日本で公開される洋画に必ずと言っていいほど見かける名前がある、“字幕 戸田奈津子”。映画字幕翻訳の第一人者として、実に2000本近くの映画字幕を制作してきた。
連載「Over80『50年働いてきました』」。22人めは、約半世紀もの間、ひたすらに映画字幕に携わってきた1936年生まれ89歳——。
■この女性はまさに変態だ
映画字幕翻訳家のレジェンド・戸田奈津子氏(89)を取材したその日、筆者は電車に乗って取材場所に向かったのだが、“変態”についてのある中学の入試問題を社内広告で目にした。そこには、建築家の小堀哲夫著の『建築家のアタマのなか』から抜粋されたセンテンスの中に、氏が考える変態とは何かが記されていた。
(以下抜粋 出典=日能研2025年額面広告より)
なぜ建築家には空想力が必要なのか(中略)。人を感動させられる“場所”をつくるのには空想力が必要だと思っている。空想と想像にはちがいがある、空想には変態さがある。この言葉を誤解しないでほしい。辞書を引いてみると、変態の言葉の意味の一つに――ふつうとちがう状態。一ぱん的な感覚からかけはなれた趣向・方向性という意味でこう定的に用いられる場合もある(中略)。僕が言いたいのは、この辞書にあるように、自分の感覚や欲求、しょう動を純すいに、どん欲に追い求めていくことだ(後略)。

建築家と字幕翻訳家の差はあれど、戸田さんの仕事人生を伺った時、この広告を思い出した。
自分の感覚や欲求、衝動を純粋に、貪欲に追い求めてきた、いい意味での“変態”そのもの。だからこそ人を感動させられる作品を生むことができた。
■一生に一度きりの“宮仕え”は1年半で終了
戸田さんは1936年生まれ。日本の敗戦で幕を閉じた太平洋戦争の終結は、9歳の時。戦後の暗い時代に、幼かった戸田さんを魅了したのはハリウッドなどの洋画だった。
「親戚の叔父や叔母に連れられて、映画館へ見に行きました。キラキラした夢の世界に圧倒されて夢中になったんです。でも、娯楽のない当時の日本人はみんなそうでしたよ」
長じて、大学4年間のほとんどを映画館の中で過ごした。それぐらい映画が好きだった。
しかし、戸田さん曰くそんな“呑気”な時代は続けられない。父は日中戦争で戦死。職業婦人だった母の頑張りもあって生活に困窮してはいなかったが、自分の食い扶持を稼ぐために就職をしなければならない。
しかし好きな映画関係の仕事はおいそれとは見つからなかった。
「大学卒業後、保険会社に1年半ほど勤めたけど、あまりにもつまらなくて辞めました。宮仕えは生涯でその一回きり。組織の中での面倒な人間関係に巻き込まれて仕事をするなんて、私には無理でした。基本的に協調性がないのよ」と笑う。
そもそも一人っ子で、母と二人だけで気ままに暮らしてきたので、いわゆる“宮仕え”と呼ばれる会社員生活は窮屈で退屈で仕方なかったのだ。
ただ、会社を辞めても英語の翻訳などアルバイトはたくさんあった。当時、字幕翻訳家の第一人者だった清水俊二氏に師事して字幕翻訳家をめざすが、なかなかその仕事には巡り合えない。その一方で30歳を過ぎてから、新しく日本で上映される洋画の記者会見の通訳を始めることに。
「英文科を卒業しているけど、当時は英会話を学べる環境は整っておらず、会話力はほとんどゼロでした。英語をしゃべる人材がいなかったうえに、映画の知識のある人間はさらに少なく、それで私が半ば無理やり駆り出された感じで。通訳としてはひどいものでしたよ」と当時を振り返る。

1960年代の日本はまだのんびりしていて、今ほど管理された時代ではなかったので、“ひどいでき”の戸田さんにも通訳の仕事はきた。映画に対する並々ならぬ情熱を持ち、努力を怠らなかったので、以来、思いがけず通訳の仕事が“意図せぬ本業”になった。
「経験を重ねるごとに、1ミリずつ通訳の技術が成長していきました」
■苦節20年も「楽しんでいたから苦しんでいない」
44歳になった時に、やっと字幕の仕事のチャンスが巡ってきた。
戸田さんの最大の転機となったのが、巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)。字幕翻訳者として、コッポラ監督自らが戸田さんを指名してきたのだ。
なぜ、戸田さんが抜擢されたのか?
「コッポラ監督がシンセサイザーの第一人者、冨田勲さんに映画音楽を依頼したのです。冨田さんが英語はあまりおできにならなかったことが、私には幸いで(笑)。だから冨田さんの通訳として、コッポラ監督のアメリカのご自宅に伺って映画のラッシュ(※)を見たり、撮影のロケ現場の一部を見させていただいたり。結局、冨田さんは契約の関係で音楽を手掛けることはありませんでしたが、通訳だった私を監督が気に入ってくださって。名指しで推薦してくださり、字幕の仕事が回ってきました」
(※)撮りたての未編集フィルムを関係者が見る。
まるで“漁夫の利”だったと戸田さんは言うが、“チャンスの前髪”をしっかり掴んだ。
ベトナム戦争映画の金字塔ともいえる同作品は、カンヌ映画祭で「パルムドール」、米アカデミー賞で「撮影賞」を受賞。
字幕翻訳者の戸田さんの名も映画配給会社の中に一気に広がった。巨匠が直々に指名した無名の新人が、超大作の字幕を手掛けてきっちり仕事をこなしたのだ。どの配給会社も英語の字幕は戸田さんに依頼するようになる。
20年待ってやっと念願の字幕翻訳者としてデビューできたが、そこに苦節の文字はない。
「私にインタビューする方々は、悲壮感を期待なさっているみたいだけど(苦笑)、そんな感じではないです。だって、それまでの仕事だって私は楽しんでいましたし、イヤな仕事など何ひとつやっていないんですから」と至って明るい。
そこからは、どんどんと仕事が舞い込んだ。否、どんどんという言葉では形容できないほどの依頼量で、なんと1週間に1本のペースで、一切、アシスタントも使わず、半世紀近くで2000本近い映画の字幕を手掛けた。大作だけを選り好みしているわけでなく、B級・C級といわれるような作品も担当した。
その傍ら、新作の記者会見の通訳も担当し、トム・クルーズやブラッド・ピットなどのハリウッドスターや有名監督のそばに必ずといっていいほど戸田さんの姿があった。
とにかくタフである。若い頃から好きなものを食べて飲んで、運動もしていないが、90歳近い今でも健康にはほとんど問題なし。
こんな体に産んでくれた親にとても感謝しているそうだ。
それも含めて、自分は運がいいと戸田さんは何度も口にした。
「映画の字幕の仕事は私と相性がいいんです。一匹狼のフリーランサーでやれるし、きちんと仕事さえして、クオリティの高い原稿を納品していれば、男女差別などありません。20年待ってやっと手に入れた仕事が楽しくて仕方がなかったですね」
■意訳・誤訳との批判もまったく気にしない
一時期はハリウッドや英語圏のどの映画を見ても、戸田さんのクレジットだらけの印象があった。順風満帆に進んでいるかのように見えた戸田さんのキャリアだが、昨今のインターネットやSNSの普及で、戸田さんの翻訳には「意訳が多すぎる」「誤訳がある」と叩かれた時期があった。どんな業界でも、出る杭は打たれてしまうのだろう。
しかし、本人はまったく意に介さない。
「字幕の場合、シナリオの英語をそのまま直訳すると理屈っぽい不自然な日本語になったり、その前に文字数制限をオーバーしてしまいます。いい字幕翻訳とは、映画の流れを邪魔せず、即座に理解できるもの。そこをわかっていない方が多いかもしれませんね。もちろん明らかな間違いは訂正します。
が、私は意図を持ってベストを尽くして字幕原稿をつくっているので、中傷まがいの指摘はまったく気にしません」
先述のB級・C級映画は、シナリオが杜撰(ずさん)な場合が多いので、前後の辻褄が合わなくて困惑する場合がある。勝手に内容を変えて辻褄を合わせるわけにもいかず、作品の出来が悪いと日本語字幕のせいにされることもある。それも手がける作品が多すぎるゆえの悩みだろう。しかし、悩みとも思ってないのが、戸田さんの強いところだ。
「エゴサーチはしないんですか?」と問うと、「それは何かしら?」と一笑に付されてしまった。
エゴサーチなどしてクヨクヨする時間があるのなら、前に進むべき努力をすべき、と断言する。
■王道よりケモノ道のほうが道は空いている
寄る辺ないフリーランサーだと仕事が順調な時は収入もいいけれど、仕事が減れば収入も減る。体を壊せば、たちまち仕事がなくなる。組織に属する人間には、そういったリスクはないが、フリーランサーは常に周囲の評価にさらされる。
戸田さんが進んできた道は、生活安定のうえでは王道ではなく“ケモノ道”。大変なことも多かったけれど、辿り着いた頂上の景色はとてつもなく美しかった。なぜなら通訳として世界の名だたる監督や俳優らと交友を持ち、いつも新しい映画に出合うから飽きることがない。いつでも刺激的な経験ができた。
「でもね、こんなケモノ道のほうが歩いていく人が少なくて空いています。いま活動している劇場映画の字幕翻訳者は20人ほどだけど、みんな違うルートから自分で道を切り開いてそこに辿り着いたの。『大手の会社だから』『給料がいいから』などと職業を選ぶ人が多いみたいだけど、そういう道は混み合っていて、先に行くのが難しそう。他人がどう言おうと自分の才能を信じて、好きな道を選ぶオプションも考えるべきです。そのほうが道は空いているし、楽しめるかも」
字幕翻訳の仕事が好き、映画の仕事が好き。その思いだけで半世紀を駆け抜けてきたので、結婚にはまったく興味が無く、独身を貫いた。
「だって、結婚より仕事のほうが断然魅力的だと思ったから。母子家庭で父がいなかったけれど、父は典型的な明治の男です。もし父が生きていたら『嫁に行け』と言われたかもしれない。そう思うと、母と二人暮らしで良かったなとも思います」と何事もポジティブだ。
齢(よわい)90近く。通訳は2年前に引退した。「通訳する際に適切な言葉が瞬時に出てこなくなってしまって。“あれ”とか“これ”とか指示代名詞が多くなっちゃったんです。そんな通訳じゃ申し訳ないと思って引退しました」というが、80歳を超えても、ちゃんと通訳をこなしていたのも驚愕だ。
一方の字幕翻訳は一時期に比べればスローペース。それでも最近はトム・クルーズ主演の『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』(2025年5月日本公開)や、コッポラ監督の『メガロポリス』(2025年6月日本公開)といった大作を手がけ、相変わらずその存在感を世に知らしめている。健康体を誇っている戸田さんだが、実は左目が見えない。でも、これも意に介さない。
「幸い、私にはまだ右目があります。最期まで仕事が続けられるよう、右目に頑張ってほしいと思っています」
■今ここで死んでもいい。人生に少しの後悔もなし
プライベートも充実している。
今年(2025年)は初夏のパリを1カ月旅した。地下鉄を使わず、気ままに街をブラブラ歩き、おいしいものを堪能する旅を楽しんだ。
旅は戸田さんの人生に欠かせない要素。最近では一人旅はさすがに心許ないので、年下の友人たちと夕食を伴にしたり、苦手なスマホを教えてもらってチケットを手に入れたりと、常にベッタリ一緒ではなく、束縛し合わない関係で旅を楽しんでいる。
「年を取ってくると友人が減るというけれど、友人は多いですよ。それも年齢が私より随分若くて、キャリアもおもしろい方たちばかりなの。一緒に食事をしたり、旅をしたり。お互いに刺激を受け合っている良い仲間と巡り合っていますよ」
最後に戸田さんはこう言った。
「今ここで死んでもいいぐらいです。途中で絶筆しても、誰かが引き継いでくれるから『どうしよう』なんて考えません。それくらい私の人生は楽しかったし、後悔することもありません」
なんともあっぱれな変態人生。
左目は見えないが、仕事をするには右目がまだ頑張ってくれている。戸田さんが字幕翻訳を手がけた映画を私たちはまだまだ見ることができそうだ。

----------

戸田 奈津子(とだ・なつこ)

字幕翻訳家

1936年7月3日福岡県生まれ。父の戦死後、東京・世田谷の母の実家に移住。津田塾大学英文科卒業後、保険会社の秘書課で英文翻訳などの仕事につくも2年弱で辞めフリーに。43歳のとき、フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』で字幕翻訳者として本格デビュー。その後、通算2000本近くの字幕翻訳をこなして日本の第一人者となる。最近は、トム・クルーズ主演『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』、F・コッポラ監督の最新作『メガロポリス』などで字幕翻訳を担当。

----------

(字幕翻訳家 戸田 奈津子 構成・文=東野りか)
編集部おすすめ