「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げた陸軍青年将校が1483名の下士官兵を率いて、政府要人を襲撃惨殺、首相官邸等帝都中心部を占拠した。天皇は激怒、叛乱軍鎮圧を命じ、首謀者らは非公開裁判を受け処刑された。
で、二.二六事件とは、なんだったのか⁉️ 昭和、平成、令和と「維新」を唱える心性は、個人の理念とどう響き合ったのか⁉️ 青年将校が組織化したテロの行く末は、ただの悲劇として了解するほど、万世一系の国体が「あの当時」盤石でなかったとしたら。“タイム・ダイバー”猫島カツヲが、85年前の今日、1936(昭和11)年2月26日に潜入するのだニャン。
◼︎「涙のファシズム」という偽りの感動悲話
バブル最盛期、貧しい親子をダシにした蕎麦屋の物語がメディアの話題を独占した。日本中が一杯食わされた、お涙頂戴の与太噺を、タモリは「涙のファシズム」と看破した。特攻隊を「涙の神話」にしようとする企ては後を絶たない。
ちょっと油断していると柳の下のドジョウを狙って、懲りない輩のゼロ戦サギが出回る。英霊と呼び、靖国神社に参れば、免罪される約束だ。二百万余の兵士の死は、その死を命じた無責任な神様の命と等価交換となった。商売のために都合よく創作され続ける悲劇は、史実の転用、感動の悪用だ。
自らの決意に基づくとはいえ、予め挫折することが定めだった二・二六事件もまた、「あの時代の悲劇」のレッテルを貼られている。決起した者たちが最も望まなかった結果をもたらしたことで、その悲劇性は一層深まる。
青年将校の義挙と挫折、絶望と悔恨に散った悲劇は「そこから日本は戦争に向かった」という寓話のカタに嵌められる。特攻隊と同じくエンタメ化され、観客を感動の思考停止に導く。背景も真相も知らせる必要はないから、「暗い時代のはじまり」で括ってオシマイだ。教科書の暗記項目は、数行で結末を正当化する。青年将校の霊魂は成仏することなく、ますます腐りゆく祖国を見ている。
ポピュリズムの通奏低音は耳に心地よい。今も昔も進軍ラッパはメディアが吹く。二・二六事件は突発ではなく、明治大正から暗殺テロを繰り返して行き着いた、昭和維新のエピローグだ。日中衝突は始まっており、世界は史上最大の戦争に向かっていた。暗殺者を英雄視して浪花節を唸った新聞も、イケイケどんどんの戦争を提灯行列で囃した国民も、共犯だった。
政党も財閥も官僚も軍人も、一緒になって地獄の釜の蓋を開け、下々だけが死なばもろともの総力戦体制に絨毯を敷いた。
戦争美化エンタメは、プレーヤー目線にカメラを置いて、見る者を現実から引き離す。血に塗れ蛆に喰われて死者の尊厳すら奪われる下級兵こそ、モブでしかないオマエ自身だというリアルの認識を奪う。いつの間にか当事者となって、無念の涙を流したくなければ、偽りの感動悲話に騙されてはだめだ。
◼︎「君側の奸をぶっ殺す!」というソリューション

第一次世界大戦前後の世界は狂騒と動乱に満ちていた。不安と危機感は世に蔓延、国家社会の革新を目指す思想が実力行使を駆り立てた。日清日露、第一次世界大戦で戦勝国となった新興軍事国家は、国家も社会も未成熟で、政治は腐敗、財閥は悪辣、政財官・華族の特権階級が君臨跋扈し、世は不公正不平等の惨を極めた。
当時の青年たちは「めちゃくちゃな世の中」を嘆き、激しく憤っていた。
国家主義、民族主義、共産主義、民本主義、無政府主義と天皇論が交錯し、日本独特の革新思想を産み出した。昭和維新は青年将校の行動のテーゼとなった。それを支えたエナジーは「腐ったこの世に対する憤激」、ソリューションは「君側の奸に天誅を下す(悪いやつらをぶっ殺す)」ことだった。
いまだに右翼界隈で人気の高い「青年日本の歌」(昭和維新の歌)は、漢籍や他歌からのパクリ&コピペに過ぎない。
干されていた老将たちの権力への執着と思想家・煽動者たちの野望がからみあい、ナイーブな若者の純情と血気が利用された。天皇のとりまきを始末すれば、大御心が世を照らし、昭和維新が訪れる。人間宣言の9年前、大元帥は超現実的な現人神だった。
実は彼もまた人の子、親しき重臣を殺されれば怒り悲しみ、自らが脅かされることも恐れるだろうという想像力は青年将校たちには持てなかった。とはいえ、尊崇はかたちばかり、統帥権の名のもとに仕組みとしての天皇を使い倒していたのは、明治憲法下の陸海軍中枢だった。
◼︎「永遠にゼロ」という無駄死への疾走

士官学校は理数と語学偏重で、皇軍カルトは政治も社会も教えなかった。頭はよくても視野は狭い、どこか病んだ神童たちが、軍服を着たモンスターとして大量生産された。我ら天皇の軍隊、天下に恐いもの無し。
血盟団、五・一五、相沢事件と続き、先輩たちがバリバリ殺して英雄になったなら、師団ごと満州に左遷される前に俺たちはもっと上をいけと、天皇の兵隊を無断で使って決起した。
話の分かる風をした老将軍たちに後ろ盾を恃んだものの、風向き変わってアッサリ見捨てられた。
天皇の身柄をおさえて逆転ゴールを狙ったが、やり抜く度胸が土壇場で萎えた。青年将校は青かった。哀れ歴史の必然コースに乗せられていたが、その自覚を欠いていた。
テロルの時代は真っ逆さまにクラッシュ、絶望の中、死刑となった。その屍を踏み越えてボールを拾ったのは日本中の秀才を集めたチーム東條(英機)だった。彼らが国家乗っ取りを急いでいたのは、これまた悲劇の上塗りだった。やりたい放題のヒトラー閣下を、指をくわえて見てはいられない。
青年将校が夢見た昭和維新の春の空はB29が埋め尽くした。全能感に憑かれた参謀たちが見た束の間の旭日は、自国他国の兵隊人民の血に染まった真っ赤な夕陽だった。赤紙一枚で奪われた息子は海の藻屑となり、父は密林で飢えて死んだ。後に続くと言う上官に見送られて、兄は特攻で散った。悲劇のトッピングは全部乗せマシマシだ。
天皇陛下万歳は死のマントラ、イスラム過激派も模範とする聖戦の号令となった。幾千万の下士官兵も国民も、巨大な悲劇の巻き添えで死んだ。「永遠にゼロ」、それは無駄死にのことだった。
◼︎最強米軍に陣取られた帝都では「文春砲」のみ炸裂
国体、統帥権、八紘一宇、昭和維新、国家改造…その意味を述べよと言われても、もう誰も答えられない。
政官汚職と無為無策、やらずぼったくりでカネにモノ言わす世の腐敗、お上の言いなりで世論もでっち上げるメディアの退化は止まらない。もはや咎める者もなく、差別と貧困は蔓延し、階級格差は固定する。パワハラ、セクハラ、モラハラ、虐待、ヘイト、特殊詐欺と、かたちを変えた暴力は静かな日常に潜み、悲しみと怨念は蓄積する。ならば、昭和一桁のおどろおどろしい時代と比べて、いま何がよりマシなのか。
維新という言葉もスッカスカに軽くなった。迷惑系ユーチューバーが令和ジャパンの青年将校だ。中高年の匿名ネット右翼が憂国の烈士だ。狙った獲物のお命頂戴、成敗するならバーチャル、異世界でヤル。二・二六を捻りつぶしたミリタリーエリートが国家をまるごとハイジャックした。世界相手に戦争計画を弄び、兵隊をコマにして消尽した。国民を見殺しにして、国土を焦土と化した。皇国を属国に貶めて、涼しい顔で生き延びた。SFアニメでもシューティングゲームでもない。ついこの間のリアルな日本だ。
二・二六は遠いようでいて、近い。青年将校を育んだ瘴気は再びこの国に満ちている。毒ガスに色はついていない。空気を読んでも自分の臭いには気づかない。自分の顔色は見えていない。白い雪を赤く染めた二・二六は、日本を国防色に塗り替えた。85年後の日本はいま何色だ。凸チューバーやネトウヨは、弱い者を追いかけまわしても、強い者にはケンカを売らない。一見平和な曇り空に文春砲がドカンと放たれ、翌週にはもう忘れられている。
下級兵が非を認めることばだった「忘れました」は、上級国民の責任を阻却する呪文「記憶にございません」となって久しい。
◼︎「気分で殺して、希望は死刑」が令和維新

決起将校すら攻めあぐねる令和日本の不感症には、冷血な統制派も血の気を失う。不埒な議員、厚顔な官僚のアンサツを謀るテロリストなど、もういない。その代わり一匹の怒れる黒い羊が30人以上のとなりの誰かをたやすく殺戮する。徒党すら組めない時代には、共に蹶起する同志も、一緒に死んでいく戦友もなく、同人イベントに「ぼっち」が蝟集する。自意識と実力が乖離を続ける日本は、眼高くして手低し。ゲームの中では主人公でも、実人生では何者にもなれない。その鬱屈が沈殿分離する。
敗北の代償として遺されたそれが決起の変異ならば、二・二六の遺伝子はすでに環境適合を遂げている。年々犯罪が減少する社会では、テロの動機も失われ、ただ「ぶっ殺してやる」だけが、定まらない標的に向かう。地味に確実に、津山三十人殺し(1938年死者30人)よりも簡単に、池田小(2001年死者8+負傷者15)、秋葉原(2008年死者7+負傷者10)、相模原(2016年死者19+負傷者26)、京アニ(2019年死者36+負傷者34)…と虐殺の記録は更新される。
テロ等準備罪におけるテロの定義たりえず、凄惨な結果は防御不能だ。理由らしい理由は無く、殺すなら「だれでもよかった」。
「気分で殺して、希望は死刑」が令和維新だ。
裁判は儀式で、死刑は執行。真相は闇も伝統だ。
アメリカでは、キレた高校生が自動小銃をぶっ放す。
日本では、小学生が「うっせぇわ」と歌う。
平民ジャパンに告ぐ。
そろそろ、また青年将校がやってくる。
彼らは同じパタンで攻めてはこない。
悲しみと憤りのマグマが溜まり、地底で疎外されている。
個人の狂気は時代の凶器だ。
世直しの定義と悲劇のカタチは時代とともに、変化する。
お涙頂戴されている場合ではない。■