東京オリンピックも終わってみれば、新型コロナウイルスの感染爆発の第5波真っ只中。医療崩壊が叫ばれているなか、いまもデマゴーグが盛んだ。

評論家・中野剛志氏と作家・適菜収氏がは次のように語る。「新しい事態にどうやって対応するか。小林秀雄はこのことをずっと語っていた」「いまこそ良質な思想に馴染んでおくべきだ」と。まさにコロナ禍はこれまでになかった事態。国民あるいは言論人はこの未曾有の状況にどう身を処したか? コロナ禍でふたりが行った初対談集『思想の免疫力』が8月10日に発売(Amazonは12日発売)。新刊記念としてこれまでの対談を振り返り、再配信。対談第3回。











■なぜ「型」や「文体」は大事なのか?



中野:なぜ型とか文体とかが重要なのかというと、小林秀雄が何度も同じことをいろんな表現で書いているんですけど、抽象的に言うと「人間は環境の中にいて、環境と密接不可分な存在である。人が環境を作り、環境が人を作る」ということですね。近代合理主義の間違っているところは、環境と人を分離したことです。



 イギリス人やフランス人の人権はあるけれど、環境と関係なくはじめから普遍的人権があるわけではないというエドマンド・バークの保守思想の話も同じです。「文脈」「環境」「時」「場所」とかと関係なく人間というものはありうるんだ、というのは、近代合理主義の考え方に顕著な傾向です。

しかし、現実には人間は自分が生まれ育った場所など、あらゆる環境と密接不可分です。人間は確かに環境を変えるけれど、逆に、環境にも制約される。環境と個人とセットで自分だということです。これはまさにオルテガ・イ・ガゼットが人間を定義して「人間とは、人とその周囲の環境である」と言ったのとまったく同じです。近代合理主義の考え方をしているとそれが分からなくなってしまう。



 それを表現するのに、小林は「大理石にノミを振るう彫刻家」という喩えを好みます。この比喩は絶妙で、私は、ほんとに上手いこと言うなと思うんですけれど。大理石の硬さというのがあるから彫刻ができるのであって、大理石の硬さという環境の抵抗がなかったら彫刻という芸術は表現できないということです。彫刻は、単純に、彫刻家が自分の頭の中にあるものを大理石に投影してつくるものではない。大理石の硬さという抵抗があって初めてできるのだ、というようなことを小林は言っている。人間の個性もまた制約する環境とセットなんだということですね。







適菜:ニーチェも同じことを言ってます。

「自由」は闘争により勝ち取る過程において価値を持つのであり、抽象的な「自由」は人間に危害を加えると。ニーチェは人間は制約によって鍛えられるとも言います。



《しかし、人間という植物がこれまで最も力強く生長をとげてきたのはどこであり、いかにしてであるかを根本的に熟考してきた者なら、このことは以上(適菜註◎大衆)とは逆の諸条件のもとでおこってきたということを信ぜざるをえない。すなわち、そのためには人間の状態の危険がものすごく増大し、その発明・偽装の力が長期の圧迫や強制のもとで鍛えあげられ、その生の意志が、権力への、圧倒的権力への絶対的意志となるまで高揚されなければならないということ、また、危険、冷酷、暴行、心情におけると同じく路上での危険、権利の不平等、秘匿、ストア主義、誘惑術、あらゆる種類の奸策、要するに畜群の願望するすべてのものの反対が、人間類型向上のためには必然的であるということを》(『権力への意志』)。





中野:まさにそういうことです。小林秀雄が書いたことに沿って言うと、環境の制約と戦うことが「フリーダム」。そして、環境の制約から逃れることが「リバティー」です。







適菜:ニーチェの話につなげて言うと、人権天賦説などという言葉もあるように、近代人は人権や自由、平等といった概念を神格化してきた。抽象化されて概念になれば、それを操作して権力を握る連中が現れる。これがまさに教会がやったことです。ニーチェは、人間の生、固有の歴史から切断された概念を警戒しろと言っているのですね。ニーチェの言葉を使うと「大地」です。

《わたしの兄弟たちよ、あくまで大地に忠実であれ、そして、きみたちにもろもろの超地上的な希望について話す者たちの言葉を信ずるな! 彼らがそれを知ろうが知るまいが、彼らは毒害者なのだ》(『ツァラトゥストラ』)







■制約のあるところに「自由」がある



中野:小林は、環境に制約されないという意味の「リバティー」ではなく、環境制約の内にある「フリーダム」の方の「自由」について繰り返し語っている。私が非常に印象深かったのが、この対談の第二回で扱った「型」の話です。「型」がなぜ重要か。人間っていうのは環境の制約の内にあり、それと格闘するところに自由がある。環境の制約がなかったら自由もない。「型」とは、その自由の条件である環境の制約なのです。



 リバティーだけが「自由」だと思う人には分かりにくいかもしれませんが、環境の制約がないところに自由(フリーダム)はない。言い換えると、自分が選んだつもりでやったことと、環境に強いられてやったことが「一致」するときに、人間は充実感を覚える。それが、フリーダムなのです。小林が『モオツァルト』で書いたのはそういうことです。



 モオツァルトは即興を好んだ。即興っていうのは、環境の制約が特に厳しいわけです。

「今、ここで曲を作れ」ということですから。それにチャレンジすることでモオツァルトは曲を生み出していった。敢えて時間とか場所の制約を課して、その厳しい環境条件下で創造行為をやることに生きがいを感じていたのです。



 小林はモオツァルトの独創を論じて「模倣は独創の母だ」と言っている。模倣とは「型」の模倣ですから、これも環境制約と自由の話と同じことです。『モオツァルト』について小林は「俺があれで一番書きたかったことは自由という問題だった」と自分で言っている。だから、『モオツァルト』という作品は、小林の「自由論」なんです。しかし、『モオツァルト』を自由論として読んだ人って、どれくらいいるのでしょうか。



 小林が『モオツァルト』を発表したのは終戦直後ですけど、書いていたのは戦争末期で、書き終わったときには戦争が終わっていた。その戦争末期から終戦直後という、リバティーという意味では最も日本が不自由だった時期に、フリーダムについて書いてるんですよ。それが『モオツァルト』なのです。ところが、小林の近くにいた大岡昇平ですら、小林は戦争が末期になると「『無常といふ事』と『美』の世界に引きこもる」ようになったと批評している。

「実朝」以降、終戦まで沈黙したと言う批評家もいる。小林は、沈黙どころか自由について書いていたのですがね。そんな調子ですから、『モオツァルト』についても、芸術の世界に逃げ込んだものとみなされたのかもしれません。しかし、「『モオツァルト』で、俺は自由について書いたんだ」って小林自身が言ってるじゃないか。







適菜:大岡と小林は仲はよかった。大岡は高校生のときに、小林にフランス語を学んでいるんです。それで、小林の勧めで、小説を書き始めた。そういう関係だからキツイことも言う。大岡がテレビに出たときは「あの顔つきではダメだ」と一蹴したそうです。





中野:その大岡が、小林秀雄全集の解説でまったく逆のことを書いちゃったんですね。これほんとに恐ろしい話で……。





適菜:型の話に戻りますが、武道も芸能もすべては型なんです。

制約のないところに和歌は存在できない。音楽もすべてそうです。歌舞伎にしても能にしても全部型ですよね。言葉という表層的なもので伝達できないものを、型として引き継ぐのが教育でした。しかし、近代社会においてはこういう考えは不評で、「型にはめるな」とか「型を押し付けるな」などと教員が言ったりする。でも宣長が言うように「意は二の次」なんですね。だから、武道でも芸能でも、子供のときから型を教える。かつての素読でも意は二の次で、古典の原文を丸暗記する。小林はこう説明していますね。《暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう》(『人間の建設』)。型を極めたところに、型破りは成立するのであり、最初から型がなければ「型なし」です。小林は、「團十郎や藤十郎が、ひたすら型を究め、それを破ることにより技を得た。それはかつての学問のあり方と同じだ」と言っていますね。





中野:おっしゃる通り、書いてます。











■「意は似せ易く、姿は似せ難し」



適菜:小林が言いたいのは、結局、「型」はすべてにあてはまるということです。言葉や概念により、漏れ落ちるものを「型」をとおして「馴染む」ということです。型、姿、フォーム、トーン、文体、顔、立ち居振る舞い、箸の持ち方……。こうしたものが軽視され、概念、内面性、抽象が重視されるのが近代社会です。近代人はオリジナリティや独創を重視するけど、小林に言わせればアホの極みですよ。実際の物事にぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた知識など肝心かなめの役には立たないと痛感する経験を通してでしか、独創性に近づくことはできないと小林は言っています。





中野:そうですね。小林は本居宣長の言葉を引いてますよね。「意は似せ易く、姿は似せ難し」と。普通は逆に捉えるけれど本当は、姿の方が似せにくいんだよ、と。要するに、抽象的な言葉による意味だったら簡単に人に伝えられるけれども、個別の状況の下にある自分の実体験なんてものは、どうやっても伝えようがないじゃないか、と。





適菜:文体も顔も品も誤魔化せない。自ずとにじみ出てしまう。だから小林はそこを重視したんですね。





中野:そう、文体は誤魔化せないんですよ。恐ろしいですねえ。私が関心のある政治学で言うと、理論と実践について小林が語るところが面白いんです。小林を理解するうえで重要なのは、丸山眞男みたいに「小林は理論を否定した」と考えてはいけなくて、小林は「理論というのは、実践行為の中にあるんだ」と言ったということを押さえることです。実践は個別具体的なものだが、そこに理論がないわけではないということです。



 例えば、小林は宮本武蔵に感心するわけです。宮本武蔵が書いているらしいんですが、なぜ自分は一回も負けなかったかと。それは、精神とか兵法ではない。俺がなんでずっと勝ち続けたかというと、手先が器用だったからだと。単にそれだけ(笑)。なんか奥義とか極意とかって言って物々しく出てきた奴らが、手先が器用な俺に斬られてる、と。この話に、小林は感動するわけです。要するに、高尚な哲学めかして「理性」がどうたらとか「真・善・美」とか言ってるやつは、まったくダメだということですよ(笑)。





適菜:理性万能主義や「真・善・美」といった発想の危険性を指摘したのが小林です。小林は批評も手の技だと思っているので、宮本武蔵の手先の器用さに注目したのでしょう。小林はモオツァルトに関して、《大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である》(『モオツァルト』)と言いましたが、これは小林の自画像です。大事なのは手つき、タッチです。手の技が仕事を生み出すのです。











■なぜイチローのファンになったのか?



中野:『考えるヒント』に野球の話が出てきます。昔、豊田(泰光)という大打者がいたじゃないですか。その豊田が「俺はスランプだとか言ってる若いやつはバカだ」と言っていたという話は非常に面白い。体は、頭で考えている通りに動かない。「頭が理論で、体が実践だ」とみなし、「理論に従って実践が動いてる」と思っている人には分からないだろうけど、頭と体、理論と実践は、本当は密接不可分なもので、野球の名選手は、訓練と経験を重ねることによって、頭と体を密接不可分にしようと努力している。





適菜:陽明学でいう知行合一ですね。





中野:これが凡人には難しい。スランプというのは、頭と体、理論と実践がずれることなんですね。そういう豊田選手の話を小林は非常に面白がっている。そして、「そんなこと言ったら文学者の俺なんてしょっちゅうスランプだ」と言っているんです。それはまさに、切籠細工のように、こうじゃないああじゃないって文体を工夫している姿なんですよ。



 大打者というと現代ではイチローでしょう。5年くらい前にイチローが元プロ野球選手で解説者の稲葉篤紀と対談したのをテレビで見たことがあります。まだ現役でアメリカでプレーしていた頃です。イチローはグラウンドで座り込んで対談しているんだけど、休まず手首や首を回したりトレーニングしながら受け答えしてるんですよ。そのときに非常に面白かったのは、トレーニングに最短の道はあり得るかという話題になったら、イチローが「無理だと思う」と強く否定。そして、トレーニングの知識ばかりがあってもダメで、遠回りや失敗の経験がないといい野球選手にはならないという話をした後、ボソッと「合理的な考え方って、僕すごく嫌い」と(笑)。その一言で、私はイチローのファンになってしまったんですよ。





適菜:いい話だなあ。





中野:そうでしょ。やっぱり、どんな分野でも、道を極める人ってすげえなと思って。「合理的な考え方って、すごく嫌い」の一言で「イチローは偉大だ」と感動しました。





適菜:頂点を極めた人間はそういうことに気づくんでしょう。





中野:そうなんです。言うことはみな同じなんです。イチローもたぶん、宮本武蔵と同じで、体の動きのことばっかり考えてたんでしょうね。





適菜:小林は「眼高手低」についてこう述べています。《それは、頭で理解し、口で批評するのは容易だが、実際にモノを作るのは困難だといったほどの意味だ、とはだれも承知しているが、技に携わる人々は、技に携わらなければ、決してこの言葉の真意は解らぬというだろう。実際に、仕事をすれば、必ずそうなる、眼高手低という事になる。眼高手低とは、人間的な技とか芸とか呼ばれている経験そのものを指すからである》(「還暦」)



 バットの芯に球をあてるのも手の技です。それには球の動きを見なければならない。クロード・モネも理論が嫌いで、印象派とカテゴライズされるのに困惑していました。小林は《モネは、印象主義という、審美上の懐疑主義を信奉したのではない。 持って生まれた異様な眼が見るものに、或は見ると信じるものに否応なく引かれて行ったままであろう。どんなに強い意識を持とうと、又、これによって論理的な主張をしようと、その通りに仕事ははこぶものではあるまい》(「近代絵画」)と言います。





中野:印象派って言う奴の印象が悪いって(笑)。





適菜:合理じゃ頂点を極められないんです。概念化・言語化される過程で取捨選択が行なわれている。言葉で伝達できない領域がまさにそれです。近代人は傲慢だから「話せばわかる」というけど、話したって伝わらないことは山ほどあります。その領域を伝えるのが師弟関係であり、それを身に着けるのが修業であったり、イチローの例でいえばトレーニングですよね。





中野:それで言うと長嶋茂雄の言うことって皆ギャグにしてますけど、長嶋は教えるのにオノマトペっていうんですか、「ブワーっと」とか「ガーッと打つ」とか、そんなことばかり言って、何言っているんだか分かんないらしい。だけど、それを言葉で合理的に教えるっていう発想自体が、もう間違いなわけです。だから、一流は一流を知るから、松井秀喜はほんとに長嶋のことを尊敬してますよ。長嶋と松井は、ほんとの師弟関係らしいじゃないですか。





適菜:どうやったら泳ぐことができるかは、言葉では説明できない。とりあえずプールに行って、水の中に入って、慣れないと始まらない。水の中でジャバジャバしてるうちに、泳ぐということを体が理解する。だから「ジャバジャバ」なんです。長嶋茂雄と同じ。





中野:保守思想家のマイケル・オークショットやマイケル・ポランニーも、同じことを言ってますね。料理っていうのは、料理本を読んで作れるもんじゃなくて、料理を実際に作って体得しないとだめなんだ、とかね。自転車に乗るのも、そうですよね。そういう実践して体得する暗黙知を非常に重視している。その暗黙知を体得するには、型をマスターするしかないんですよ。だから、野球とか相撲なんかがそうですけど、ああいう「型」重視のスポーツというのは、やっぱり面白いなと思う。アスリート達は本能的に型が大事だと知っているから、型を極めようとしている。



 私の分野で言うと、政治学とか経済学とか、あるいは政治とか経済政策とか、そういったものも本来は同じだと思うんです。理論のとおりに一律に政策を執行するのではなく、環境や状況に制約された中で具体的な政策実践の工夫を積み重ねるべきで、その政策実践を通じて理論を体得すべきなのです。だから、じつは政治とか経済政策とかいうものはね、もっとスポーツみたいに考えるべきで(笑)。







適菜:先ほど少し言いましたが、理論を現実世界にあてはめればうまくいくという発想が間違っているのは、歴史が証明していますね。ロベスピエールもポル・ポトもそうですが、インテリのマッド・サイエンティストみたいなのが、すぐに「理性的判断」などと言い出す。思い上がりもはなはだしい。



 コーヒーの香りですら言語では説明できない。しかし、言語や概念だけで世界を解釈できるというのが近代的な妄想です。逆に言えば、言語化できない領域を切り捨て、数値化し概念操作した結果が「近代」です。こうした近代のシステムの暴力を指摘したのが小林や保守主義者であったとしたら、近代人はそれを理解できないわけです。だから小林を扱った評論も愚にもつかないものが多いのですね。





中野:まさにそういうことです。





(第4回につづく)





著者紹介



中野剛志(なかのたけし)



評論家



1971年、神奈川県生まれ。評論家。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“TheorisingEconomicNationalism”(NationsandNationalism)でNationsandNationalismPrizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『日本経済学新論』(ちくま新書)、新刊に『小林秀雄の政治哲学』(文春新書)が絶賛発売中。『目からウロコが落ちる奇跡の経済学教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)が日本一わかりやすいMMTの最良教科書としてベストセラーに。





適菜収(てきな・おさむ)



作家



975年山梨県生まれ。作家。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム近代的人間観の超克』(文春新書)、『安倍でもわかる政治思想入門』、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』、『国賊論 安倍晋三と仲間たち』『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)など著書40冊以上。「適菜収のメールマガジン」も配信中。https://foomii.com/00171



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