデューサーのストレス」と言っていたが、多忙(それとお酒?)の影響もあったと思います。私たちもお見舞いに行くと、病室はタレントからの見舞い花で溢れていた。「たけし」「さんま」と有名な名前が並ぶので、「いったい誰が入院してるんだ?」と看護師たちに噂になったとか。



 入院中、『いいとも』のタモリ、さんまのトークコーナーで「おいしいんだかだァ~」と佐藤さんの口癖を真似されたおかげで、タモリさん画のサトちゃんシールに30万通の応募があるほどの人気者に! 退院後には何度か出演して、ひょうきんディレクターズの時より人気が出て取材も殺到。スタジオアルタから出たら人に囲まれ、タモリさん、さんまさんが佐藤さんを警護したという。



「入院中の私にエールの気持ちで私をネタにしてくれたのかもしれませんね」



 これほどタレントから慕われ感謝され(ネタにされ)たテレビマンは他にいないだろう。





◆【次世代の笑い・アイドルの笑い】



「若いディレクターを育てないと、忙しくて私は死ぬ!」と、スタッフ育成と次世代のひょうきん族を作るため、深夜で『夢で逢えたら』を立ち上げる。ダウンタウンはすでに関西で人気、ウッチャンナンチャンも関東で売れ始めていたが、『夢で逢えたら』から『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』『ダウンタウンのごっつええ感じ』とそれぞれにつながる流れがなければ、実力溢れる2組の長期に渡る活躍は今とは違ったのではないか。



 当時の佐藤さんは『いいとも!』週5本に『いいとも増刊号』等、プロデュース番組が10本近くもあった。



『SMAP×SMAP』に関しては、ジャニーズ事務所から「SMAPを平成のクレージー・キャッツにしたい」との要望があったという。佐藤さんは『夢がMORIMORI』でSMAPにコントを練習してもらい、『SMAPのがんばりましょう』を経て、96年『SMAP×SMAP』へとつながる。



 キムタクが古畑任三郎を演じたりという番組を見た当時の吉本興業のマネージャーが「芸人のやる場がなくなる」と危機感を抱いたほど、SMAPはおもしろいグループになった。



◆【晩年の思い出】



 佐藤義和さんの関わった仕事は前後編に記したものだけではないが、常に新しい人材、新しいバラエティーという「新しさ」を作ってきたことが伝わっていただければと思います。



 50代後半の2005年にフジテレビを退社。私が再会したのはその数年後、芸人たちのライブ会場。佐藤さんはネタのダメ出しをしていた若手を観に来ていました。まだ発掘と育成をやられていたのだ。

それ以来時々、私を自宅に招いてくれて、フリーとして手掛けている番組(ヒット作とはいかなかったが)や映像を見せてくれた。



 その数年後、突然に沖縄移住。驚いた私が数年後に旅行で訪ねると、沖縄暮らしを語ってくれて、「沖縄に来たら?」といつものゆったりした口調で言ってくれた。2015年、私は佐藤さんがいなければ移住はしなかったろう。



 佐藤さんは沖縄でも人との出会いを重ねていたようで、ある酒席に呼ばれて私が出向くと、沈む夕陽が見えるホテルのテラスで沖縄の方々と仕事やテレビの話を満面の笑顔で交わしていた。「人生はおもしろいね」とほろ酔いの赤い顔で私に笑った楽しそうな表情が忘れられません。



 時おり電話をして、佐藤さんと話をしていたが、昨年は「今、病院なんだよ」と話す日もあった。今思えば、もっとお話相手をしていればと後悔ばかり。多くのタレントや元タレントが心の中で感謝していると思います。





【著者プロフィール】



松野大介(まつの・だいすけ)



1985年に『ライオンのいただきます』でタレントデビュー。その後『夕やけニャンニャン』『ABブラザーズのオールナイトニッポン』等出演多数。95年に文學界新人賞候補になり、同年小説デビュー。

著書に『芸人失格』(幻冬舎)『バスルーム』(KKベストセラーズ)『三谷幸喜 創作を語る』(共著/講談社)等多数。沖縄在住。作家、ラジオパーソナリティー、文章講座講師を務める。

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