職場には「この世から消えてほしい」とさえ思うような嫌な上司がいるものである。そんな上司を排除できるのも、「悪の対話術」を身につけてこそ。
■観察眼を鍛える
言葉のなかで、一般的に評判が悪いのは噓とお世辞だと思います。
お世辞も広い意味では、虚偽に含まれるのですが、噓というのは、言葉の根本的な問題ですから軽々しく扱うことが出来ません。ここではまずお世辞について考えたいと思います。
お世辞はなぜ嫌われるのか。
それはお世辞が、ごく単純に、相手の歓心を買う行為であり、あからさまに魂胆をさらすことが恥ずかしい、見苦しく思われるからでしょう。
たしかに、非常に下手な、見え透いたお世辞を云う人を目の当たりにすると、ウンザリするものですし、さらにそんなことを云われていい気になっている人を見ると憐(あわ)れみすら覚えることがあります。
あるいはかなり厭(いと)わしく思っている人にたいして、不用意に追従(ついしょう)をしてしまう、ついついあからさまな迎合をしてしまった時には、誰だって、厭(いや)な気持ちがするものです。
こういうことを書くと、自分はそんな思いはしたことがないとか、どんな時にもお世辞は云わない、と決め込んでいる人がよくいますが、本当にそう思い込んでいるならば、それは対話について考える資格がそもそもない。心にもないことを云って、「正直な自分」を巧く売り込もうとしているのであれば、面白いとは思いますが、ただそういう手管(てくだ)は、かなり高度な技術が要求されますから、なかなか説得力をもつのは難しいと思いますけれど。
話を戻しますが、ある意味ではお世辞ほど言葉のやりとりの妙味を象徴しているものはないと思います。そこに話すことの困難が集約的にあらわれていると云ってもいい。
例えば、私は、文壇というところに棲息しているのですが、この世界は、なかなかお世辞が発達した世界です。作家というのは、小説などというものを書いているくらいですから、みな自意識過剰で、虚栄心が強く、その上猜疑心(さいぎしん)まで発達しています。何かいいお爺さんのような顔をして、俗世と縁を切ったような顔をしている人がたくさんいますが、騙(だま)されてはいけません。白紙にむかって文章を書くという孤独な作業は、枯れていたらとても出来るものではないのです。
そういう世界ですから、社交というのはなかなか大変なのです。作家同士にしたって、批評家や編集者の間だって、まことに微妙、かつ繊細なお世辞が飛び交うことになります。
無論「面白かった」だの、「感動しました」だのという月並みな世辞は許されません。腕によりをかけて、著者が一番褒(ほ)めてもらいたそうなことを云う。それが的確に云えてはじめて、一人前の文壇人と云えるのであって、私は正直な感想を云います、なんて開き直っている奴は、ただのナマケ者にすぎません。あるいは甘えているだけです。
まぁ、文壇はいきすぎかもしれませんが、どんな世界でもそうでしょう。力をもっている、エネルギーと魅力にあふれた男たちは、みんな褒められ慣れていて、追従に浸っている。
芸を磨いて、どうやって海千山千のつわものを喜ばせるか、そこのところを努力するのが、旺盛に生きる者のなすべきことです。世辞のために策を弄(ろう)するなんて恥ずかしい、などと青臭いことを云っていては、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの世界で自分の道を切り開いていくことなんか出来ません。
どうお世辞を云ってやろうかという意識をもって相手を観察してごらんなさい。彼に欠けているのは何なのか。彼は一体何に得意を感じ、何に不安を感じているのか。彼は、自分のもっとも際立ったところを褒められると喜ぶタイプか、あるいは自信のないところを褒めてもらいたいタイプか。どんなに落ち着き払った、浮ついたところのない大人でも、その一点で褒められると有頂天になってしまうというところがあるものです。
そこをじっくりと凝視して、作戦を立てることは、相手の歓心を買うというメリットだけではなく、非常に具体的な人間観察の機会にもなるのです。
お世辞というのは、かように面白いものなのです。
無論、お世辞にもいろんなタイプ、種類があります。
例えば、私の友人が、そこそこによくやっているのだけれど、まったく評価を受けていないプロジェクトを進めている学者にたいして、その成果を言葉を尽くして褒めちぎったことがあります。まあ、彼にはその人と巧くやっていく必要があったのですが、その瞬間に学者氏の顔が喜色に染まっていくのを見て、恥ずかしいほどだった、と彼は云っておりました。一撃にして相手を手中にしたというところでしょう。
もっともこういう鮮やかな攻撃は、学者とか役人といった世間をあまり知らない人にたいしてしか望めません。むしろ通常ならば、いささかぶっきらぼうに、ほとんど無愛想な雰囲気で、さもいやいや認めるように相手の近ごろの仕事ぶりを褒めるといった微妙なニュアンスを用いた方が説得力があるでしょう。
お世辞というのは、時に軽蔑の表現にもなります。というよりも、お世辞はつまり、あからさまに、心にもない賛辞を呈することは、時にもっとも優れた軽蔑の表現でありうるのです。
例えば、パーティなどで、まったくどうしようもない、尊敬はできないどころか口もききたくないような作家と二人になってしまって、一言も口をきかないわけにはいかない、という状況がよく生じます。ここで、フン、とばかりに視線をそらして立ち去るのは、小娘の所業です。
かといって、いきなり悪罵をなげつけること(それはそれで、かなり魅力的な行為だとは思いますが)も出来ないような雰囲気を場所が覆っているときには、心にもないお世辞を手短に、切りつけるのがいいのです。
このごろ営業成績が伸びないことが話題になっている会社の販売担当に、あい変わらず手堅い御商売で、と云って去る。手堅い=さえないと気づいても、その言葉だけでは大っぴらに怒るわけにはいきません。一瞬、相手を当惑させながら、時とともに見くびられたと屈辱感を湧かせるようなお世辞を考案することは、何ともスリリングな楽しみではないですか。
■攻撃のための手段
かようにお世辞は最高の軽蔑の表現になるわけですが、さらに有効な攻撃の手段、刃(やいば)にもなります。
お世辞は、狙いすまして用いれば、相手の心臓を深く突き刺し、止(とど)めを刺すことが出来るのです。
例えば、あなたが非常に嫌っている上司がいるとします。生理的にも、人格的にも我慢出来ない、何とかこの世から消えてほしい、と思うほど嫌いである。と同時に、様々な実害を被っている。
こういう相手にたいして、あなたはどうふるまうべきか。表立って非難する、職場の世論を糾合(きゅうごう)して失脚させる、といった正面からの攻撃もありうるでしょう。こうしたやり方は、たしかに正攻法ですし、成功すれば気分がいいでしょうが、しかしなかなか現実には出来ません。彼の及ぼす被害が、きわめて鮮明で周囲からも了解されていて、なおかつ彼自身の存在が会社にとってさほど重要ではない、むしろ重荷である、というような条件があってはじめて実現できるものですし、そうであったとしても、主唱者はそれなりのリスクを被ることは覚悟しなければならない。
では、手を拱(こまね)いているのか。それも業腹だから、お茶にゴミを入れたり、備品を隠したり、陰口メールを流したり、といったイヤガラセで抵抗しますか。たしかにこういう攻撃は、馬鹿に出来ない効果をあげることがあります。周囲の批判的な視線に無頓着なタイプでも、自信を喪失し、大きなストレスを味わうでしょうし、その心労がきっかけとなって、病にかかったり、あるいは大きなミスを犯すかもしれません。
しかし、どうでしょう。こういうイヤガラセというのは、どうにも下品ですし、実際みなさんも、ちょっと考えてはみても、やる気にはならないでしょう。まったくエレガントではないですね。お茶にゴミを入れるくらいならばまだヒ素を入れた方がましだ、などというと穏当を欠きますが、毒を盛る方が堂々たる人殺しという意味ではまだしも、という気がします。チェザーレ・ボルジアのような、洗練の極に達した毒殺犯もいますし、イヤガラセというのは、どうしたって品性下劣になってしまう。それに万一露見したら、人前を歩けません。
正面から戦うわけにもいかず、イヤガラセをするほど卑しくもない、となれば、一切戦う手段がないのか。
そんなことはありません。こうした状況において、もっとも有効な武器としてお世辞があるのです。

なぜ、お世辞が武器になるのか。それはお世辞を巧妙に投げかけることによって、相手を無防備にさせることが出来る、認識を誤らせることが出来るからです。
何に無防備にさせるのか、相手の弱点にたいしてです。攻撃目標にとっての致命的ともいえるような弱点についての認識を狂わせる、意識をさせない、助長をする、ということがお世辞には出来る。
例えば、明らかに説明能力、職場でのコンセンサスを作るのが下手な上司がいるとします。そして、あなたが彼を排除したいと思っているのならば、その点について彼が抱いている不安を、徹底して払拭するような言動を彼にたいして取るのです。ただし、そういうことを第三者がいる時に云うと、こいつは何を勘違いをしているんだ、と思われます。
彼はおそらく自分の能力の欠如に気がついていて、何らかの手を打たなければならない、やり方を変え、あるいはスキルを身につけなければならない、と思っているのでしょうが、内心では、どこが悪い、おれのやり方の何が気に食わないんだ、と思っているはずです。
そういう時に、あなたが、彼のコミュニケーション能力を高く評価するような言動を、ことあるごとに取ったら、どうなるでしょうか。例えばあなたが若い女性なら、ボーイ・フレンドにも見せないような笑顔で(まぁ、だいたい恋人同士というのはよほどお目出度くない限りはほほ笑みあったりしないものですが。第一気持ち悪いですし)、深い信頼感を表明しつつ、係長のプレゼンは、いつもとても理解しやすい、勉強になる、等と云うのです。
そうすると、愚かな彼は、自分にたいする不安を、あなたの顔などを思い浮かべながら簡単に打ち消し、それどころか彼にたいして殺意を抱いているあなたに強い好意をもち、さらにはあの娘はオレに気があるんじゃないか、などという噴飯物の妄想を抱いて幸せな気分になるのです。
あまり幸せになって、ストーカーまがいのことや酷いセクハラなどをされると困りますが、大体において、お世辞を攻撃の手段に使うほどの意識の高さがあれば、そういう事態は避けられるものだと思います。
こうして、あなたが、彼がリカバーする機会を消し、彼がその欠点からミスを犯した時にも、庇(かば)うそぶりを見せて反省の機会を与えないのなら、彼は早晩そのポストを失うことでしょう。
少し観察眼と頭脳を働かせれば、こういう機会がたくさんあることに気づくと思います。上滑りになっている人間を、より調子にのらせて破滅に追い込むことなどは、たやすいことです。しかも企みはまったく露見しない。
改めて申しあげますが言葉とは、人と理解しあったり、融和したり、慰めあう玩具ではありません。それは戦うための武器であり、争うにしろ、愛するにしろ、傷痕を残さずにはおらない刃なのです。
■真意を見せぬ物腰
かなり刺激的なお世辞について述べてきましたが、もっとソフトな、柔らかいお世辞というものもあります。
柔らかい、というと解りにくいかもしれません。より具体的に云えば、どうでもいい、ということになるのでしょうか。
どうでもいい、と云うと、まったく無駄なというか、注意を払うべくもないことと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。むしろ、攻撃のお世辞などよりも、余程大事なことです。
大体世の中は、ほとんどがどうでもいいことで出来ています。どうでもいいこと、と云うと無責任のように思われるかもしれませんが、特筆すべき意味も、印象もないこと、と云えばいいでしょうか。
ちょっと昨日の、あるいは先週のある一日を思い返してみて下さい。その中で、すぐに思い出す出来事なり、印象なりというのは、かなり少ないのではないですか。
今さら云うまでもないと思いますが、人はほとんどの時間を、特に意識するほどでもない、無意識的に送られる日常性のなかで過ごします。
ところが、これも少し考えていただければ解ることだと思いますが、その日一日を過ごしての気分というか、全体的な印象の良し悪しというのは、何らかの特記すべき事態によって形作られるのではなくて、むしろ記憶にすら残っていないような些事(さじ)の連鎖によっているのではないでしょうか。
といった認識に立つならば、自(おの)ずとお世辞についても、かようなアプローチにふさわしい、雰囲気を醸成するようなタイプの使い方がある、ということが解っていただけるのではないかと思います。
挨拶の受け答えのなかで、単なる社交辞令とは異なった形で、しかしまた特に強く強調するわけでもなく、服装とか容貌とか、あるいは最近のその人の行動や活動を称賛する。しかしその称賛は、あくまでも会話や行動の流れを断ち切らないものとして、なされなければならない。
と云うと、単なる潤滑油みたいなものだと思うかもしれませんが、それだけではありません。こうした軽い言葉が、相手のあなたにたいする全般的な印象を決定することは、往々にしてあることです。単純な相手ならば、あなたの称賛に気持ちをよくし、もっとあなたに会う機会を増やしたい、長時間しっかりと褒めてほしい、などという妄想を膨らませるでしょうし、やや考え深い相手であれば、なぜこの人は自分をこのように褒めるのか、その魂胆は何なのかと、ごく軽い警戒感を抱くでしょう。
せっかくお世辞を云って、警戒をされては仕方がない、と思われるかもしれませんが、世の中はそう単純ではありません。
世間で暮らしていくためには、周囲に適度の緊張感を維持するのは、大変大事なことです。油断させて、無警戒にしておくべき相手もいますが、一般には適度に警戒をさせた方がよろしい。つまり、この相手に迂闊(うかつ)なことを云ったり、やったりすると、とんでもないことになるのではないか、恥をかかせられるのではないか、しっぺ返しを食うのではないか、などという印象を与えておくのは、大事なことです。
特に現在のように、職場などが経済情勢などによってともすれば荒廃した雰囲気にある場合は、なおさらそのような緊張感を与えることが大事ですね。つまらないいやがらせを受けたり、あるいは配転、さらにはリストラの対象などにならないためにも、ある程度の緊張感を相手にもたれるということが必要です。
緊張感をもたせるにも、いろいろなやり方がありますね。凄(すご)む、脅す、能力やコネなどをひけらかす、といったやり方が一般的ですし、もちろんケース・バイ・ケースで、これらのやり方は、大きな効果を発揮するとは思いますが、いずれにしてもかなりストレートであって、場合によっては激しい反発を引き起こすことも少なくありません。
それに対して、お世辞による警戒というのは、相手が相応に意識的であり、敏感である場合に限るとはいえ、表面的には問題化しにくいという特性があります。第三者からも、多少不審の目で見られる場合があったとしても、問題として捉えられる可能性は低いものです。
ただし、この方法は、相手を選ぶとともに、かなり高等な技術を必要とします。こういう話は、あまり漠然としていても話が通じにくいので、例をあげて話させていただくと、ソニーの音楽ディレクターで、酒井忠利さんという方がいます。あの山口百恵を育てたとかいう。あの人がテレビに出ているのを見ていると、いかにも心にもないという感じの賛辞ばかりを喋っていますね。タレントの誰それは素晴らしいとか、感動しましたとか、努力に敬服します、とかばかり云っている。
けれどそれが、いかにもテレビ的な当たりさわりのない発言とか、迎合した言葉、というように見えないのです。
一つ一つの発言が、心にもないものであるということは、はっきりしているのですが、ぜんぜん間抜けに見えないし、軽薄にも見えない。自信に満ち、落ち着いた表情でお世辞を口にする姿からは、何とも云えない存在感が浮かんできます。
こういう人は、何を考えているか解らない、怖い人だ、という感じが伝わってきますね。
きっと彼の部下なり、スタッフも、彼にたいしてはかなり緊張をもって接しているのだろう、と想像されます。怒鳴り声一つ上げずに、場を引き締められるのであれば、これはたいしたものですね。
どんなに大声を出しても、あるいは乱暴な言葉をはいて叱咤(しった)をしても、自分のスタッフを掌握し、緊張感を醸成することの出来ない人はたくさんいます。
柔らかな物腰で、心にもない言葉を発しながら、周囲を緊張させることが出来れば、こんなにエレガントなことはないのではないでしょうか。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』の本文から一部抜粋)